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別れ日記⑩。

彼女は勢いに任せて感情を吐露したかと思えば、突然沈黙した。目から涙がゆっくりと溢れる。綺麗だと感じた。しかし私は、彼女の告白を再度認識するように努めた。彼女の「どうでもいい」という言葉に対して感じた私の怒りはもうそのときには消えていた。それよりも私の頭は、彼女が珍しく打ち明けてくれた心情を整理することに忙しかった。彼女ほどの学歴を持ってして、一般企業に就職しなかったことは、私もずっと疑問に感じていたことだった。それは、彼女がお金やキャリアに縛られて生きることに拒否感を感じたということになるのだろうか。しかし、そのことが周りの友人や家族に理解されず、結果として逃げるように日本に帰国し、孤独に苛まれているということか。私は性急に彼女の現状と感情の把握に努めた。


考えすぎていたのか、私の方も長いこと沈黙していた。通常の私は、人といるときに、相手を差し置いて考え事に耽ることはまずありえない。基本的に相手に気を遣い、会話の不自然な間や沈黙には敏感な性格だ。しかし、この時ばかりは、彼女が初めて明かした心の内を理解したい、理解しなければ、と必死になっていた。ふと、前を見ると、彼女の涙は渇いていた。このとき、私はようやく彼女の存在を思い出し、慌てて沈黙を破る言葉を探した。だが、彼女は無言で立ち上がると、空き缶を持って流しのほうへと姿を消した。私は、少しだけ安堵し、長いこと放置していた机の上の氷結に手を伸ばした。缶を持ち上げると、机には缶の結露が滴って水分が溜まっていた。彼女の机に跡が残らないようにと、ティッシュで水気を拭き取る。それでも、うっすらとシミは机に残っているようにみえた。


トイレの水を流す音がしたかと思うと、しばらくして彼女は部屋に戻ってきた。私は彼女の方を向き、後ろをむいて戸を閉める彼女が振り向いてくれるのを待った。しかし、彼女はまるで私の存在を忘れてしまっているかのように、まっすぐにベランダに吸い寄せられていった。私は彼女を目で追った。手にはタバコの箱を持ち、カーテンが風で静かに揺れている。カーテンの揺れに身を任せ、少し身体を捻ったかと思うと、彼女はもうベランダに出ていた。カーテン越しに、彼女の影が見える。少しして、タバコの臭いが伝わってきた。私は、彼女の方を見つめるのをやめて、部屋に目を移した。背中かから、彼女の吐息と煙を感じる。このまま、家に帰ろうか。ふと、そう思った。終電はとっくに過ぎている。歩いて帰るには遠すぎる距離だ。それでも、彼女と次に話すとき、何から話せばいいのか、私には到底わからなかった。彼女の心の中に潜む鬱蒼とした森に、無闇に足を踏み入れた自分を責めた。彼女と私の間には、話し合いでは埋まらない隔たりがある。そんな風にさえ感じていた。


「もうタバコは吸い終わったので、来ていいですよ。」唐突な音に、私は驚いて振り向いた。彼女は窓のへりに立ってこちらを見ていた。彼女に心を覗かれたのではという不安が、私の心臓を高鳴らせた。逆光で、彼女の顔が見えない。「ああ、はい。」何も考えず、私は言われた通りにベランダに出た。月の光が照らす彼女の顔には、先ほどまでの暗い表情が嘘のように消えていた。「ずっと放置してて退屈でしたか?でも、どうしても吸いたくなってしまったんです!すみません!それより!下を見てください!めちゃくちゃ黒くないですか!」彼女は身を乗り出してベランダの下を見ていた。どうやら、私がベランダについていかなかった理由を本当にタバコのせいだと勘違いしているらしかった。私はあなたとの間に向こう岸が見えないほどの隔たりを感じていたのに。少し拍子抜けした私は、彼女の真似をしてベランダから身を乗り出した。「もしうっかり落ちたら、別の世界に連れていかれそうですね。」深海に見えるとは言わなかった。「それいいですね!どんな世界だと思いますか!落ちた先は。」彼女は身を乗り出したまま私の方に向き直った。2人で身を乗り出した状態で見つめ合うと、彼女の目は輝きを増していった。つっ込まれると予測していなかっただけに、私は少し考える。「うーん。そうですね。。。。人がいない世界とか。他の生物はたくさんいるのに、人間は自分以外にいない世界とかどうですか。」なんとなく、その世界をイメージする。「それは寂しくないですか?それはいやです!私はスペインがいいと思います!」「それはただあなたの願望じゃないですか。」2人で向かい合ったまま、笑った。


「でも、なんで人がいない世界にしたんですか?」彼女は食い下がってきた。「あんまり考えてなかったですけど、、、。あ、そういえば私、中学の授業で一つだけ記憶に残っている言葉があって。どんなシチュエーションとか、どの先生の言葉だったのかとか、全部抜け落ちているんですけど、「隠れて生きよ」って言葉がなんだか好きなんです。エピクロスっていう哲学者の言葉で、実は本人はそんなことは言っていない、みたいなことを先生が言っていたと思うんですけど。でも、その響きといい、短いのに含みがある感じといい、なんか惹かれるんですよね。その頃から、人から離れた、隠れて生きるってことに異世界というか、憧れみたいなのを感じている気がします。」私は本音を告げた。「隠れて生きよ。ですかー。なんか、不思議な言葉ですね!だって、1人で生きよとか、静かに生きよとかならわかるんですけど、”隠れる”っていう言葉のチョイスが面白いと思います!何から?誰から?なぜ?って、その言葉の意図をいろいろ想像できて楽しいですね!」彼女は満面の笑みで、上を向いて考え事をしている。「そうなんです。その一言に、なぜか私はロマンを感じるんです。」「うーん!普通の人は、きっと冒険とか、夢とかにロマンを感じるのに、隠れて生きることにロマンを感じてるところが面白いです!それなら、私と一緒に隠れて生きてみませんか?私たち、何気に気が合いますし、きっと2人なら楽しく生きていけると思います!」彼女の笑顔は今にもはちきれそうで、見ているこちらがハラハラした。「隠れて生きるって、どこでですか。」私は笑いながら言った。「どこでもいいですよ!私たちならどこでも楽しく生きていけますよ!場所は関係ないです!」彼女があまりにも熱を帯びて力説しているので、私は少し冷静になった。しかし、酔いも回ってきたのか、私は思わず吹き出した。すると、彼女も釣られるように笑い始めた。2人の笑い声だけが、深海の底に響き渡っていた。


「夏の夜って涼しくていいですよね。」笑い声が少し落ち着いたところで、私はつい思ったことを口にした。外気の温度も、酔いで少し熱った身体も、話の内容も、何もかも気持ちのいい夜だった。「半袖半ズボンで外に出ても快適な季節ならなんでも好きできです!そうだ!二人で住む場所は、ずっと夜は半袖半ズボンで過ごせるところにしませんか?」「適当すぎませんか?」私たちはまた吹き出した。笑い声が夏の夜にのまれていく。その時の私たちは、本当に世界から身を隠し、2人で深海に生きているかのようだった。


ではまた。


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