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努力は状況によって引き起こされる

「何に対してもやる気が出ない」という日々が続くことがありますね。頑張れなかった結果を最終的に引き受けるのは自分自身なので、どうにかできるのであればどうにかしたいものです。どうすればよいのでしょうか?


「きちんと頑張れるタイプの人間」がいるだろうか

前回の記事「社会でちゃんとやっていけない我々はどのように働けばよいのか (2024.4.30)」では、私が昔から抱えているメンタルおよび健康上の問題と、そういう中で今年立ち上げた出版レーベルの仕事を頑張ることにしたという話をしました。

有名人でもない一個人が本を書いて、それがいきなり売れるというのはありそうもない話です。読者を得るためには、信頼と知名度の積み重ねが必要になります。本を書く以上、読んでもらう意味のあるような内容を詰め込んでいるつもりですが、それだって手に取ってもらわなければ始まらないので、「本当にいいものをつくれば必ず売れるはずだ」などと言いながら待っているわけにはいきません。読んでもらうための努力、売るための努力というのは当然必要になってきます。

さらに、個人で仕事をするということは、上司や会社組織に文句を言いながらも毎月の給料が入ってくるような状況とは全然違います。現実に成功しなければ、いくら働いても収入がないということです。ハードですね。これはけっこう人間の性質を選ぶ状況なので、自営業やフリーランスで頑張っていける人というのは、それなりに数が限られるように感じます。

さて、私はそれを前向きに頑張っていこうとしているわけですが、私が「努力できるタイプの人間」なのかというと、たぶんそうではないです。どちらかというとその逆で、やりたくないことは本当に全然やらないような人間です。可能な限り寝ていたいです。本当は何も苦労したくないと思っています。お布団から出たくないです。引っ張らないで! おれはもう何もしたくないんだ! やめろ!!

今回の着眼点はここです。私のような人間が、この仕事に限ってはなぜ頑張ろうとしているのでしょうか。

あなたが目の前の状況に対して「どうやら努力が必要のようだ」と感じたとき、自分の意思で努力を引き起こすということは、果たして可能なのでしょうか?

努力が引き起こされる状況とは

「人はどのようなときに努力できるのか」ということを考えてみると、以下の3つになるような気がしています。

  1. 他に道がないことを理解しているとき

  2. その必要性が腹に落ちているとき

  3. 自分がそれをやりたいと心の底から思っているとき

おそらくですが、これ以外のケースでは、人は基本的に頑張れないものだと思います。さらに、追加で必須の条件が存在します。それは以下です。

  • 元気なとき

では、順番に詳しく見ていってみましょう。

状況1. 他に道がないことを理解しているとき

私自身には子育ての経験はありませんが、それが死ぬほど大変な仕事だということは容易に想像できます。日中は片時も目が離せない、夜もろくに眠れない、そんな日々が何年間も続くと考えると、並の人間では頑張れないような状況に思えます。しかし、オリンピックの金メダリストでもないのに、これを最後まで頑張れてしまう人というのが世界中にいますね。そうでなければ人類は存続していません。

ここに愛情があるというのはもちろんだと思いますが、気持ちだけで頑張れるような話ではないでしょう。これは「この子を保護できる母親は自分しかいない」という認識によるものではないでしょうか。ここで、男性側に「父親は自分しかいない」という気持ちが引き起こされないのはどういうことか、という疑問が出てきますが、今回はジェンダーについての話をしたいわけではないので、この疑問については話の外に置いておきます。おそらく、父親には「母親がやればいい」という道が残されている(ということになっている)のに対して、母親にはそのような道が残されていません。そうするしかないのなら、そうするしかないということになります。社会としてそれでいいという話ではないですが。

もっと身近な例は、私たちの日々の仕事です。ほとんどの人にとって、お金を稼ぐために働くというのは「したくないこと」であるはずです。しかし、お金を使わずに生活するというのは普通は不可能で、そのためのお金を得ようと思ったら、普通は働くしかありません。ということは、働くしかないことになります。これは当たり前のことなので、「そういう決意をした」という意識すらないでしょう。

成人後に10年間や20年間も実家で引きこもりを続けている人がいるとしたら、それは働いていない本人を養えるだけの家庭環境が存在していたということが関係しています。これはもちろん、引きこもりの当事者を援助のない状況に放り出しても構わないという意味ではありません。そういう主張をしたいわけではないです。ただ、そうした人たちも、何かのきっかけで家庭環境に限界が来て「変化せざるを得ない」「経済的に自立せざるを得ない」という状況に直面したとしたら、自分の力でそれを乗り越えることができたのかもしれません。今はまだ暗い停滞の状況にあるにしても、そのような力を潜在的に持っている人が少なくない割合でいる可能性があります。

重ねて言っておきますが、「やろうと思えばなんとかできるものだ」というのは生存バイアスが含まれることがあるので、すべてがそうだという主張ではありません。育児であれば、あまりにも高い心身の負荷と社会的孤立によって虐待やネグレクトに至るケースもあるでしょうし、成人後の経済的な独立に関しても、どうにもならずにホームレスになってしまう人もいます。

このようなケースを突き詰めると脱線しそうなので、話を本筋に戻します。ここで言いたいのは「例外のない成功法則」のような話ではなく「人間というもののだいたいの傾向」についてです。多くの人は、やらざるを得ない状況になれば、おそらくはそれをどうにかしようと本気で試みるのではないか、というのがここで指摘したいことです。そもそも「ホームレスになってしまった」というのは結果の話であって、努力の有無とはそんなに関係ありません。個人の頑張りでどうにもならないからこそ、雇用や貧困のような問題を社会で考えましょうという話なんですから。

というわけで、最終的にどうにかなるにしろならないにしろ、やるしかない状況になったらやるだろう、と言うことはできるように思います。

状況2. その必要性が腹に落ちているとき

子どもの頃に「勉強しなさい」と言われて、実際にする気になった人はいないと思います。これは「他者からの強制はむしろ自発的なやる気を削ぐ」という面もありますが、10代の頃というのは勉強の必要性を実感のレベルで理解できる機会がほとんどない(先生はそれを教えてくれないし、もしかしたら先生自身もそれを知らない)という点も大きいように思います。

勉強が何の役に立つのかというと、高校生であれば直近に受験のようなものが控えています。受験でいい大学に進めば学歴が得られて、学歴があると就職に有利です。そうなると収入も増えそうです。それで? 生涯賃金が増えるとして、結局それって何のためなんでしょう? そのために頑張れますか?

「お金がたくさんあったらいいなあ」というのは誰でもそうでしょうけど、結局それが何のための必要なのかというと、そこまで切実な理由がある人はあまりいないような気がしています。収入アップのための転職というのは、いまいちそのような原動力に欠けている印象を受けないでしょうか。一方で、「この人間関係最悪な環境で働くのはもう限界」というのは、本気の理由になります。この理由は、単に頭だけで計算したものではなく、心よりももっと深い、腹というレベルで感じられているからです。

たまにビジネスや起業の世界で、文字どおり寝る間も惜しんで努力して成功したという人がいますね。それが「自分をバカにした世間を見返してやる」というものすごい劣等感によるものだったりすることがあって、その成功が本人の幸せに繋がるのかな、と疑問に思うような話はたまに聞きます。それってあまりいい種類の努力ではないですよね。でも、劣等感を埋めるというのは、本人にとっては必要に属する話であって、「もっとお金があったらいいな」とは違う次元にあります。これは飲まず食わずで遭難したときの、飢えと渇きのような必要性です。

もう少し綺麗な話にしてみれば、小さい頃からの憧れの職業があるという人は一定数いますね。そのための勉強や、免許や資格の取得というのは、誰かに押し付けられた理由のわからない義務ではなく、自分にとって必要な道のりの一部として自然に理解されます。これも本気の理由のひとつです。

あなたが何かを求めているとして、それが自分にとって「なんとなく欲しいもの」から「必要物」に切り替わったなら、自発的かつ本物の努力が発生することでしょう。

状況3. 自分がそれをやりたいと心の底から思っているとき

何かしら、あなたにも好きで仕方がないものがあるのではないでしょうか。これが職業になるというのはかなり幸運なケースですし、同じ趣味を生涯に渡って何十年間も突き詰めるというのも、よくある話だとまでは言えません。しかし、それが一時的なものであったとしても、何かを「本気でやりたい」と感じた経験をひとつくらいは思い出すことができると思います。

「やりたい」ということには、本質的には理由がありません。「自分がやりたいと思うからだ」以外の理由は、すべて便宜上の説明であるか、義務感や虚栄心が形を変えただけの偽物であるかのどちらかです。

この偽物の「やりたい」というのはけっこうやっかいで、「やりたいんだけどやる気が出ない」みたいな発言として現れることがあります。やりたいと思ってるけど、やる気はない。そんなことがありますか? それって本当にやりたいと思ってますか?

後述する「元気なとき」の条件で考えるように、確かにその日その日で気力が十分でない日というのはあります。人間は年中無休24時間稼働のAIではないので、そんなときもあって当然です。しかし、たまたま仕事に忙殺される日が続いたとか、体調を崩している時期とか、ひたすらお腹が空いていて眠いといった状態のときを除けば、「やりたいと思ってる」と言いながらそれに「突き動かされていない」というのは不自然なことです。

「スキルアップのために資格を取りたいのに、いまいち気合いが入らない」と言うとき、その「やりたい」はあんまり本気の理由じゃないんです。このような漠然とした将来への不安に基づいた気持ちとか、義務感によって生じている感情を「やりたい」という言葉で表現しないことが大切です。ちゃんと切り分けましょう。「仕方がないからやってやるか」と表現すべきです。

「やりたい」という気持ちが本物であれば、目の前に立ちはだかる壁の大きさや道のりの長さが意識されることはあっても、「いまいち気合いが入らない」などという表現は出てこないのではないでしょうか。

必須の追加条件. 元気なとき

状況1〜3は「努力の対象を自分自身がどのようにとらえているか」に関する条件でした。この3つのうち少なくともひとつが存在するか、複数のものが多少異なる強さでも同時に存在しているというのが、まず最初に求められる条件になります。

さらに、必須の追加条件が存在します。元気がなければ何もできません。元気なときだけ何かができます。

これには特に理由のないメンタルの上下も関係しますし、体力という純粋に肉体的なエネルギー残量の問題もあります。私自身の感覚としては、一般的に「心の状態」と考えられているものも、そのかなりの部分は身体的・生理的な基盤を持っていて、心の健康というのは身体の健康に直結しています。心身の元気さというのは、使えば減るし、いつでも十分なわけではないものの、きちんと休めばいつかは回復する性質を持っていると言うことができます。

この記事の冒頭でも触れたように、私はオフィスで席に座っているだけで給与が発生するタイプの仕事をしていないので、生産性というものに対して、かなりシビアな見方をするようになっています。仕事中の私の姿が「ちゃんとやっているように見えるか」というのはどうでもよくて、現実に進捗が出るかどうかということが死活問題です。なので、「今日は頭が回らないな」という状態がしばらく続いたときには、さっさと仕事を中断して、ベッドか床に転がって休みます。半端な状態でノートPCに向かっていたとしても、まともな進捗は出ないし、そのままでは体力と集中力の回復にもならないということをはっきりと理解しているからです。

そして、その一日をしっかりと休んだなら、翌日には高い確率でそれが回復しているということも経験として知っています。残念ながら、会社員としてオフィスなどでこうした振る舞いをすることはNGとされていますが、「人間は工場の生産ラインのような均一な出力を生み出すことはできない」という当たり前の前提があって、そこで結果を最大にしたいなら、調子が出ないときにさっさと休むというのは必要な行動です。これを会社員という枠組みの中でどう運用していくかというのは、また別の難しい問題ではありますが、少なくともこのような心身の性質に対する理解は必要なのではないでしょうか。

活動と休息のリズムには、短期の波と長期の波が存在するように思います。「ここ2日くらい忙しくて疲れたな」といった疲労感もあれば、「今年は生活環境の変化が多い1年だった」という状況になることもあります。前者は一晩ぐっすり眠るか、土日の休みをゆっくり過ごせば元に戻ることが多いですが、後者の回復にはもう少し長い時間がかかりそうですね。

さきほども述べたように、疲れているときにまともに頑張るというのは、そもそもが無理な話です。これをどうにかしてくれるのは、生き物としての人間の身体が持っている回復力だけです。「時間が持っている力」と言い換えてもよいでしょう。

「なぜ頑張れるか」への短い個人的な回答

ここまで状況1〜3として、なるべく一般的な例を出して考えてみた上で、追加条件として元気さという要素を出しました。結論に入る前に、この記事を書いている私自身が頑張れる理由という、冒頭の話に少しだけ戻ってみます。すると、私が頑張って本を書いていることには、以上の条件のすべてが関係していることに気づきます。

私がしたような思い切った職業の再選択は、健康上の理由で会社員を続けることが不可能だと判断しなければ、おそらく発生しませんでした。そして、私くらいの年齢になれば「楽な道はない」ということは当たり前に理解しています。さらに、何か人の役に立つものを書きたいというのは、私が心からやりたいと思っていることに該当しているからです。

こういう状況で、私は仕事をしたり休んだりといった日々を繰り返しています。元気な日には進捗が出るし、元気がなければ進捗は出ません。後者の日が続いたときには、もどかしい気持ちもあります。それでも、少なくとも今現在の私は「頑張る」ということができていますし、おそらくこの状況は、これまで三十数年間生きてきた私にとって、自分史上最も「頑張れている」状況なのではないかと思っています。

私たちは「頑張りたい」と思っている

私が執筆と出版の仕事を始める前に、現在書いたり企画したりしている本のプロトタイプになるような思想が含まれたブログを書いていました。

そのブログの中で、「世間に流通する『頑張らなくてもいい』『ありのままの自分でいい』といったメッセージには、ある種の毒が含まれているのではないか」という指摘を行った記事があります。以下のような問題提起でした。

実際のところ、みなさんは何も頑張りたくないと思っているのでしょうか? 仕事が大変で、やりがいを見つけることができなくて、日々疲れていて、もう頑張りたくないと感じることはあります。ここに微妙な視点があって、「頑張りたくない」というのはおそらく文字どおりの意味ではありません。本当に過度な長時間労働などを除けば、普通に働いている人の感じる「働きたくない」というのは、正確には「頑張って働いた以上はそこに意味を感じたい、何か見返りがあってほしい、頑張っても意味が感じられないからつらい」なのだと思います。

「頑張らなくていい」「ありのままでいい」なんて言われたくない
シロイの連想日記、2023年12月23日

大切なのはこれです。私たちは本当は頑張りたいのであって、死ぬまでゴロゴロして過ごせればそれで満足だなんて思っていません。

上記に引用した記事は「本当はみんな怠けていたいなんて思っていないのではないか」という指摘を投げかけたものだったので、今読んでいただいている今回の記事では、さらに進んで「頑張るためにはどうしたらいいのか」という疑問について考えてみました。

今回考えた内容から引き出される結論は、「あなたにとって本物でないなら、そこに向かって努力することはできないし、それは仕方がないよね」ということになるでしょう。随分と身も蓋もない話ですね。

でも、本物じゃないなら、それは重要じゃないですよ。たぶん、もっと重要なものが他にあります。

そうなると、この短い人生の中で「自分にとって本当のものを見つける」ということがすごく大切になってきます。それを見つけるのは簡単なことではないはずで、何かを頑張るという段階の前には「頑張る対象を探すことを頑張る」という過程がどうしても必要になってくるということになります。

やりがいのある仕事をしたい。でも、今の仕事はやりがいがない。よく聞く話ですよね。それが転職で簡単に解決するかというと、おそらくそんなことはないです。隣の芝は常に青いもので、そちらに移ればまた別の芝が青く見えるようになります。そんなに安直にどうにかできるはずがないんです。

さて、今回の話はこの辺で締めることにしましょう。この記事によって「努力」という概念についての認識が変わったという読者がいたら嬉しく思いますし、私自身もこの記事を書くことによって、自分なりの方法論がまた少し整理できた気がしています。ひとつ理解できれば一歩進めるので、すべてはそのように、地道に進めていくしかありません。

この記事で状況1〜3として挙げた中の最初の項目は、「他に道がないとき」というものでした。これは個別の努力の対象だけではなく、人が生きるということ全体にも言えることです。そのようにするしかなければ、そのようにするしかないわけです。

結局、私たちは頑張っていくしかないのではないでしょうか? それとも、頑張れば得られるかもしれないものを諦めるのでしょうか。

他の人たちがどうするとしても、あなたはどうしたいと思っていますか?

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シロイブックスの既刊

シロイブックスから刊行した以下の2冊でも、この記事で論じたような視点が出てきます。

社会人のための楽器の継続と上達の手引き:練習の習慣化から、音楽性を深めるまで」(2024年) → モチベーションの話題について、ひとつの章を丸ごと割いて論じた部分があります。

投資に正解は存在するか:堅実な株式投資と資産形成の入門ガイド (2024年) → 投資というテーマ全体を「精神論では解決できない困難な課題にどのように対処するか」という視点で扱っています。

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