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千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅱ.1970年代

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ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1970年代(30代–而立)
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第37話.閃き

1970年車幅を決めるため、まずは室内幅の検討に入る。ドアはどの位の厚みがあれば不安でないの…

岩倉信弥
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第90話. 形は心なり

1979年就任したばかりの研究所社長に呼ばれ、「君はデザイナーをやめろ」といきなり。これで一…

岩倉信弥
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第89話. 一の字

1979年「腰が入っているかどうか、出来たものを見ればすぐ分かる」と本田さんが。一瞬ぎょっと…

岩倉信弥
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第88話 トールボーイ

1979年研究所所長がみえて、「大変だろうけど、ひとつ押し込めないかな」と。2代目シビックの…

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第87話 M・Mコンセプト

1979年「トールボーイ」の愛称で始ったこの車の、「機械部分を極小化することによって人間が使…

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第86話.通産大臣賞

1978年1978年、青天の霹靂のようなことが起こった。初代「ホンダシビック」に、自動車として、…

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第85話. りんごの気持

1978年2代目「ホンダシビック」のデザインを始めるに当たり、まずは北米の市場を見て廻ろうということに。最初の訪問先トロントでディーラー訪問の最中、アメリカンホンダの責任者から、至急デトロイトに行くようにとの連絡が入った。訪米中の本田さんのお相手をして欲しいと。 空港まで本田さんを迎えに行った私たちは、リムジンに同乗させてもらって町の最高級ホテルへ。モダンな丸い建物である。玄関を入るなり本田さんが怒りだした。「このホテルは、人間の生理や心理を知らない奴が設計している。丸は駄目

第84話. 手箱

1978年2代目「ホンダシビック」の先行研究モデルである「三宝の上のお供え餅」デザインが頓挫…

岩倉信弥
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第83話.背骨を通す

1978年2代目「ホンダシビック」の先行研究が難渋する中、別案として急遽、デザインすることに…

岩倉信弥
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第82話.三宝の上のお供え餅

1977年京極の宿では、2代目「ホンダシビック」のデザインイメージをつくる作業が続いていた。…

岩倉信弥
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第79話.和魂洋才

1977年 「明日から一寸、関西へつき合え」と研究所社長から言われる。朝のテレビでは、京都の…

岩倉信弥
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第80話.関西人気質

1977年2代目「ホンダシビック」の企画に難渋し、場所を変えて考えてみようと、研究所社長に連…

岩倉信弥
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第81話.京極の夜

1977年土曜日のせいもあってか、京都駅は花見客でごった返していた。2代目「ホンダシビック」…

岩倉信弥
3年前
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第77話.「ベンツ」の価値を「軽」のコストで

1977年   研究所の各機能ブロックの責任者(マネージャー)が所長室に集められ、次期(2代目)「ホンダシビック」のための先行研究を開始するとの指令がでた。研究所社長から進めるに当たっての訓話があり、その目標とするところは、「ベンツの価値を軽のコストでつくる」であった。初代シビックが発売されてから、すでに5年が経過していた。 先行研究プロジェクトのLPL(機種開発責任者)は、「モヒカン(ルーフモール)」開発でご一緒だった車体設計のHさん。LPL代行は、艤装設計のホープSさん。