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平和の天使たるアートと資本主義の飽和

今回は少し思想が強いかもしれません。

私が現在目指しているのは
平和の天使たるアート資本主義の飽和」です。
私の心を貫通しているこの2本のイデオロギーが、今なお私の行動に矛盾を生んでしまっているのです。

どこまでこの「心」の活版として言語化できるかわかりませんが、この「平和の天使たるアート」と「資本主義」の「飽和」についてお話しいたします。

まず「平和の天使たるアート」ですが、この平和の天使というワードは完全にカトリック的思考です。
かつて私が中学高校と六年間嫌になるほどほど聞いてきたものですが、かなり本来の私に近い発想であり、目指すべき聖なる精神とでも言えるものです。要するに他者に対し、見返りなく奉仕し、自分の掲げる正義と不鮮明な未来に寄与する人間のことを指すそうです。
資本主義的思想が植え付けられた私にとってはかなり難しい行為です。
私の美術の恩師はまさに平和の天使です。何十年と同じ学校で勤め、私の先生の元先生の元担任であったように、私に影響を与えた人を育てていた人です。
その恩師の奉仕のエピソードがあります。
私の後輩が中学生の頃、いじめに遭い、不登校になったことがあります。
校長先生が何度か後輩の家に行き、相談に乗っていたそうです。
その後輩は絵を描くことが好きで、それが救いになっていました。
その子の家に通い、絵を教えたのがその恩師です。
しかも給料を貰わず、ただ見返りを求めない「善行」がそこにありました。
私が目指すべきはここです。

しかしながら私は中途半端に資本主義に飲まれ、すぐに見返りを考えてしまいます。
アートを愛す人間の一人として、資本主義に飲まれすぎるのはあまり良いものではないのかもしれません。
生産性も再現性もない、資本主義の観点から見れば無意味に思われる行為に芸術が宿ったりします。
今私は経営学部という資本主義の渦中にいます。
なぜなら経営という総合的な学問は、資本主義に馴染めない芸術だからこそ、キャピタリズムにコネ固められたこの世界で生き残る上で必要だと思ったからです。

私がよく言う「資本主義にのまれる」と言う状態には大きく三つあります。
・相対的に自己評価をする
・時間と労働力をコストとし、等価交換の意識を持つ
・金銭の動きや組織の動きのオペレーションを瞬発的に考える

この三つからの脱却はかなり骨が折れそうなもんです。
いかんせん私は現在、セロトニンの低下が顕著なもんで、
そもそも資本主義やら美術やら奉仕やらを考える余地は少ないものです。

この「相対的に自己を評価する」と言う点ですが、
要は他人と比べて、ヒエラルキー上の自分の居場所を確認する行為です。
人間というのは承認欲求と言いますか、防衛本能と言いますか、自分を肯定したい生き物です。
私もその例外ではないですが、相対的に評価した上で自分を肯定しようと思うと、相対的に自分より低い人を見てしまいます。さらには自分よりも上の人に嫉妬し、さらには上下だけ考えると横には誰もいなかったりもします。
この腐りきった精神を完全に破壊するためにも、一度とてつもない絶望に見舞われるか、それとも「絶対的に誇れる何か」を見つける必要があるようです。


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