岩倉信弥

多摩美術大学名誉教授、経営学博士(立命館大学)、本田技研工業株式会社社友、デザイン道場「楽塾」主宰。 かたちはこころ|岩倉信弥  shinyaiwakura.com

岩倉信弥

多摩美術大学名誉教授、経営学博士(立命館大学)、本田技研工業株式会社社友、デザイン道場「楽塾」主宰。 かたちはこころ|岩倉信弥  shinyaiwakura.com

マガジン

  • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅳ.1990年代

    ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1990年代(私は50代-知命)

  • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅲ.1980年代

    ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1980年代(40代–不惑)

  • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅱ.1970年代

    ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1970年代(30代–而立)

  • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅰ.1960年代

    ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1960年代(20代–志学)

最近の記事

第227話.あ・ば・よ

1999年 私の退職の日も近い。人は別れの際、何と言うのだろうか。普通に言う「さようなら」は、「左様ならば、」からきている。本来、話が決裂して席を立つ「別れざま」を指す。 さらに縮めての「さらば」には、二度と会えない覚悟の厳しさが。「あばよ」は「あぁ、それならば、ようござんす」を、せっかちな江戸っ子が極端に縮めた言い方。こちらは結構、粋で愛嬌がある。他には、「御免」や「失敬」も。 目に見える「物」や「人」と別れるのは確かだが、長年で培ってきた「ホンダスピリッツ」のような目に

    • 第226話. 青春とは・・・

      1999年 本田宗一郎とホンダS600に憧れ、1964年24才で入社し、1999年60才で退職するまでの35年間を過ごしてきた本田技研工業株式会社や(株)本田技術研究所とは、私にとっていったい何だったのだろうか。 夢を与えてくれ一人前の人間に育ててくれた「修養の場」であり、伴侶を得、住いを持ち、子を育て、糧を求めた「生活の場」であり、人様に喜ばれるモノをつくり、誇りや自信をもらった「働きの場」であった。 世界中に販売店やサービス工場、生産工場や設備、それに開発の施設があり、

      • 第225話. 再び、マネすんな

        1999年 1950年代の終わり頃、「ホンダスーパーカブC100(1958年)」が大ヒットした。このオートバイは50ccのモペットタイプで、クラッチレバーがなく片手運転が出来るというので重宝がられ、蕎麦屋の出前や新聞配達など、町の商店の間では大変な評判となる。この成功を見て他社もこれに追随し、街中この手のバイクが走り回り、Y社のカブ、S社のカブと呼ばれるようになった。 この頃ようやく日本にも、意匠権というものが意識されはじめ、係争の結果ホンダが勝利する。当時のお金で数億円を

        • 第224話. 雷オヤジ

          1998年 「創50」の行事も無事終わった。本田さんが亡くなって早や7年になる。叱ってくれる人がいなくなり、自分が叱る立場になって初めて、叱ることの難しさを身にしみて感じるようになった。 昔から「地震、雷、火事、オヤジ」と言われてきた。とりわけ、最後にある「オヤジ」は、このところすっかり威厳をなくしている。「オヤジ」という言葉を聞くと、つい本田さんのことを思い出してしまう。 本田さんは、社員たちから「オヤジ」と呼ばれていた。が、若い我々にとっては、ただの「オヤジ」ではなかっ

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        • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅳ.1990年代
          46本
        • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅲ.1980年代
          61本
        • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅱ.1970年代
          50本
        • 千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅰ.1960年代
          37本

        記事

          第223話.“創50”に想う

          1998年 1997年秋、例年にない雨続きの空が奇跡的に晴れ上がった。30万人の応募者のうち幸運にも選ばれた5万人の人々が、ホンダの「創50」の記念イベント会場「ツインリンクもてぎ」のメインスタンドを埋め尽くした。 我々の視線の先には、ホンダにF1初勝利をもたらした「RA272」の勇姿がある。補助エンジン付き自転車がトコトコと、その後を「スーパーカブ」が追い、そして「S500」や「S800」が続く。 次々と過去の栄光を彩った車が、さらに続いて、21世紀のスポーツカーとして

          第223話.“創50”に想う

          第222話.「シック」で「エレガント」

          1998年 初代「ホンダオデッセイ」のデザインが、お客さんから「エレガント」と評されたことは、デザイナーにとって冥利に尽きる。 90年代の初め中国の人たちが、ホンダとの共同事業の可能性を検討するため来日。私は会食後の雑談の中で、彼らの前で「文質彬々」という文字を書き、「これが私のデザインポリシーです」と話すと、「これは、大変良い言葉だ」と皆さん揃って。 良い機会だと思い、この言葉の意味が、中国での本来の意味と私が理解に違いがないかを尋ねると、ある人が、「この言葉の意味は『上

          第222話.「シック」で「エレガント」

          第221話.「粋」で「いなせ」

          1998年 初代「ホンダオデッセイ」の、ユーザー調査レポートを見ていて分かったことがある。オデッセイのお客さんの多くが、この車のデザインを「エレガント」だと感じてくれているようだ。大ヒットした理由は、多分そんなところにあるのではないかと。 そして思い出すのは20年近く前、2代目プレリュードを開発していた頃、エンジン担当所付のSさんから、「あなたのデザインは、エレガントですね」と言われたことだ。エンジン屋さんが、デザインについて何か意見を言ってくれるというのは珍しいこと。その

          第221話.「粋」で「いなせ」

          第220話.マルG

          1997年 6代目「ホンダアコード」をベースにして、欧州生産用のアコードのデザイン作業が佳境に入った頃である。本田技研社長から直々に頼まれている「ホンダのアイデンティティ」の検討も、「マルG(丸で囲んだG)作戦」の名のもとチームを編成し本格的に動き出していた。 が、調査が進むほどに、かつて高かったはずのドイツにおけるホンダのプレゼンスが、あまりにも低くなっているのに愕然とし、このままではと、気ばかり焦る毎日であった。 この10年余りのあいだに、何が起こったのだろうか。一つに

          第220話.マルG

          第219話.欧州高級研究旅行

          1997年 「マルG作戦」のもと、「高級」の要素を確かめに、みんなでヨーロッパへ行ってみようと。ドイツを中心に欧州各地を廻り、「高級」なものがありそうないろいろな場所、たとえば美術館、博物館、教会、高級ブティック、コンサート・ホール、楽器製作の工房などを訪ねる計画が立てられた。 旅は清水先生にもご一緒いただき、30~60代と幅広い年代構成となる。一番の成果は、朝昼晩の食事のとき、道中、見たこと感じたことを話し合い、年代を超えて、意見の合うところ、そうでないところを確かめ合え

          第219話.欧州高級研究旅行

          第218話. 高級車づくりの研究

          1997年 私が本田技研役員を退任し研究所専任になる際、本田技研社長にお約束をしたことの一つに、「高級車づくりの研究」がある。「高級車」そのものの研究と言うこともあるが、高級車をつくれる人材を育てるという意味も含まれていた。 「高級車づくり」は、本田さんの時代から今もなお、研究所が取り組んでいる重要な課題。私自身も、80年代初めローバー社との共同開発が始まった頃、当時の本田技研社長の命を受け、ヨーロッパの高級車のつくりかた使われ方を見てまわった経験をもつ。 が、私とて、高級

          第218話. 高級車づくりの研究

          第217話. 再び富士(不二)

          1997年 80年代、欧州市場での日本車の台頭にドイツの各社は、基幹産業である自動車がカメラやエレクトロニクスの二の舞になっては、と思ったに相違ない。彼らは製品開発に力を入れると同時に「アイデンティティ」の強化を始めた。 「ベンツ」という会社は、ドイツという国の歴史抜きには語れない。18世紀末の「産業革命」で英仏に大きく出遅れたこの国は、科学技術を振興し工業立国に向けて懸命となる。結果19世紀末、ダイムラーがガソリンエンジンの自動車を実用化し国威発揚に繋げた。 ベンツは「絶

          第217話. 再び富士(不二)

          第216話. アイデンティティ

          1997年   このところよく、「こんな時、本田さんならどうするのだろうか」と考える。ホンダはバブル経済崩壊の後遺症から素早く立ち直り、収益も人が羨むほどになり先の見通しも立った。バブル崩壊後の立て直しに追われ、やむなく先送りされてきた「次世紀、ホンダのアイデンティティは如何にあるべきか」について、考えるゆとりもできた。 本田さんが、浜松に町工場同然の小さな会社を興されてから間もなく50年。何度かの危機を乗り越え今が在る。が、その本田さんはすでにいない。この先、その名前もイメ

          第216話. アイデンティティ

          第215話.ホンダは「ホンダ」

          1997年 21世紀の「ホンダのアイデンティティは、如何にあるべきか」を探る中で、「ホンダがどのようにして生まれ今日に至ったか」を、もっと知るべきだという考えに至った。ホンダに身を置き30年余、初めてのことである。 創業者である本田さんは、その起業当初より日本から世界を目指した。ホンダは1997年現在、アメリカのビジネスでは大成功をおさめている。が、振り返ってみると、先輩方が最初に挑んだのはヨーロッパであった。英国「マン島」での2輪レース、ベルギーへの工場進出、4輪レースの

          第215話.ホンダは「ホンダ」

          第214話. ホンダ・アイデンティティ

          1997年 「最近、いろんな人から聞かれてね。僕は、答えようがなくて困っているんだ」、と本田技研社長から。そして、「中々できなかった例の件、研究所専任になったのを機に、何とか進めてみてもらえないかな」と切り出された。 兼任していた本田技研の役員を退任し、研究所専務としての業務に専念することになって間もない頃のこと。例の件というのは、これから先、21世紀の「ホンダのアイデンティティは、如何にあるべきか」を考える、と言うことである。 実はここ何年か、この件についての議論を重ねて

          第214話. ホンダ・アイデンティティ

          第213話.3の矢

          1997年 初めてのインド出張を無事に終え、帰りは、ニューデリーから成田への直行便である。ホテルで、大枚はたいて手に入れた「胎臓界曼荼羅」は、後生大事に機内に持ち込んだ。家内への言い訳を考えねばならない。 大仕事の後はいつもなら機内で、シャンペンを頼みシャンシャンというところだが、今回はそうも行かない。乗務員には酒も食事も断り、早速、本田技研社長に報告書を書く。これも要約する。 今回の難しさは、大きく言って2つ。1つには、インドという急激かつ混沌と変化するマーケットが相手で

          第213話.3の矢

          第212話.まんだら

          1997年 開発中には「EK」と呼んでいたアジア地域専用車は、販売段階を迎え車名を「シティ」と名付けられた。販売に先立ち、先にインド入りしてユーザークリニックを実施してくれた人たちから、その結果報告を受ける。以下、その要約である。 ‘95年の調査でシティ(1.3L)がベンチマーク(競合比較対象車)とした車は、当時絶好調の大宇のシエロ。今回の1.5L化で新たにベンチマークにしたのは、オペル・アストラ(只今絶好調、シエロは絶不調)である。 プレミアムセグメント(上級車志向層)に

          第212話.まんだら