クラブで朝まで黙ってずっと体を揺らしているのに匹敵する体験としての、見詰め合ったままなことで数時間ひたすら感じっぱなしになるセックス
(こちらの記事の続きとなります)
見詰め合ったままずっとふたりとも目が離せなくなってしまうセックスの特別さというのは、自分がしたいことをしたいようにできていることの心地よさとは真逆の、感じていると心地よい相手をひたすらどこまでも感じ続けて、それに気持ちが動かされるままになっているだけなのに、それだけでどんどんいいセックスになっていくような心地よさによるものなのだろう。
そこにあるのは、感じることに集中できている気持ちよさだけではないのだ。
相手の感情に自分の感情を動かされて、感覚と感情の両方が同時に満たされることで、より深く気持ちよくなれているというのがあるのだと思う。
実際、自分ひとりで何かを思っていても、今まで考えてきたのと同じようなことを頭の中に繰り返しているばかりで、たいして何も感じていない場合がほとんどなのだ。
たまに誰かと騒いだり、多少楽しめる気晴らしをしていても、気持ちといえるようなものはほとんど動いていなくて、楽しかったからいいやと、楽しく時間を過ごしたことに自己満足しているだけだったりする。
他人の気持ちに触れて、自分の気持ちがしっかりと動かされる時間というのは、自分の感情と自分の生活がそれほど結びついていない俺にとっては、自分が何をどんなふうに感じているのかを確かめられているような感覚になれる時間で、それはおぼつかないものが自分の中から消えていくという意味で心から落ち着ける時間だった。
誰との話のネタになるわけでもないのに、いまだに音楽を聴いていたり、映画を観に行ったりしているのも、そういう時間ができるだけ欲しいからなのだと思う。
特に音楽は、三十三歳にもなっていかがなものかと思うくらいに、いまだに音楽を聴くことを気持ちの逃げ場にして、それに頼りきって生活しているように思う。
音楽の場合は、気晴らしのように自分の気分がよくなるために聴いていることも少なくないけれど、それ以上に自分の気持ちを動かしてもらいたくて聴いていることが多いのだと思う。
その曲を演奏している人の気持ちや意思の感触が自分の中に流れ込んで自分の中を埋め尽くしてしまうことで、自分の中に積もったちっぽけな感傷が洗い流されて、深く息をついて落ち着かせてもらえたという数分間が、今まで数えきれないくらいあった。
そういうときに自分が感じ取っているものは、音というよりも、その曲でどんな昂揚を作り出そうとしているのかという演奏者のイメージと、実際にそのような昂揚が浮かび上がるような演奏にしている、その一瞬の演奏者の演奏に込められている感情や集中力のようなものなのだと思う。
その人が何をやろうとして、そしてどんなふうにそれを実現できていて、そんなふうにできていることで、どんなふうに昂揚しているのかということが、そのまま自分の中に流れ込んでくる。
そして、そんなふうに演奏している人の感情のようなものをそのまま感じられた気分になって、その人の感情の感触が自分の中を埋め尽くしたとき、それは、自分のような小さくて弱いエネルギーを生きている人間からすると、自分の感情だけを生きているかぎりは感じられないような大きくて力強い感情が自分の中にある時間になるのだ。
映画を観ていても同じで、俳優の姿や表情や声に、そのキャラクターの感情そのものを感じているような気分になったり、画面に映る光景がそのような感触であることに呆然としたりすることがある。
そして、音楽でも映画でもそうだけれど、そうやって呆然と気持ちを満たされたあとは、目に映るものの見え方が違っていたりして、ひとつひとつのものがくっきりとその感触を伝えてきたり、そばにいる他人とのあいだに、はっきりとした距離感を感じたりする。
大きな気持ちに触れたことで、まどろんでいた自分の気持ちがショックを受けて、目の前のものに何かを感じる気力を取り戻したような状態になるということなのだろう。
日常生活での他人との関わりの中では、そういうものはめったにないのだ。
大人になってしまったあとでは、関わりがあるのはほとんど大人だけになってしまう。
ある程度の年齢を過ぎれば、多くの人は本気になって何かをすることなんてほとんどなくなってしまう。
強い気持ちを発しているのを目にするとしても、そのほとんどがヒステリーでしかないものだったりする。
いろんな事情や経緯や既定路線があって、みんなそれなりに疲れていて、頑張ってみたつもりでも、無意識にこんなもんだろうと思っている範囲でしか力は込もっていない。
少なくても、俺はそういうくたびれた人たちで構成された集団でしか活動していないから、目を奪われるような姿を目にすることはめったにない。
そして、俺にしても、頭を空っぽにしている時間はほんの少ししかなくて、いつでも何かをうっすらと気にしていて、他人のことなんてほとんどまともに感じ取れていないのだ。
俺の日常の中で、目の前の他人の姿に目を奪われるなんて、仕事でごく稀に少しと、あとは恋愛絡みとセックスだけなのだろうなと思う。
好きな相手にくっつきたくて、くっついて気持ちがいいことがうれしかったり、かわいいと思っていることを伝えたかったりと、セックスの中にはいろんな強い気持ちが動いている。
そして、それはこれまでのふたりの関りがあったうえで可能になっているやり取りだったりもして、今気持ちいいことが、ふたりが今まで過ごした時間を祝福しているような感覚にもなってくる。
お互いのあいだにそんなにも素晴らしいものがあるのだと思えてくるし、そうすると、その素晴らしいものをもっとどんなふうに素晴らしいのか確かめたくなって、どんどんと相手を感じようとすることに夢中になっていってしまうのだ。
そんなふうにして、聡美とのように、引きつけ合って目が離せない状態になって、相手を感じている度合いが高まった状態がずっと続くことは、あまりにも気持ちがよすぎることになってしまう。
風景に圧倒される時間であれば、数秒とか数分で終わってしまうのに、その時間が数十分とか数時間と続いてしまうのは、それがセックスだからなのだろうと思う。
親しい人と話し込んでいて、お互いの感情が満ちてきて、お互いが相手の気持ちをしっかりと感じ合っているのが身体でわかるような、じーんとした感覚に包まれた状態で会話がしばらく進んだりすることもある。
けれど、それにしたって、そこまで長い時間にはならない。
せいぜい三十分とか、一時間はいかないくらいだろう。
そんなにまでお互いが感情を示し合い続けられるような話題は、そこまで長くは続かない。
映画だって長くて二時間と少しで終わってしまうし、映画の中で盛り上がったり落ち着いたりしてしまうから、そんなにも全力で感じられている状態が続くというわけでもない。
けれど、セックスは、お互いの反応を確かめることに無心になれていれば、いつまでもそういう状態を続けていられる。
気持ちいいことをして、それが相手にとっても気持ちがいいことを確かめているだけでよくて、何かのネタを通してやり取りしているわけではないから、ネタ切れになることも、ネタを選び間違うこともない。
頭で何かを考えなくてもいいことで、いつまでも感じることに没頭し続けていることができる。
感じることに没頭したままで長い時間を過ごせる機会というのは、めったにないものなのだ。
自分が今までにしてきたことで、セックスに比肩できるくらいに何時間も長々と気持ちよさに没頭できていたことがあったとすれば、クラブで身体を揺らしていられたときくらいなのかなと思う。
いいロングセットであれば、四時間とか五時間のあいだ、ほとんどひとつながりで、ずっと音に意識を埋め尽くされたまま、その音の感触に気持ちを動かされ続けながら過ごすことができる。
音の気持ちよさと自分の身体の動きを混ぜあわせていくほどに、自分が身体を動かしていることと、音がそんなふうに続いていくことの気持ちよさとが混ざり合って、自分の身体が音で気持ちよくなっているとしか思えない状態になっていく。
朝になって周囲の人の数が減ってきて、鳴り響いている音がそろそろ終わろうかという雰囲気になっていくまで、延々とそれを続けていけるのだ。
彼女がいたからというのもあるけれど、もう二年以上くらい、行くと疲れてしまうからと、クラブに行くこともなくなってしまったけれど、どっぷりと自己嫌悪に浸ったまま抜け出せなくなっているときにクラブに行って、いいプレイにあたったときは、とてもよかったセックスをしているときのように、いつまでも気持ちが満ちた状態で気持ちよさが続いて、朝になって音が止まってしまったときには、感傷がすべて洗い流されてしまったような、疲労が自分の肉体を甘く濁らせていることしか感じられない状態になっていた。
そして、朝の景色を美しいとだけ思いながら部屋に戻って、何を思ったりするわけでもないまま眠りにつけていた。
逆に言えば、そんなにも深く自分の感傷や雑念を洗い流してしまうほどの時間を、聡美は俺にくれているということなのだろう。
ペニスを自分の中に入れさせて、自分がどんな気持ちかわかるように顔を向けながら、俺の感情を確かめ続けてくれることで、俺はそんなにも充実した時間を過ごせてしまっているのだ。
聡美が自分の中で盛り上がって、勢い任せにセックスをする人でなくてよかったなと思う。
ムードに酔ったようにして、自分の気持ちよさに集中してしまうのではなく、ずっと俺を感じていて俺から気を逸らさないでいてくれるから、ずっと視線が噛み合ったままでいられるのだ。
(続き)
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