ふと見上げた木々の緑の美しさに呆然としてしまうときのような、まともにそのものの感触を目の中に流し込んでしまったときのような目の合わせ方をしながらセックスできているのかということ
(こちらの記事の続きとなります)
目が合うとそのまま見詰め合ったままになってくれる女の人とのセックスしているときの、目の前の相手をそのまま感じられているような感覚というのは、ただ目が合っているだけでそうなっていけるようなものではないのだろう。
目が合った瞬間に何かを感じたことでそうなっているのではなく、目を合わせて、感じ続けている状態になることで、感じ取れ方が変わっていくことで、いつの間にかそうなっていることなのだと思う。
目が合うというのは、それだけでも意識が敏感になったり、相手とのあいだに緊張感が出てきたりするものではある。
見たいものを見たいように見ている状態から、見られていることを感じる状態になるのだ。
自分が相手からどう見られているのかわからないことと、相手の目がそこからどう動くのかわからないことに緊張感が出てくるし、むしろ目が合っているというのは不穏な感覚だったりする。
だから、普段街を歩いていても、人と目が合ってしまったら、すぐに目を逸らすとか微笑むとかするのだろう。
あまり関わりたくないような人が、話しているときに自分をじっと見ていて、それを無視するのも悪くて目を合わせているようなときだと、自分の取る態度を決めているから、その態度で固めた顔を相手に向けていて、そういう不安定な状況に置かれるような緊張感もなかったりする。
けれど、そういうときの顔は、相手にとっては目の奥の見えない壁のような顔に感じられるのだろう。
俺もヒステリーに付き合わされているときや、誰かが寄ってきてケンカ腰に自分の主張を繰り返しているときには、そういう顔を向けてしまっていたりするのだろうと思う。
けれど、そんなふうに自分の顔を固めていたとしても、相手の目を見ているだけでいろいろ感じてしまうし、それが嫌な人の嫌な話だと、感じるものも嫌なものになる。
そもそも見ていなければ、もう少し気分的に楽に対処できるのになと思うし、そういうふうに威圧や駆け引きの手段として目を見ようとしてくる人だったりすると、ただただ鬱陶しいなと思って、見返すときも冷たい目をしてしまったりする。
俺は別に目を合わせることが好きなわけではないのだ。
むしろ、普段人と話したりするときには、それほど目を合わさない方なのだと思う。
好きな人とか関係性が安定している人でもないかぎり、話しているときに目を合わせると居心地が悪くなることが多い。
目が合うと、相手の気分のようなものが自分の中に入り込んできてしまう。
それは、たとえば仕事の話だったら、その案件についてその人がどれくらいのモチベーションなのかということが、目が合うと伝わってきてしまう。
話していて、いかにもちゃんと聞いていそうな態度ではありながら、話半分にしか聞いていない感じが伝わってくると、そういう相手の態度に対して思うことが頭の中に充満してきて、うまく喋れなくなってしまったりする。
目を合わさなくても、相手の声や姿だけでそういうものは伝わってくるけれど、目が合ってしまっているとあまりに印象が強くなってしまうし、自分の目がその印象に反応しているのを相手に晒してしまうから、自分の目を抑えていないといけなくなる。
相手に対して充分に好意がないときには、気が付かないうちに相手の目を見ないようにしているのだろうし、逆に、相手が自分の感じたい人だったら、もっと相手を感じたくて相手の目を見てしまっていたり、自分がうれしく思っているのを伝えようとして、自分の目の中を見せるようにして相手の目を見ていたりもするのだろう。
そういうことは、誰もが感じていて、その人なりに無意識に調整していることなのだろう。
俺の場合は、目が合ったときに相手がどんな目付きで自分を見ているかということに、自分の中で引っかかってしまいがちで、だから人並みよりも他人と目を合わせるのを避けがちなのかなと思う。
そして、相手の目付きに引っかかるというのも、他人が嫌な目で見てくるのが苦痛だとかいうわけではなく、その人の目の中の感触に違和感を覚えたときに、それがどうにも気になってしまうということなのだ。
たとえば、犬が寄ってきたから少し遊んであげたりするにしても、顔を舐めてはきても目を合わせてこないような犬だと、どうしようもなく拭いがたい違和感に、いつも少し悲しくなってしまう。
そういう犬というのは、躾けられすぎている犬とか、ある程度大きくなるまでペットショップに残ってしまった犬だったりするけれど、お互いに顔を見ているのに目が合っている感じがしなくて、俺が撫でてやって、犬がしっぽを振ったりもっと近付こうとして顔を舐めてきたり喜んでいるふうであっても、俺のほうは相手の動かない空っぽな目になんだかなと感じて、全然うれしくなかったりする。
そういう犬は、かなり長い期間かわいがって飼ってやらないと普通の目付きに戻ってこない。
たまに家に遊びに行く友達が飼っている犬がそうだったけれど、一年くらいしてあるとき遊びに行って、その犬の目が俺の目を見てくれるようになっていたときは、こんなにも違うんだなとも思ったし、いい飼い主のところに来れてよかったなと思って、少し胸がいっぱいになった。
人によっては、目の中がまったく動かない犬が自分を見て尻尾を振っているのを見てかわいいと言っていたりする。
相手の目が自分をどういうふうに見ているのかということに、あまり何も感じていないような人も世の中にはけっこういるのだろうなとは思う。
犬だけでなく、人間の子供に対してかわいいと言っているのにしたって同じだろう。
幼くしてすでにできるかぎり何事も感じないようにしているかのような目をしてしまっている子供に対しても、かわいいと言いたがる人は容赦なくかわいいと言う。
自分を見ている目がそういう目であるということに、不気味なものを感じたりしていないのだろうかと昔からずっと不思議に思っていた。
もちろん、そういうことを気にしてもきりがないし、気にしたところで何の役にも立たないのだろう。
大事な相手でなければ、適当に見て適当にかわいいと言っておけばいいのだとは思う。
大人の人間であれば、不気味な目付きをしている人はもっと多くなるのだし、他人の目付きにいちいち違和感を探そうとしないで、自分に危害を及ぼさないのがわかったら、さっさと見慣れて見過ごしてしまえるようになったほうがいいのだろう。
ただ俺が他人の目の中の感触に何かしらを感じたがって、それを勝手に嫌に思ったりしているというだけなのだと思う。
他人の目の中が気になるといっても、それは自分の気にしたいタイミングで気にしたがっているというだけで、俺が他人の姿に敏感だったり、ものをちゃんと見ているというわけではないのだ。
むしろ、聡美と見詰め合えたときに、聡美をそのままに感じられている気になってしまうのだから、普段の生活の中では全然ものをちゃんと見られていないということだろう。
見るということはあまりにも自動的な身体の働きで、見ているものをろくに感じていなくても、視界に入れているだけで、それが何であるかくらいは勝手に見えているという状態がずっと続くものだったりする。
そして、まともに感じるということは、無意識に避けられていることでもある。
まともに見てしまうとまともに感じてしまうし、まとも感じるというのはそれなりに消耗することだったりする。
疲れすぎないように、気が付かないうちにできるだけまともにものを感じないようにするというのは、人間の生まれ持った機能のようなものなのだろう。
毎日一日中何かを見ているようでいても、そのほとんどの時間は、見えているだけで見えているものをまともには感じていなかったりする。
たとえば、道を歩いていて木々の緑が目に入っているとき、たいていの場合は、自分が歩いている景色の一部として木がそこにあるとしか見ていない。
けれど、実際にそこに見えているのは木ではないはずなのだ。
幹があってそこから枝が伸びてその先に葉があるのだし、そういう説明ですら大雑把で、近付くほどに無限の細部に気付かされるような、そういう質感に満ちたものがそこにあるはずだろう。
そこにあるのは、ただそんなふうにそこにあると感じられる何もかもというだけのはずなのだ。
それを自分の頭が勝手に木だとか、植込みだとか、公園だとか、そういう概念で一括りにして、そういうものを見た気になっているだけなのだ。
ごくたまに、ふと気が付くと、目に入った緑のかたまりが、一枚一枚の葉としてばらばらに見えて、明らかに自分には数えきることができない数の葉が、それぞれに他の葉と重なり合いながら、それぞれに陽の光を受けて、ばらばらに揺れているように見えることがある。
太陽の光がどんなふうに地面を照らしているのかが見えていて、遠くや近くの建物が影と光の照り返しを伴って、それ自体としてくっきりと見えていたりとか、そんなふうに目の前が見えてしまうことがある。
目の前の景色を観察しようとしてそうなったわけではなく、目の前の景色を目にしたときに、それが何であるかと思う前に、目に映るものがどんなふうにしてそこにあるのかという感触が自分の中に流れ込んで、頭の中を埋め尽くしてしまうようになってしまうのだ。
もちろん、俺がそういうふうに感じている気になっているだけで、実際に目の前をありのままに感じられているわけではないのだろう。
けれど、ただ見えているだけの状態と、見えているものの感触に感覚が埋め尽くされてしまう状態では、そのときの自分の気分や感覚はまったく違っているのだ。
そんなふうに、風景の中にあるすべてのものがそんなふうにしてそこにあるということの圧倒的な実在感に圧倒されてしまうような瞬間というのは、誰もが感じたことがあるものだろう。
そういう瞬間にしか、人はまともにものを見ていないのだと思う。
比べてしまえば、自分が普段普通だと思っているものの見え方は、あまりにも見えているものがどんなものなのかを感じていなさすぎるのだと思う。
(続き)
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