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第215話.ホンダは「ホンダ」

1997年

21世紀の「ホンダのアイデンティティは、如何にあるべきか」を探る中で、「ホンダがどのようにして生まれ今日に至ったか」を、もっと知るべきだという考えに至った。ホンダに身を置き30年余、初めてのことである。
創業者である本田さんは、その起業当初より日本から世界を目指した。ホンダは1997年現在、アメリカのビジネスでは大成功をおさめている。が、振り返ってみると、先輩方が最初に挑んだのはヨーロッパであった。英国「マン島」での2輪レース、ベルギーへの工場進出、4輪レースのF1 もそうだ。初代シビックもヨーロッパのFFコンセプトに学んだ。英国の2輪、ドイツの4輪に学んだところが大きかった。
そして、彼らの合理主義や性能主義に日本的もてなし文化の味を加え、アメリカ人を魅了する料理をつくり上げたと言える。まさしく、日本で生まれ、ヨーロッパで学び、アメリカで育った会社である。今一度、謙虚に、このことを思い起こす必要がある。 
そこでまず、車の何たるかを学んだヨーロッパで、しかも車に対する評価の厳しいドイツで、ホンダのプレゼンスが果たしてどんな位置づけにあるのか、現状をつぶさに調べてみることにした。
どういう角度から探ってみても、その結果は、残念ではあるが、想像していた以上に惨憺たるものであった。汎欧についても、生産基地のある英国では多少気を吐いているものの、いずれの国も、似たり寄ったりの状態である。
このまま行くと、日本車群はおろか、アジアの後発メーカーと同じような位置づけになりかねない。「どうして?」と誰もが言う。みんなで一生懸命頑張ってきたのにと。が、これが現実である。
振り返ってみると、ホンダはヨーロッパにおいて、一派ひとからげに「ジャパニーズ・カーと」と呼ばれるのではなく、ホンダは「ホンダ」であるとして、「顔の見える会社」と一目おかれる時期があった。
80年代中盤、ロングルーフスタイルの3代目シビック・3ドア、初代CRX、2代目プレリュードなどが頑張っていた頃である。
これらの商品に共通していたのは、個性的なヨーロッパ車群の中にあっても、そのスタイルと性能に極めて独自性を持っていたこと。それ故に、企業イメージも数多ある日本車群からは遥かに抜きん出て、ベンツ、BMWには及ばないまでも、頑張れば手の届きそうなところにある。「それがどうして?」と聞きたい。たかだか10年、されど10年である。

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