心の怪物。三島由紀夫と僕。(2024.6.5)
僕は醜さをもっているようで。
それは人目に晒した途端に僕が人ではなくなる起爆装置になっているようで。
それはとても奇妙な獣だ。
猫みたいに愛らしい姿で僕の顔を舐めてくることもある。
アラクネみたいな不気味な艶かしさで僕を見下ろすこともある。
どちらも同じなのは、いつでも僕の首に手が回る場所にいる、ってことで。
そんな変化の獣は、普段寝息を立ててじっとしている。たまにぬっと音もなく立ち上がって、足音を立てぬままに狩りをすることがあることを、しかし僕は知っている。
「私を見抜いて下さい」
この三島由紀夫の言葉は、いや溝口という吃り坊主の言葉なのだけれど、つまり三島の言葉になるわけで、、
僕は、『金閣寺』に描かれたこの主人公のセリフの「意味」が“分かった“と思った。
「分かった」というのは、つまり“聖書を読むのと同じ意味合いでの“「分かった」ということであるが。
人は誰にも言えない醜さを抱えている。
「人」という壮大な主語で表現することが許されると勝手に決めつけて、あえて投げかけよう。
きっと、分かってくれるでしょうね。
それは、誰かに打ち明けたりでもしたら、たちまちに人ではなくなるような倫理的禁忌への接近、或いはその意欲だ。
だから、誰にも相談はできない。誰かから理解されようという期待はむしろ抱き得ない。故に人は、その理解されない内なる獣を「自分」という実存に当てはめようとする。
それでも人は、これを「見抜いて」ほしいのであろう。
自分からこれを晒すのではない。
自分から晒してしまえば、なんの価値もない。
人は、自分が匿っている獣を暴かれたいのだ。
自分が懲りもせずに餌を与え続けているその怪物を取り上げられたいのだ。
怪物は化生だ。だから、取り上げられてもまた新たな獣が居座るようになる。
人は、何度でもその醜さを暴かれたいのだ。
人はその獣を締め出すことはできない。
人はその獣に刃を向けることもできない。
しないのではない。それは、できないことなのだ。
だから、その獣と共に戯れる方法を模索するようになる。
「人」が生きるとは、
「獣」が生きるということだ。
「人」を生きるとは
「獣」と生きるということだ。
人は常に己の獣を暴かれる準備をしている。
その獣をひた隠しながら、
常に罪人として懺悔する目論見がある。
だから人は、笑顔で優しい「人」を演じるのだ。
人からの尊敬と承認と愛とが
匿う獣への餌になる。
その餌を食らって獣はどんどん怪物らしく醜さを蓄える。
立派に見える人ほど、腹の中には見たこともない化け物が跋扈しているに違いない。