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shiro
2022年4月20日 20:58
28日~30日(ペシャワールとトライバルエリア→イスラマバード国際空港→帰国) トライバルエリアへのパーミット(許可証)をあっさり取得する僥倖に恵まれた私だが、エリアに入るに当たっては、警察官をひとり護衛につけなければいけなかった。銃を背負った彼の名はピプシ。エリア内を自由に歩けるわけでもなく、ピプシと共にタクシーで走ることになるようだ。ピプシもドライバーも、ほぼ英語ができない点は残念だったが
2022年4月17日 16:37
28日(ペシャワールとトライバルエリア) 長い1日になった。帰国便が明日29日の朝3時台発のため、実質的にパキスタン最後の日でもある。結論から言えば、目当てにしていた「銃の街・ダラ」には辿り着けなかったのだが、充実した、満足度の高い日になった。 朝早くチェックアウトしたホテルでバックパックを預かってもらい、軽装で出かけた。路上に出している店で、レバーとトマトを焼いた香ばしい料理に、ナンが添
2022年4月13日 22:02
27日(ピンディ行きの車中→ラワールピンディー→ペシャワール) 訪れたパキスタンの街で、どこが一番良かったかと聞かれれば、ペシャワールと答える。感動や達成感ではモヘンジョダロに一歩譲るが、街で感じた楽しさ、充実度では、モヘンジョダロよりも、パキスタン観光の代名詞フンザよりも、ペシャワールだ。 ペシャワールはパキスタン西部の都市で、アフガニスタンにほど近い。ペシャワールから西へ50kmも行く
2022年4月10日 15:01
26日(フンザ→ギルギット→ピンディ行きの車中) 移動に費やす日になった。こんな時に腹を下していると最悪なのだが、幸いなことに下痢は完治していた。しかし、乾燥したフンザの空気にさらされて、ひびだらけ、逆剥けだらけになった唇が痛々しい。 出発は早い。朝6時だ。宿の前にやって来たミニバスに乗り込む。ミニバスは、町を30分もかけて行ったり来たりし乗客を集めてから、ようやく目的地へ向かって走り出し
2022年4月6日 20:56
05年9月25日(フンザ) 喉が痛い。昨日からの下痢は落ち着いたが、今度は風邪気味である。せっかくのフンザを風邪ごときで台無しにされてたまるかと、昨夜と同じレストランで朝食を取った。温かいスープが美味しい。店の名前が日記に残っていないのが残念だが、ここは良き店だった。 レストランを出ると、同世代の日本人男性と出会い、挨拶した。名をタナベさんという。ラワールピンディーからヘリコプターで来たそ
2022年4月3日 12:37
05年9月24日(フンザ) フンザの絵図を説明してみたい。カラコルムハイウェイを走って到着したツーリストは、まず「ゼロポイント」と呼ばれる地点を通過する。フンザの中心は「カリマバード」という村で、ゼロポイントはカリマバードの入口に当たる。ゼロポイントからは、やや蛇行した一本の上り坂が伸びていて、これがフンザのメインストリートだ。道の左右には宿やレストラン、土産物屋が点在し、町を形成している
2022年3月30日 20:36
05年9月23日(フンザ行きの車中→フンザ) フンザは、国の北西部に位置する標高2500メートルの高地で、周囲を7000メートル級の山に囲まれた険しい山岳地帯にある。荒涼とした景観の中にのどかな田園風景が広がり、春には杏の花が咲き、秋には紅葉が燃える。その光景から、「風の谷のナウシカ」の「風の谷」のモデルになった場所だという話も根強く囁かれており、ついた通り名は「桃源郷」。パキスタンを旅する日
2022年3月27日 14:48
05年9月22日(サッカル→ラワールピンディー→フンザ行きの車中) 朝、時間通りにジュネージョが迎えに来てくれた。昨夜のやりとりはすんだことだと思い、親しみを込めて話すように努めたが、ジュネージョの反応は鈍い。サッカル空港に着くと、彼は私をPIA(パキスタン国際航空)のオフィスに誘った。そして、別のスタッフにこう告げる。「この男が金を払ってくれないんだ」。 ため息が出た。朝から昨日の続きで
2022年3月23日 21:52
「05年9月21日(モヘンジョダロ→ラルカナ→サッカル)」 モヘンジョダロ見物というメインイベントを終えて迎えた朝だが、旅はこれからだ。後ろ髪を引かれつつ、考古学バンガローをチェックアウトした。代金は「2泊+3食+コカコーラ1本+スプライト1本+ミネラルウォーター2本」で1300Rs(約2600円)。優しい価格がありがたい。 パキスタン名物のギラギラバスに乗って、ラルカナで降りた。飛行機の
2022年3月20日 16:25
「05年9月20日(モヘンジョダロ)」 モヘンジョダロは、日本語で「死者の丘」を意味する、インダス文明の代表的な遺跡だ。繁栄したのは4000~5000年前。排水施設や公衆浴場もある高度な都市で、一時は4万人が暮らしていたという。しかし、何らかの理由で一気に衰退。衰退の理由には洪水説などが挙げられているが、判然としない―。 考古学バンガローを出ると、そこは遺跡の入口付近だった(と思う)。舗装
2022年3月16日 21:45
「05年9月18~19日(日本→ドバイ→カラチ→モヘンジョダロ)」 モヘンジョダロに行きたかった。思い起こせば高校時代、「大学に行って考古学を学ぼう!」と思った大きなきっかけの1つが、現在のパキスタンにある、インダス文明のモヘンジョダロ遺跡だった。そのくせ大学ではインダス文明と縁もゆかりもない「ネアンデルタール人の埋葬」を卒論のテーマにし、卒業後も考古学とは無関係の仕事についているあたり、われ