見出し画像

「帰国子女として生きた12年間」

皆さんこんにちは、

突然ですが、

ブランコに乗ったことがありますか?

上の幼き頃が全力で乗っているように、

僕は人生はブランコだと思っています
ブランコのように何度も揺さぶられ、真っ直ぐ行かないと上手く前後に行きません。
だけど僕は真っ直ぐ行くことだけが正しい道ではないと思います。

人それぞれで色んなことに悩まされながら、自分の道を探していくことが大切だと思います。

人生で一度は、「帰国子女いいなー」と言ったこと、又は聞いたことがありますか?

今日は帰国子女への偏見自分自身を理解することの大切さを伝えたいと思います。

今日は私が経験した海外生活の経験、日本に帰国してからの経験をお伝えします。最初に伝えておきますが、私は日本の在住歴が6年なので、日本語がとても下手なので、許してください笑。

このノートを通じて同じ悩みや苦悩を乗り越えた仲間、今苦しい時間を過ごしている人に少しでも力になれればと思います。

私の生まれは日本ですが、家族はもう既に韓国に住んでいて、僕の出産のために一旦帰国し、1ヶ月後戻ったという形になります。生まれてからの約4年間を韓国という国で過ごしました。鮮明な記憶があるわけではありませんが、韓国の人は優しく、日本人である我々家族を暖かく受け入れてくれました。当時の私は、日本語もですが、韓国語が自然と少し話せたそうです。


韓国
🇰🇷 → 日本🇯🇵


私がちょうど幼稚園生になる頃、日本に帰国し、ごく普通の地元の日本の幼稚園に入ります。
若干写真の僕は荒ぶっている様子ですが、あまり気にしないでください笑(そういう時期です)

ピースを教えてもらった私です。
ポーズという概念を失っていた私です。
運動会で初リレー選になり、緊張している私です。

人生での初めの壁は「言語」でした。第一言語が定まらないまま韓国語と日本語を学んでいたためか、日本語の習得が周りと比べてとても遅かったそうです。まともに話せるまで時間が長くかかったそうです。ひらがなやカタカナなど覚えるべきことが覚えれず、親がとても苦労したと言っていました。私は割と内向的な性格で、プラレールやトーマスなど自分の世界に没頭する少年でした笑。


転機が訪れたのは、小学2年生、父親の中国の転勤が決まったことでした。日本という世界しかほとんど知らなかった私にはただついて行くことしかできませんでした。

日本🇯🇵→中国🇨🇳

小学2年生で中国の上海にあるインターナショナルスクールに通い始めました。クラスは二つあり、一つのクラス20人ほどの人数でした。

驚くことに、クラスの人はみんな違う国から来た人でした。まだ幼い自分からすると異国の地で、異国の人と勉強をすることをあまり理解できておらず、「とりあえず頑張るか」という感じでインターの生活がスタートしました笑。


全く違う国や文化を持った人達の唯一の共通点が「英語」という言語で繋がっていることでした。フィンランド人、イタリア人、南アフリカ人、ベトナム人など、様々な人達が英語という言語を通じてコミュニケーションをとっていました。この時人生で初めて、英語という言語の素晴らしさを自覚しました。

中国のインターで初めてぶつかった壁は、言語という壁でした。当時の自分は、英語が全く喋れず、自分の名前を英語で表記すること、つまりアルファベットを覚えることから始まりました。最初は全く言語が通じず、鬱や神経質な心理的ストレスを自分の中で抱えていました。
しかし、その中で支えになったのが、兄弟の存在でした。
2つ上のお姉ちゃんと3つ下の妹の存在が大きな支えでした。頑張っているのは自分だけではないという気持ちからなんとか頑張れた気がしました。


英語を学びつつも、週に2回、日本語の補習校に通っていました。小6になった頃から1年間は三つの言語とスペイン語を学んでいました。日本語、英語、中国語、スペイン語という4つの言語を同時にやることは自分の中でとてもキツかったことを覚えています。

そんな辛い日々の中で、サッカーというスポーツの存在が私の人生を支え続けてくれました。全く英語が話せなかった時期の昼休みは一人でボールを蹴ることがよくありました。学校には一つ小さなサッカーグラウンドがあり、そこで毎日のように「ワールドカップ」をしていました。英語が全く話せなかった頃は、カタコトの英単語で「Can I play?」と言って入れさせてもらいました。いつボールが欲しいなど、会話は全部ジェスチャーなどを使って会話をしました。


スポーツを通じていつのまにか友達はでき始め、少しずつ英語が話せるようになりました。一年半経つ頃には周りと会話ができるくらい話せるようになりました。

中国🇨🇳→台湾🇹🇼


時が経ち、また転機が訪れます。小学6年生の頃に、台湾への転勤が決まります。これまで幼少期を共に過ごした仲間との別れは辛かったです。そこから少しずつ、自分とは何者なのかという疑問を覚え始めます。

台湾は中国と打って変わって親日の国で、日本人だというととても喜んでくれたりする人が多かったです。韓国と同じ、統治時代の歴史がありながら、台湾の人は日本が台湾をプラスの意味での変革をしてくれたという見方なのでしょう。
台湾では新竹という首都の台北からバスで2時間くらい離れた田舎に住んでいました。新竹にあるインターナショナルスクールに通い始めました。中国とはまた全く違う環境で、学生は台湾人が8割で、日本人や韓国人、そして少しアメリカやヨーロッパから来た人達が居ました。英語が公用言語でありながら、台湾人ぼ人が多いため、中国語をよく会話の中で使いました。


中国では浅くしかやってこなかった中国語を台湾では深く勉強しました。現地のサッカーのチームにも入り、中国語を話す絶好の環境でした。2年ほど月日が経ち、ある程度中国語も話せるようになりました。

そしてまた転機が訪れます。僕が高校生になるタイミングで日本に帰るということです。ずっと海外に住んでいた自分からすると日本は自分の理想郷であり、逆に日本語ができないことからの恐怖もありました。人生の大きな分岐点でもある、海外で日本の高校への受験が始まります。

中学2年生の頃から首都の台北市にある日本の塾に通い始めました。初めは学校の方も忙しく、バスで往復2時間半、中学生には週1でも十分きつかったですが、頑張って通っていました。中3になると週2で、土日は両方塾に行く生活でした。受験が極々近づくにつれて、泊まり込みで塾の寮に泊まり、勉強をしました。台湾の時は同じインターに通う日本人の親友の存在がとても大きかったと思います。現地のサッカーチームに飛び込めたことも、遠い塾に2年間通い続けられたことも、全部親友が居てくれたからだと思っています。



中学2年生の頃はひらがなすらろくに書けないこともありましたが、塾と日々の勉強の結果、二つの高校に合格することができました。そして、結果的に東京の男子校に決めました。

台湾🇹🇼→日本🇯🇵

晴れて夢であった日本の高校に合格し、楽しい高校生活が始まるはずでした。しかし、現実はそんな甘くなかった。小学校から内部生が多くいる高校だったため、入学した時から早くもグループができていて、友達ができなかったです。7年ぶりの日本ということから一般の日本の高校生と「価値観の違い」からとても悩まされました。インターでは授業中に発言することが一般常識だったため、日本でもわからないことや先生の問によく手を挙げました。それに対して、今の若者で流行りの「いきり」という言葉をよく言われるようになりました。英語の授業中に海外で培ってきた英語を話すと、「英語いきり」などと呼ばれました。そしていつに日からか英語を喋ることを躊躇い、英語が嫌いになっていました。英語が嫌い、つまり今まで海外生活の意味はなんだったのか?と一人ベットで悩む時間が増えました。家族一人一人帰国して自分の現状で手一杯だったため、誰にも相談できず、ただただ自己嫌悪に陥り、自殺願望を抱いたこともありました。


部活もサッカーに入りましたが、7ヶ月ほど両方の骨盤の骨折や腰、足首の怪我から一人辛い時間を過ごしました。更に、当時日本でうまく生きていく術を知らなかった自分は、サボる部内の同級生と衝突し、結果的に部を辞める選択肢を選びました。クラス内では、「いじられる」という名目から携帯を一日中隠されるなど、財布の盗難、ロッカーの破損など様々な嫌がらせを受けました。唯一高校の担任の先生は僕の味方で居てくれました。僕が辛い時に話を聞いてくれて、嫌がらせにあったときも常に僕に優しい言葉をかけ、助けてくれました。部活と日常的にこれらのストレスを抱えた中、長い期間の海外生活から日本語の勉強はとても難しく、様々なことが重なる中で、勉強も手をつけられなくなりました。その結果、高校2年生になるタイミングで千葉の国際系の高校に編入することが決まりました。

東京の高校→千葉の高校

僕は日本で珍しい、ブレザーと学ランを両方着た人間かもしれないですね笑。

千葉の高校では最初は14人という小さなクラスでしたが、自分と同じ経験をしてきた帰国子女や海外からの留学生、多種多様なバックグラウンドをもった人達が集まっていました。今でもこの高校に編入したことは本当にいい決断だったと思います。

授業は8割型英語で行われ、先生も外国人というグローバルな環境で、自分の過去のインターで英語を学んでいた楽しさを思い出させてくれました。これらの経験を経て、結果的に第一志望であった東京の私立大学に合格することができました。まずここまで読んでくださった皆さんありがとうございます😊。

僕はこれまで出会いと別れを繰り返してきた人生でした。日本人でありながら、日本語が不得意で、日本に住んだ時間より海外で住んだ時間の方が多いです。高1の頃には、なぜ帰国子女だったんだろうとか、なぜもっと「普通」の日本人みたいな生き方じゃなかったのかと親を責めたこともありました。しかし、今は親にとても感謝しています。内向的な性格から周りと打ち解けられるようになったのも英語を学ぶきっかけをくれたのも親です。「普通」とは皆がなりたいと望むべきことであっても、なるべきものではないと思います。なぜなら、世界には様々な人が居て、様々な言語や文化が話されいて、世界中が納得する普通なんて存在しないのです。全く同じ国ではなくとも、帰国子女なら同じような苦悩を抱えているのではないかと思います。

帰国子女は出会いが多い分、別れが多い。1000人と会っていても、今も関わっているのはその1割もいないです。むしろずっと同じ場所に住んでいる人の方が長く、深い関係を築けていると思っています。どこにいて、誰といても、浮いているような感覚があります。これは多くの海外経験と言語を学んできた代償だとおもっています。高校生になり改めて思うのは、人間関係は広さではなく、深さです。どれだけの人数と関わるのでなく、どれだけ一人の人と分かり合えたかが重要だと思っています。

自分の経験からもう一つ伝えたいこととは、努力することの大切さです。目標を定め、その目標に向かって努力することは必ずしも報われるとは限らない、しかしいつの日か報われると信じて努力し続ければ報われると思います。今までの後悔をいい経験として捉えられるようになって欲しいです。

そして、気をつけて欲しいのは、僕は帰国子女だから、帰国子女だけで一緒いればいいと言っているのではないです。類似した経験を持つ相手と仲良くなることは確かに共感できることも多いし、安心できると思います。ですが、世の中みんな帰国子女というわけではないので、日本にずっと住んでいる「純ジャパ」の人達とどううまくやっていくかが重要だと思っています。社会に出れば、帰国子女、純ジャパ関係なく、人と接することは避けようのないことです。

そして、帰国子女の特権の一つはその「環境への対応力」だと思っています。どのような人がいても、どのような文化を持っていても、受け入れ、理解するよう努力できる。それが帰国子女である良さだと思っています。

この長い文章で読んでくれただけでどれだけあなたが心優しい方なのか想像がつきます。この文章を通じて帰国子女が可哀想とか同情は必要ないです!結局同じ人間であるわけだし、人間何かしらの問題を抱えて生きています。しかし、そういった配慮をするには近くに経験した人が必要です。つまり、僕の経験をより多くの人に発信できれば、より配慮できる人が増えるのではないかなと思います。

特に僕のような人生の大半を海外で過ごした方は、「日本での普通は普通ではないです。」
そんなの知ってるの普通だよ?ということを幾度となく言われたことがありますが、それは価値観を押し付けていることだと思っています。日本の都道府県が全くわからない、電車の乗り方がわからない、日本でのマナーがわからないなど帰国子女に限らずわからない外国人なども多いと思います。そういった方がいたら否定したり、敬遠するのではなく、優しく教えてあげてください!笑 僕はそういった優しい方々に本当に助けられました。

これらの全ての経験が私という存在を作り上げました。大人になりつつある今だからこそ、親の苦労や友達の存在の大きさを実感しています。本当に今まで育ててくれてありがとうございます。

この5000字の文章を通じて帰国子女へ少しでも不安などが解消されればいいなと思っています。そして、日本に住む純ジャパの方々に帰国子女への配慮や理解をして欲しいと思っています。将来的に帰国子女が日本でより充実した環境で生活できることを願っています。

読んでもらってありがとうございます😊
コメントや意見などありましたらぜひ送って欲しいです😊


この記事が参加している募集

noteの書き方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?