「悲しく投げやりな気持ちでいると ものに驚かない 冬をうつくしいとだけおもっている」ということ
(こちらの記事の続きとなります)
風景の中にあるすべてのものがそんなふうにしてそこにあるということの圧倒的な実在感に圧倒されてしまうような瞬間というのは、誰もが感じたことがあるものだろう。
そういう瞬間にしか、人はまともにものを見ていないのだと思う。
比べてしまえば、自分が普段普通だと思っているものの見え方は、あまりにも見えているものがどんなものなのかを感じていなさすぎるのだと思う。
俺が目の前の景色にそんな感覚になるのは、何をしているでもないときだったり、特に用事もなく歩いているときだったりというような、目の前のもの以外に意識がいっていないときだった。
最近だと、会社の昼休みに、毎日行っている店で美味しいご飯を食べたあと、遠回りをしながら会社のビルへ帰っていくときに、そういう感覚がやってくることが多かった。
ひとりきりで、太陽の光が気持ちよくて、今日も美味しかったなという満足感が身体の中に残っていて、特に何も考えていなくて、なんとなく気持ちいいなとだけ思っているような時間に、ふと前を見て、目の前の景色に呆然としてしまうのだ。
木々や草花が光にあたって、小さく風に揺れているのが見えて、遠くの高層ビルはくっきりとして、その背後の雲の微動が目を引きつけてくる。
無限の細部が目の中を埋め尽くしていて、それが見えている感触だけが自分の中にある。
目に映るすべてが光を受けて柔らかく輝きながら揺れている。
空気の温かさや湿り気をはっきり感じられる。
そういう感覚の中で数十秒とか一分くらい、じーんとしながら歩いているのは、とても気持ちのいいことだった。
そういう状態というのも、聡美に引き付けられて、聡美が動いている姿だけが自分の感覚を埋め尽くしているときと同じように、目の前にあるものの感触をただ受け身に受け取っているような状態だったのだろう。
頭が空っぽだから、ひたすらに受け身にそれを感じることができていたということで、聡美との場合も、目が合っているうちに頭が空っぽになっていって、何を思ったりせずに、ただそのままを受け身に感じられる状態になったことで、表情のひとつひとつや、肌や声の質感や息の吐き方が、はっきりとした感触の強いものに感じるようになっているのだと思う。
何を感じるにしても、頭が何か他のことを気にしていると、それを気にすることの邪魔にならないぶんしか感覚は働かなくなってしまう。
感覚はいつもどおり働いていたとしても、感覚器が自動的に受け取っているものに気持ちが何かを感じようとはしてはいない状態になるのだろう。
そういう意味では、いつも用事のことが頭から抜けることがない人にとっては、見慣れた風景の美しさは少しも圧倒的なものに思えないのだろうと思う。
それとも、俺が鈍感なだけなんだろうか。
鈍感だから、何かを見てもそれを感じてくるまでに時間がかかって、たまにしかそのもの自体を感じたようになって圧倒されることがないのだろうか。
けれど、俺からすると、かなり多くの人は、何を見るときでも、それが自分とどう関係があるかとか、話のネタになりそうかどうかを確かめるような目でしか見ていなかったりするように感じてしまう。
景色だけではなく、映画館でも美術館でも何かのお店でも、多くの人は、自分の見たいものがそこにあるか探すような目でしかものを見ようとしていないんじゃないかと思う。
一生懸命味わって食べるとか、集中して映画を観たり、音楽を聞いたりする時間がある人ならそれなりにいるのだろうけれど、自分が目の前にしている現実に対して、見えているものを見ることに集中して、見ているものがどんなものなのかということが自分の中に感触として伝わってくるのを待つように、見えてくるまで見ていようとする瞬間が一ヶ月のうちに一瞬もなかったりする人というのは、とてつもなくたくさんいるのだと思う。
誰かが何かの感想のようなことを喋っているのを聞いていても、ただそれを経験したというだけでしかないような、自分が何を感じたのかがまったく伝わってこない話し方のままで話が終わってしまうことは多い。
わざわざ人に話すことですらそうなのかとびっくりしてしまうし、この人にとっては自分が何をしたかということが大事で、それがどんなだったかとか、自分がどう感じたということは特に大事なことではないのだろうなと思うと、何とも言えない気持ちになってしまう。
しばらく前に、白石一文を読んでいると、八木重吉の詩が出てきた。
「悲しく投げやりな気持ちでいると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもっている」
そういう詩なのか、詩の一節なのかが引かれていたけれど、まさにそんなふうだなと思ったのだ。
そして、そういうものだろうと思った。
投げやりというか、何かをしたいという気持ちもなく、何かするべきことを探しているわけでもないような気持ちのまま、自分の心が思うに任せているようなときほど、目の前の景色が、そのままの姿で目の中に映ってくれたりするのだ。
暇であることでしか感じられないことがあったりするということなのだろう。
そして、自分も悲しく投げやりな気持ちでいることがあると思っている人はたくさんいるのだろうけれど、うんざりしていたり、ストレスが多くて、何もかもどうでもいいと思ったりすることがあるからといって、景色が美しく感じられるようになったりはしないのだろう。
人との関わりを面倒に思いながらも、損しないようにとか、面倒を避けたいだとか、そういう自分のことばかり気にしているかぎりは、たいして投げやりな気持ちになれてはいないのだ。
何も気にしなくてもいい状態にならなければ、頭は止まってくれないということで、逆に、いつでも自分のことを気にするのに忙しい人は、どこにいても自分の用事しか見えていないということなのだろう。
頭の中が忙しい人の現在には用事しかなくて、過去には出来事しかなくて、未来には予定しかなくて、そんなふうに忙しい気持ちのままでは、どうしたところで世界はたいして美しくも素晴らしくも感じられないのだろうなと思う。
もちろん、美しく感じられなくても、世界は楽しかったり面白かったり、興奮できたりはするのだろう。
けれど、それは目の前を感じているのではなくて、用事や出来事を楽しんでいる自分を感じているだけなのだと思う。
俺が景色に呆然とするときも、いつもそうだったのだと思う。
何の用事もなく、何を気にする必要もなく、ただ歩いていて、自分の中の寂しさだったり、虚しさだったり、そういう自分の身体からゆっくりと湧き上がってくる感情を自分で感じているようなときだったように思う。
何かをしようとも思っていなくて、何を思い込もうともしていなくて、ただ、何もしていなくてもゆっくりと沸き上がってくる、自分の中でずっと続いている気持ちの流れのようなものを感じているだけのとき、ふと見上げた景色が、その景色がずっとそんなふうに続いてきたような、無限の細部がそれぞれに蠢きながら実在しているというそのままの姿で自分の目の中に注ぎ込まれるようになったのだと思う。
そして、ふとしたときに、そんなふうに景色が見えたとしても、その景色を通り過ぎて、人々との関わりや用事の中に戻ってしまえば、景色はただの背景に戻ってしまうのだ。
何もかもが、ただそれというだけで、特別何を感じるわけでもないものに戻っていってしまう。
そして、またふとするときまで、そういうたいして何も感じていない状態が当たり前のようにずっと続くのだ。
自分の頭が何か思うより前に世界が実在しているということを、俺はほとんどの時間忘れて生活しているのだろうなと思う。
(続き)
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