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第227話.あ・ば・よ

1999年

私の退職の日も近い。人は別れの際、何と言うのだろうか。普通に言う「さようなら」は、「左様ならば、」からきている。本来、話が決裂して席を立つ「別れざま」を指す。
さらに縮めての「さらば」には、二度と会えない覚悟の厳しさが。「あばよ」は「あぁ、それならば、ようござんす」を、せっかちな江戸っ子が極端に縮めた言い方。こちらは結構、粋で愛嬌がある。他には、「御免」や「失敬」も。
目に見える「物」や「人」と別れるのは確かだが、長年で培ってきた「ホンダスピリッツ」のような目に見えない「事」どもは、身に染み着いて離れることはあるまい。
これまでの仕事の中で、随分と迷い、悩み、考え、「ああ、これまでか」と観念し、「どうともなれ」と開き直って、神に祈りながら幾度「事」に当たってきたことか。
それでも、幸いにも私は今ここに在る。これはまぎれもなく、ホンダを心底愛し、信じ、楽しんできたからであり、このことだけは人に自慢できる。
長年、科学技術の申し子のような車づくりに関わり、合理性や客観性の世界に身を委ねた者が、こんな話をすると不思議に思われるだろうが、最近、「見えざるものを観る」とか「念ずれば通ずる」と言うようなことが、本当にあるのだと思えるようになった。
35年間の「ものづくり」を通じて、さまざまな「人」と出会い「物」と格闘し、「人」と「物」を繋ぐ苦労を重ねながら、いろんな「事」を編み出してきた中で、「心」の為せるわざの凄さを、身をもって知ったからだ。
仕事とは、この「事」に、心を込めて「仕える」ことだと思うようになった。
またこうした中から、「かたちはこころ」なる言葉を見いだせたことが、私の、ホンダでの最大の収穫だと思っている。
60才を「還暦」と言う。十二支(子丑寅兎)と十干(甲乙丙丁)の最小公倍数で、一回りしてもとに戻る。孔子は、その60歳を「耳順(じじゅん)」と言っている。心しよう。
日本では、「卒業」の「卒」は「終える」の意味し、「これまで」を無事に終えたことを祝う。アメリカの「Graduation」には、学位を授かり「これから」を祝福するとの意味が強い。私はアメリカ流で行こう。
「これまで」のことで思い残すことはない。いただいた達成感には心から「ありがとう」と言いたい。そして、一から始まる「これから」には、「よろしく」とお願いする。最後に「あばよ」とでも言って、「粋な別れ」と 洒落てみよう。

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