何も思わず、ただ感じたままでいられたほうが、気持ちよくなれるし、喜んでももらえる
(こちらの記事の続きとなります)
眠りすぎてしまった昼過ぎに、起き上がってぼんやりしていると、自分の部屋がこんな部屋であることに改めて気が付いたような気分になったりすることがある。
そんなふうに感じるのも、起きたばかりの頭が空っぽだったからなのだろう。
頭が自分のことを思い出して、昨日の自分の続きを再開してしまうまでのあいだ、目の前にあるものを、ただの自分の部屋だと視線を素通りさせるのではなく、そのまま見えているままに見ていたということなのだと思う。
それにしたって、普段はその部屋がそんなふうであることを感じていないということなのだろう。
実際、平日に目覚まし時計で無理やり起きるときには、部屋はそんなふうには見えたりしない。
それは身体を起こしてまぶたを開くときには、すでに頭が会社に行く準備のことを意識してしまっているからなのだろうし、それくらい頭はいつもうっすらと自分のことを気にして、何かを計算したり、予定を組んだりとか、自分の気にしていることに関係するものしか感じようとしていないということなのだ。
自分がどうしたいのかを置いておいて、目の前のものに何かを感じようとしている時間なんて、ほんの少ししかないのだろうなと思う。
もちろん、そんなふうに頭を空っぽにして何かを感じることがなくても、生活をしていくうえでは何の差し障りもないのだろう。
けれど、そんなふうになれたとき、俺は自分が日常の底から不意に浮き上がったような、特別な何かを感じているような気分になっているのだ。
いつもは目の前がもやがかったような状態だったのが、急に目の前が晴れ渡って、遠くまでくっきりと見渡せることが、それだけで気持ちがいいというような感じなのだろう。
もしくは、いつも息苦しくて、けれどそれに慣れて息苦しいとも思わずにだるい身体を引きずるようにして過ごしていたのが、急に深くすっきりと呼吸できるようになったような感じでもあるのかもしれない。
何があったというわけでなくても、ちゃんと感じられているときには、感じていること自体に気持ちがよくなってくる。
そして、感じることに意識のすべてが集中しているような状態になると、もっと気持ちがよくなってくる。
そもそも、何であれどっぷりと集中できていればそれだけで気持ちよかったりするものなのだろう。
仕事だって、集中できていると気持ちよくなってくる。
けれど、どうすればいいのかわかっていることをひたすら進めていくような場合、仕事に集中できているときの気持ちのよさは、無心に身体を使って何かをしているような、脳を肉体として全力で活動させられていることの気持ちよさなのだと思う。
仕事に集中できてきて、自分が進めたいように進むための道筋が集中しているかぎり自動的に頭に浮かんでくるようになると、それを延々と形にしているあいだ、自分の思いどおりにできているという軽い全能感がある。
ただ、そうやって自分の頭が自分の思っている以上に働いている感覚にどっぷりと浸っているのは気持ちのいいことではあるけれど、そのとき心は自分がやっている仕事に対してさほど何かを感じているわけではなかったりもする。
そして、仕事の中で感じる面白さの中で、作業を思いどおりにこなせているときの全能感というのは、たいしたものではなかったりもする。
その仕事の対象について何かわかっていなかったことがわかったり、一緒に働いている人の仕事の仕方に何か新しいことを気付かされたりだとか、そういう自分の感じ取ったことに自分の気持ちや考えを大きく動かされるときのほうが、面白さということではもっと自分を充実させるように思う。
聡美と見詰め合ったまま、聡美のことしか感じられなくなっている状態というのも、ただ深く集中できているというだけのものではないのだと思う。
入れていたり、触っていたりという感触が気持ちいいということや、思うようにセックスできているという感覚が気持ちいいというだけではなく、目の前の聡美を延々と感じ続けることで、聡美の姿や表情や仕草や声の感触に頭を埋め尽くされていって、延々と自分の中に注ぎ込まれる聡美の感触に延々とかわいいなと思わされ続けていることで、どんどんと異様な気分になっていけてしまうということなのだ。
それはつまり、セックスが気持ちいいという以上に、聡美を感じているのが気持ちいいことによって、こんなにも心底から気持ちよくなれているということなのだろう。
きっと、そういうセックスこそが俺のしたいセックスなのだろうと思う。
セックス以外でもそうなのだろうけれど、俺としては、自分の思いどおりにいっているときよりも、思ってもみないままに目の前のものに釘付けにされて、それに食らいつくようにして集中していろんなことを感じられているほうが、もっと気持ちがいいのだろう。
だから、もっとそうなれるように、聡美の目の中を覗き込んで、聡美にできるだけ集中しようとしているのだと思う。
そういう時間は特別なものなのだ。
何かを感じることに没頭できるといいなと思っていても、仕事は大半の時間は脳を使った単純肉体労働だし、人と話していてもそこまで集中して話し込める機会はめったにない。
自分がぼんやりしてばかりいることに気が付いて、何かをちゃんと感じたいなと思うことは頻繁にあるし、俺の場合、そんなふうに感じることに没頭できる対象が欲しくて、音楽を聴いたりだとか、映画を観たりだとか、友達に会いたくなったりしていることも多いのだろう。
かといって、そんなふうに没頭できそうなものに近付いたからといって、そういう時間は簡単には手に入らなかったりする。
映画を集中して観ていたとしても、どの映画にも気持ちが満たされて呆然となれるシーンがあるわけではない。
美術館に行っても、すごいなとは思える展示があったとしても、毎回そんなふうに自分の感覚をすべて埋め尽くすほどの印象を注ぎ込んでもらえるわけでもない。
集中度合いの問題ではなくて、そもそも無心になれるものに出くわすことが難しいのだろう。
誰かが作り出したものを感じることに没頭するには、その人がどのようなものを作り出そうとしているかという、その人の意思とかイメージが、自分にとってまるごと受け止めたいと思えるような、心から肯定できるものでないといけないのだろう。
自分が無意識に胡散くささを感じて斜めに構えてしまうような意思を感じるようなものには無心になることができない。
この数ヵ月、月に十本くらい映画を観たりしていても、頻度ということでいえば、そういう圧倒的な印象を自分に最もコンスタントに与えてくれるのは、よく晴れた日の樹々だったり、土や道草や花々だったり、街並みやそれにあたる太陽の光とか、つまりは風景だった。
そのものがただそんなふうに存在しているということには何の意味もなくて、そして、意味がないから、ただそんなふうであることに無心になりやすいということだったのだろう。
けれど、だからといって、景色を眺めていればそれで満足できるというわけでもないのだ。
散歩すればいつでも気が休まるわけではなくて、寂しさのようなものが自分を包んでくると、誰かの気持ちに触れたくなってくる。
だから、少し落ち着いてぼんやりしたいときに、友達と会ったり、映画を観たり、音楽を聴いたりするのだろう。
誰かの姿や、その人が作ったものを感じているときには、その人の意志や感情に触れることができて、だからこそ感じることできるものがあるし、感じたものに何かを思うことができる。
それは問いかけられたものに答えるような思い方で、風景や自然にはそんなふうには何かを思うことができない。
聡美を感じているのにしたって、聡美の肌や声の感触だけではなく、聡美の感情が自分の中に注ぎ込まれているような感覚になっているから、ここまで気持ちがいいのだろう。
俺が聡美を心から素敵な人だなと思っているから、斜めに構えずに正面から全力で感じようとできているのだし、聡美の気持ちの動きに触れながら、それへの返答として、聡美をかわいいと思っていることをしっかり顔に出していられることにうれしくなれているのだ。
そんなふうに、感じることに集中できている気持ちよさだけではなく、相手の感情に自分の感情を動かされて、感覚と感情の両方が同時に満たされることで、より深く気持ちよくなれているというのはあるのだと思う。
(続き)