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思い出なんて消えてしまえば、きっと

アドラー心理学によれば、人を褒めることはあまりいこととされていないそうです。
褒めるという行為の裏側には自分がその人よりも上であるということ。そして、自分が勝手に相手に押し付けた期待が満たされた状態だそうです。

やはりアドラーさんも他者について考える際に「期待」はダメであると言うらしいです。
僕の人間関係に期待の要素がないかというと全くそんなことはありません。

友人関係において、僕が友人だと思っているあの人たちはきっと僕のことを友達だと思ってくれている。この考え方はおそらく非常に傲慢な押し付けがましい期待であります。
「きっと僕が友達だちだと思っている人は僕を友達だと思ってくれている。」
「きっと僕が会いたいと言った人は僕に会いたいと言ってくれるはず。」
「きっと僕が話しかけたあの人は僕に話しかけてくれるはず。」
きっと友達と笑い合っている人たちはこの過大な期待が同じ熱量で分かち合っている奇跡の状態であると思います。


そんな僕に一つ解決策があります。
それは、はなから「友達」だと思わないことです。
自分がどう思っているかという主観はおいておいて、100パーセント相手は僕を友達だと思っていないと思い込むことが重要です。

こんな僕なもんですから、友人の動向を見ていた私でしたが、たった今日まで僕に届く何かというのは、毒されたパーソナライズ広告か公式ラインからのクーポンくらいです。
最初は自分の好きな人たちに対してそう思うのは苦しいものです。
独りになるとさらに苦しみは増します。
ですが、この苦しみを耐え続けると、ある日を境にぷつりと寂しさも虚しさも感じなくなります。
ただ今まで友人だった人がそこにいるだけで、話しかけてほしいだの、話そうだの思わなくなるものです。

では無意識にある「期待」とはなんでしょうか。
おそらくそれは、今までの思い出だと思います。
「思い出」というと、良いものもあれば悪いものもあります。
私たちは両方忘れていってしまうものですが、友人関係ばかりは「良い思い出」ばかり脳裏に残っていると思います。
場面場面の楽しい情景が脳裏を駆け抜け、またあの楽しい情景を見たいという感情が「期待」に繋がって行くのだと思います。
一緒にラーメンを食べた瞬間
語り合い気づけば空が薄明るくなった瞬間
鴨川の桟橋で身震いしながら「寒いね」と言われた瞬間
昔のように大声で叫び歌った瞬間

駆け抜ける思い出たちが僕の心に絡みついています。
絡みつき重くなってゆく。
しかしながらその美しいはずの思い出たちが、ただ去っていっただけだと思い込めないのです。
あの頃の美しい景色をもう一度見たいと思う僕がいるのです。
だから、期待してしまうのだと思います。

人に期待しない。
それは思い出を消してしまうことなのかもしれません。
僕ももう傷つくのは嫌です。
なので少しずつ心に抱きつく思い出たちを消していこうと思います。

そうすれば、きっと。

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