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なぜ散りゆく桜を見て泣き、ドアノブを捻ることができないのか。

昨日、精神を削った研究期間が終わりを告げた。
今思えば私の不確定な状態というのは10月辺り。
しかし、残念ながら私のスタートラインは学問的な不安からの解放を求めたわけではなかったのかもしれない。
今回の「学問の祭り」に入った経緯としては、いろいろ言ってはいるが、結局私の何か変えたかったのだと思う。

勉強期間としてはおそらく5ヶ月間。
受講生との関わりや、その葛藤があった。
数字では表せない何かを追う日々。結果でも利益でも理屈でもなく、ただただ己の好奇心のままに「今」疑問に思ったことを徹底的に叩く。そんな日々は二面目の赤子を抱く資本主義の私にとっては、日々苦悩し、脳が焼き切れる寸前であった。
お金も単位も出ず、正直なぜこれをしているかわからない重労働を経て、5ヶ間の私は息を引き取った。
普段の私なら絶対に立ち入ることのない「せかい」では私には到底辿り着けない領域にいる人たちばかり。
自身に湧き出る抑えきれない探究を論文という形に整列させていく先輩や、同じ仲間ばかりだった。過去に囚われ未来を恐れる私から見た、彼らにはいかなる風や雨でもびくともしない、絶対的な軸が地面にまっすぐ突き刺さっていた。
勝利も敗北もない世界での迷走は迷走と呼ぶに相応しい学びを与えてくれた。比較癖が多い私の世界から彼らを見た時、圧倒的に私にはある要素が足りていなかった。
それは「愛」である。
別の班の仲間は、自身が抱えてる受講生と究めるべき学問に「愛」があった。
私にはこれがなかった。
緻密な計画と代替案をマトリックス化し、効率的に合格点になるであろうクオリティーを最短距離で達成できる計画と、成長できるであろう様々なメゾットを前もって用意した私に「愛」はなかった。
「愛」がある他のリーダーは、何か壁にぶつかる度、何か苦悩に見舞われるたび、受講生と共に頭を抱え、自らが愛する学問を究めてきた。
その差は言わずもがな歴然。
アカデミックとはこういうものなのだなと血肉に刻み込んだ。

さて、久々に集中して取り組んだ「はじまり」と「おわり」を経て今は消えゆく花火の散り散りの残光をできるだけ長く見ている。
「おわり」が悲しいのは重々知っているつもりである。
私の隣で同じ立場の仲間たちは、達成感と喪失感に襲われ涙をこぼし、
こぼれ落ちる言葉を受講生に丁寧にまっすぐ伝えていた。
私も同じく喪失感を噛み締めている。
ここから得た学びから新たに問いを生み出す「はじまり」にもまた同じ悲しみがあるのではないか。
沈む夕日を見た時にこの日々が「おわる」ことが悲しいのか、それとも明日が「はじまり」ことが苦しいのか。

もしそうなのであれば、「おわる悲しみ」と「はじまる苦しみ」の間で溢れ出すこの涙には全くもって消えて欲しい。
デューイのいう探究サイクルは、私のような人間には非常に精神力がいる。
「おわること」と「はじまること」の環状線を、儚くも進んでいけというのだから。

もしこの悲しさが、私のような人間がプラグマティックな生き方をする上で必要なルールならば、
今感じる喪失感も儚さも哀しさも達成感ですらも、
前進であると呼べるかもしれない。
だからこそ今までの奥ゆかしくも散りゆく感傷を拾い集めていかなければならない。

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