佳月枯影

芸術に生きようともがいてる人です。 迷走している人生を少し美しく表現しようかなと。 喋…

佳月枯影

芸術に生きようともがいてる人です。 迷走している人生を少し美しく表現しようかなと。 喋り口調で書いておりますので、ゆっくり、深呼吸をして、一文ずつ咀嚼して読んでいただけると幸いでございます。

マガジン

  • 我輩は人である。希望はまだない。

    希望という名の自己満足を 2023年10月2日〜2023年12月22日

  • 過去・未来ぼくら対せかい

    少し人生の歩みを止めるときにみるもの。 2023年6月23日〜2023年10月1日

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吾輩は人である。希望はまだない。

「そんなに人間味あるんや」 ある友人に言われました。 その友人曰く私はあまり悩みなどなさそうとのこと。 さらには何か馬鹿にしているんじゃないかと言われてしまいました。 何か企んでいるのではと思われるそうです。 ですが実際のところ、今の私はそんな人間からは果てしなく遠くにいます。 メンタルは最弱クラスですし、何か特別な能力も、相対的な実績も、誇らしいことも、ましてや誰かから頼られるなんてのもありません。 明日生きるための意味を見出すのが精一杯でございまして。 この帰省の二

    • 錆びた軽自動車は 動きたいと叫んでいた。 でないと邪魔だと言われる。 でもギアは動かない。 目の前の道路には 眩しいほどの光で暗闇を照らし真っ直ぐ進む者ばかりだ。 タイヤもギアもエンジンもあるのに。 ガソリンがない。 燃やすべき何かがない。 私は久々に同士に会った。

      • 教育は不幸な人がすべきかもしれない

        「教育」という分野は恐ろしい。ましてや受験生を見るなんて。 幸い人数は増えたが、その分抱える責任が多くなっただけかもしれない。 自分の人生さえままならない私が、人の人生の分岐点で重要な役割を果たさなければならないのは全くもっておかしな話である。 ではそんなフラフラした私が、人生を睨む受験生に何を伝えられるのか。 多分それは、フラフラしてていいということかもしれない。 大学受験で人生は決まらないし、ましてや大企業に入ったら幸せが約束されるわけではない。 分かってはいるけど、

        • 夏を睨みつける。 子供にも大人にもなれない僕らが 後悔とタバコに火をつける。 あの物語は青春だったと気づいた頃には タバコは燃え尽きる。 灰は落ち、煙は明日に消えていく。 軽くもない荷物を背負って、ただ目を輝かせていた少年たちは 汗と頭痛と感傷で目覚めた この夏を睨みつける。

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        吾輩は人である。希望はまだない。

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        • 教育は不幸な人がすべきかもしれない

        • 夏を睨みつける。 子供にも大人にもなれない僕らが 後悔とタバコに火をつける。 あの物語は青春だったと気づいた頃には タバコは燃え尽きる。 灰は落ち、煙は明日に消えていく。 軽くもない荷物を背負って、ただ目を輝かせていた少年たちは 汗と頭痛と感傷で目覚めた この夏を睨みつける。

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        • 我輩は人である。希望はまだない。
          8本
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        記事

          なぜ散りゆく桜を見て泣き、ドアノブを捻ることができないのか。

          昨日、精神を削った研究期間が終わりを告げた。 今思えば私の不確定な状態というのは10月辺り。 しかし、残念ながら私のスタートラインは学問的な不安からの解放を求めたわけではなかったのかもしれない。 今回の「学問の祭り」に入った経緯としては、いろいろ言ってはいるが、結局私の何か変えたかったのだと思う。 勉強期間としてはおそらく5ヶ月間。 受講生との関わりや、その葛藤があった。 数字では表せない何かを追う日々。結果でも利益でも理屈でもなく、ただただ己の好奇心のままに「今」疑問に思

          なぜ散りゆく桜を見て泣き、ドアノブを捻ることができないのか。

          吾輩は人である。希望はもうない。

          私はあの子に話したいことがたくさんあります。 挫けてしまったことや、人を信じれなくなったこと、自分に自信がないこと。 夢も失敗もあったこと。 あの日、あの子が帰らぬ人となりました。 夢に直向きに走ってきたあの子はもういません。 かつてあの子が追いかけていた光も、道も、信仰も、 今となってはいないのです。 あの子ならきっと頑張れとか、信じろとか言うと思います。 捻くれた自分にも、嫌われている自分にも自信があったと思います。 あの子は当初頑張っていました。 芸術を救うんだとか

          吾輩は人である。希望はもうない。

          思い出なんて消えてしまえば、きっと

          アドラー心理学によれば、人を褒めることはあまりいこととされていないそうです。 褒めるという行為の裏側には自分がその人よりも上であるということ。そして、自分が勝手に相手に押し付けた期待が満たされた状態だそうです。 やはりアドラーさんも他者について考える際に「期待」はダメであると言うらしいです。 僕の人間関係に期待の要素がないかというと全くそんなことはありません。 友人関係において、僕が友人だと思っているあの人たちはきっと僕のことを友達だと思ってくれている。この考え方はおそら

          思い出なんて消えてしまえば、きっと

          傷つくには、あまりにも美しい

          フロムの「愛するということ」 名著と呼ばれるに相応しい内容でした。 要するに愛とはテクニックであって、コントロールできるものであり、まずは自分を愛することから始めようということだ。 納得はしたし、理解はできた。 でも果たしてそうなのか 自分を心底愛していない私が立ち直る方法は 瞑想でも 集中力でも 忍耐力でもない気がする。 愛の方向をコントロールできるとしたら、決して自分に向くことはないと思う。 愛を向けたら愛が返ってくるというが、私はそれを経験したことはない。 愛

          傷つくには、あまりにも美しい

          この歩幅で

          冬の帰省も終わり、再び九州に帰ることになりました。 約二週間の帰省を経て、また一つ前か後ろか一歩進むことができました。 長らく私の心に根付いていた自尊心や傲慢さ、期待と絶望感を一気に一つの箱に入れたような、 自分の今までの後悔や、残してきたものを再確認できる期間になりました。 さて、今回紹介する絶望と希望は大きく二つになります。 どちらも自分の過去の呪いであるかのような、 はたまた過去からの希望のような、 そんな二つをご紹介いたします。 せっかくですのでまずはこの度感じ

          この歩幅で

          朝がやがて来るはずの地平線をそっと撫でる(2023より2024へ)

          2023年もまた過ぎ去ろうとしている中、柄にもなく今年を振り返ってみようと思いました。 思えば、2023年1月1日は高校生でした。 体感では高校生なんて遥か彼方前の記憶でございます。 卒業式を控え、現実も社会も何も考えず、ただ未来に希望と夢を抱いた青年でした。 そう考えると今の私は、あまりにも自分に向き合う時間を多くとってしまいました。恋心も愛情も友情も人生についても面と向かって向き合う時間が残酷なまでに多かった一年です。 2023年3月末 ついに親元を離れ、単身一人暮ら

          朝がやがて来るはずの地平線をそっと撫でる(2023より2024へ)

          信用でなく信頼 しかし背水の信仰となる。

          私の短い人生を語る上で、「人」というのは必要不可欠でございます。 何度か嘆いていた通り、私の生き甲斐と言いますか、生きる理由みたいなものは大概「人」であることが多いです。 人間誰でも何かに縋るものです。 趣味や目標、野望に縋る人もいれば、 いいねの数や経済力など、計測可能なものかもしれません。 そんな中、私は「人」に縋ってしまうのであります。 ある個人を指すこともあれば、大人数の組織の場合もあります。 ですが、いずれにせよ大体は「人」でございます。 さて、そんな人を語る上

          信用でなく信頼 しかし背水の信仰となる。

          いまだに遠くで止むことはない、あの日の8ビート

          お天道様が顔を見せにくくなる時期になりました。 朝は暗く日中も元気がないようで、ましてやすぐに顔を沈めるようになったものです。 さて、最近はどうしようもないことですが、未来とか将来のこと。現在私が手放しで信頼できる人はいるのか?などを考えているわけです。 しかしながら、答えはましてや、希望も、人も見つけれない日々でございます。 そんな中、ふと自分の価値とは何かを考えるようになりました。 価値といえど、さまざまな指標はあるかもしれません。 私の中での己の価値というものは

          いまだに遠くで止むことはない、あの日の8ビート

          「友」の方程式

          日が落ちるのも早くなり、少し肌寒さを感じる時期になりました。 同時に気分が落ちるのも早くなり、まだまだ長いトンネルの終わりは見えそうにありません。 最近よく「人生に迷走する。」という言葉を使います。 心と体を一つの志にすることを目標とし、常に人生に迷走するようにしています。 そんな中、最近私の心を蝕んだ話がございまして、 それは私の長年のテーマであり、決して離れられていない「友」でございます。 苦しむ原因は他にもあるでしょうが、あらかた 「自分が友人だと思っていても相手は

          「友」の方程式

          別府、大阪、東京と心の成れの果て

          先日帰省しました。 私の通う大学は別府というものすごく辺鄙な場所に存在するのですが、私が住んでいるのは別府の中の山の上。 辺鄙な別府の中で一番辺鄙な場所で生活をしておりました。 私はそこを密かに監獄と呼んでいました。 そして8/5の昼、30分間ほどバスに揺られ、別府市駅へ、 別府駅から大分空港へ、そして成田空港へ仮釈放へと向かった。 「東京」 何度か行ったことはありますが一人でゆっくり徘徊したのは初めてでした 私が向かったのは東京ジャーミイ。 オスマン様式の美しいモスクで

          別府、大阪、東京と心の成れの果て

          「人間」と「教育」と「後輩」

          高校時代。 私が大切にしていたものは大きく三つあります。 「友」「恋人」 そして「後輩」です。 私は部活動で偶然同じになった後輩をかなり大切にしていました。 大切というのも、もちろん恋愛的な話でもなく、ましてや美術部の部長としてでもなかったのかもしれません。 人生に迷走してからというものの、今までのこの後輩たちへの関わり方を振り返ってみました。 それはなんとまあ、ただの先輩というには近く、教育者というにはどこかブレブレでした。 とにかく私は後輩たちに慕われ、そのお返しとして

          「人間」と「教育」と「後輩」

          平和の天使たるアートと資本主義の飽和

          今回は少し思想が強いかもしれません。 私が現在目指しているのは 「平和の天使たるアートと資本主義の飽和」です。 私の心を貫通しているこの2本のイデオロギーが、今なお私の行動に矛盾を生んでしまっているのです。 どこまでこの「心」の活版として言語化できるかわかりませんが、この「平和の天使たるアート」と「資本主義」の「飽和」についてお話しいたします。 まず「平和の天使たるアート」ですが、この平和の天使というワードは完全にカトリック的思考です。 かつて私が中学高校と六年間嫌にな

          平和の天使たるアートと資本主義の飽和