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第227話.あ・ば・よ
1999年
私の退職の日も近い。人は別れの際、何と言うのだろうか。普通に言う「さようなら」は、「左様ならば、」からきている。本来、話が決裂して席を立つ「別れざま」を指す。
さらに縮めての「さらば」には、二度と会えない覚悟の厳しさが。「あばよ」は「あぁ、それならば、ようござんす」を、せっかちな江戸っ子が極端に縮めた言い方。こちらは結構、粋で愛嬌がある。他には、「御免」や「失敬」も。
目に見える「物
第226話. 青春とは・・・
1999年
本田宗一郎とホンダS600に憧れ、1964年24才で入社し、1999年60才で退職するまでの35年間を過ごしてきた本田技研工業株式会社や(株)本田技術研究所とは、私にとっていったい何だったのだろうか。
夢を与えてくれ一人前の人間に育ててくれた「修養の場」であり、伴侶を得、住いを持ち、子を育て、糧を求めた「生活の場」であり、人様に喜ばれるモノをつくり、誇りや自信をもらった「働きの場」で
第225話. 再び、マネすんな
1999年
1950年代の終わり頃、「ホンダスーパーカブC100(1958年)」が大ヒットした。このオートバイは50ccのモペットタイプで、クラッチレバーがなく片手運転が出来るというので重宝がられ、蕎麦屋の出前や新聞配達など、町の商店の間では大変な評判となる。この成功を見て他社もこれに追随し、街中この手のバイクが走り回り、Y社のカブ、S社のカブと呼ばれるようになった。
この頃ようやく日本にも、意
第223話.“創50”に想う
1998年
1997年秋、例年にない雨続きの空が奇跡的に晴れ上がった。30万人の応募者のうち幸運にも選ばれた5万人の人々が、ホンダの「創50」の記念イベント会場「ツインリンクもてぎ」のメインスタンドを埋め尽くした。
我々の視線の先には、ホンダにF1初勝利をもたらした「RA272」の勇姿がある。補助エンジン付き自転車がトコトコと、その後を「スーパーカブ」が追い、そして「S500」や「S800」が
第219話.欧州高級研究旅行
1997年
「マルG作戦」のもと、「高級」の要素を確かめに、みんなでヨーロッパへ行ってみようと。ドイツを中心に欧州各地を廻り、「高級」なものがありそうないろいろな場所、たとえば美術館、博物館、教会、高級ブティック、コンサート・ホール、楽器製作の工房などを訪ねる計画が立てられた。
旅は清水先生にもご一緒いただき、30~60代と幅広い年代構成となる。一番の成果は、朝昼晩の食事のとき、道中、見たこと感
第218話. 高級車づくりの研究
1997年
私が本田技研役員を退任し研究所専任になる際、本田技研社長にお約束をしたことの一つに、「高級車づくりの研究」がある。「高級車」そのものの研究と言うこともあるが、高級車をつくれる人材を育てるという意味も含まれていた。
「高級車づくり」は、本田さんの時代から今もなお、研究所が取り組んでいる重要な課題。私自身も、80年代初めローバー社との共同開発が始まった頃、当時の本田技研社長の命を受け、ヨ
第216話. アイデンティティ
1997年
このところよく、「こんな時、本田さんならどうするのだろうか」と考える。ホンダはバブル経済崩壊の後遺症から素早く立ち直り、収益も人が羨むほどになり先の見通しも立った。バブル崩壊後の立て直しに追われ、やむなく先送りされてきた「次世紀、ホンダのアイデンティティは如何にあるべきか」について、考えるゆとりもできた。
本田さんが、浜松に町工場同然の小さな会社を興されてから間もなく50年。何度か
第215話.ホンダは「ホンダ」
1997年
21世紀の「ホンダのアイデンティティは、如何にあるべきか」を探る中で、「ホンダがどのようにして生まれ今日に至ったか」を、もっと知るべきだという考えに至った。ホンダに身を置き30年余、初めてのことである。
創業者である本田さんは、その起業当初より日本から世界を目指した。ホンダは1997年現在、アメリカのビジネスでは大成功をおさめている。が、振り返ってみると、先輩方が最初に挑んだのはヨー
第214話. ホンダ・アイデンティティ
1997年
「最近、いろんな人から聞かれてね。僕は、答えようがなくて困っているんだ」、と本田技研社長から。そして、「中々できなかった例の件、研究所専任になったのを機に、何とか進めてみてもらえないかな」と切り出された。
兼任していた本田技研の役員を退任し、研究所専務としての業務に専念することになって間もない頃のこと。例の件というのは、これから先、21世紀の「ホンダのアイデンティティは、如何にあるべ