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信用でなく信頼 しかし背水の信仰となる。

私の短い人生を語る上で、「人」というのは必要不可欠でございます。
何度か嘆いていた通り、私の生き甲斐と言いますか、生きる理由みたいなものは大概「人」であることが多いです。

人間誰でも何かに縋るものです。
趣味や目標、野望に縋る人もいれば、
いいねの数や経済力など、計測可能なものかもしれません。
そんな中、私は「人」に縋ってしまうのであります。
ある個人を指すこともあれば、大人数の組織の場合もあります。
ですが、いずれにせよ大体は「人」でございます。

さて、そんな人を語る上で最近私が感じる事柄を少しずつ言語化している道半ばではありますが、「信じる」ことがどうも苦手ではないかとある人間に指摘されました。
確かに私としては、得にそんなつもりではないかもしれませんが、少しばかり素直ではないことを自覚し始めました。
虚無主義と奉仕の精神の両翼を得た詩人のような生き方はなんとも辛いものがあります。
「信じる」の「信」というと、「信を示す」と「信を置く」があります。だがしかし、残念ながら私の心はまだ「信」を置くことはできていませぬ。
互いに向かい合って座ったとは言っても、そろそろデザートが出てきてもよろしいほど満腹になったとて、私の「信」はまだコップには入っていません。

向かいの席にちょこっと座る友と呼ぶべきかすら誠でない人類の本心とは相俟って発せられているのかもわからぬ振動を言葉として認識はできます。ですが、その言葉を咀嚼した挙句心で消化することができずにいる情弱な私の精神はどこから来てどこに去って行くのでしょうか。

さて、「人」と「信」というとよく「信用」と「信頼」という言葉が流れてきます。私にはこれが足りていません。そんなの、目の前で楽しそうな我が信ずべき、友とも呼ぶべき人類に対して大変失礼ではありませんか。
「信じて用いること」だと言いますが、用いるという表現はあまり好きではありません。まるで私がその友人を利用しているように感じるではありませんか。私はその友人たちを過去の実績や数字なんて見たこともなく、ましてや、見てほしいとも思っていません。むしろ彼彼女らには、私の心臓に根付くセンチメンタリズムを過去のものとして笑い飛ばしてほしいものです。
社会も実績も恋愛でもなく、
限りになく非生産的な一個人同士の一本だけの繋がりが良いのかもしれないです。
こんな少し合理的で冷たい印象がある「信用」とは相俟って、「信頼」という言葉もあります。私はこちらの方が好きです。「信用」とは違って「信じて頼る」わけですから、合理より感情的に相手に身を委ねている感じがしますし、なんせ未来に寄与している感覚が好きです。
なんて考えてはいるものの、目の前の友の言葉を簡単に信ずることのできない私にそんなこと言う資格はないかもしれません。

さてここからが今回のメインディッシュでございます。
私の縋る「人」でございますが、ヒラヒラと彷徨い、挙句の果てに散っていきそうな沈黙が続いております。
縋りきれない我が心と、「信頼」できない我が情弱な精神はついには「信仰」にまでずれてしまいました。

人として希望を見出せない私の背水は死であります。
生物としての死なのか、精神的な死なのかは定かではありませんが、間違いなく私の何かに読点でなく、句点が打たれてしまうことになりそうです。
背水に片足立ちの我が信念は、「信仰」と言う方向転換を果たしました。
つまりは、向かい合って飯を食らう友を存在しないと仮定した上で、それでも尚信じれるようになれば良いのではと考えたわけです。
数字でも安心でもなく、「熱狂」と呼ぶべきなのでしょうか。
存在していないのであれば、私の行動になんの関心も感情も、友情も、嫌悪感すらも向けなかったとしても納得が行きますし、私もそれを前提にできるわけです。

さて、
言葉を全てとして受け入れるでなく、態度と行動で人をみる私は果たして悪なのでしょうか。
言葉と行動のずれを察知するのは悪でしょうか。
これもまた感傷主義で疑心暗鬼な我が精神の真髄ゆえなのでしょうか。

来週、来月、来年と、一つの動かざるテーブルを挟み、
屈託のない笑顔で、
1人の人間として心の底から「信頼」し合える人と、
人生という香ばしい料理を食らうことができるでしょうか。

私は、ふと、コップを倒してしまったようです。

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