イタ@ 20期(R)

駒沢の書店「SNOW SHOVELING」で行われている「BOOK CLUB」20期生…

イタ@ 20期(R)

駒沢の書店「SNOW SHOVELING」で行われている「BOOK CLUB」20期生(レッドソックス所属)です。村上春樹作品を精読し、2週に一度メンバーと語り尽くすという体験を通して得た「感想以上、考察未満」の「雑感」をアップしていきます。

最近の記事

雑感『悪は存在しない』

本作のラストは多くの含みを持ち、多様な解釈を生んでいるようだが、本稿ではそこに至る登場人物の造形に目を向けていきたい。 巧と花—喪失感を共有する父娘 巧の妻で花の母である女性はおそらく亡くなっており、安村家のピアノとキャビネットに置かれた家族写真のなかでのみ、その姿が確認できる。 二枚の写真は家の中で撮られている。一枚目は巧の妻と花がピアノの連弾をしているとおぼしき場面、二枚目は家族三人でじゃれあっている場面だ。花が劇中と変わらない姿で写っていることから、巧の妻が比較的最

    • 雑感『1Q84 BOOK1』

      近過去小説『1985』 ジョージ・オーウェルの『1984』(1949)は、全体主義が横暴を極める近未来を舞台にしたディストピア小説である。村上が 『1Q84』を執筆するにあたり、同作はもちろん念頭にあったという。 また、同じインタビューで村上は、近未来ものは「だいたい退屈」とも述べている。 つまり、村上の当初の心づもりは、 ・『1985』という題で ・オーウェル『1984』の翌年の話を ・2000年代の今日的視点に立って ・「ひょっとしたらこうなっていたかもしれない」と

      • 雑感『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』

        あまりにも多くのことが起こりすぎている 第2部の冒頭は、第1部の最後、間宮中尉来訪の当夜からシームレスで始まる。だが状況は明らかに異なる。クミコが姿をくらませたのだ。 時系列で言うと、クミコの逐電は間宮中尉が訪れた日の朝、第1部の第11章「間宮中尉の登場、温かい泥の中からやってきたもの、オーデコロン」で「僕」が彼女を送り出した直後のことである。しかし、我々読者は単行本で70ページ弱の間宮中尉の「長い話」を聞き、巻をまたいでいきなり失踪の事実をつきつけられる。このギャップに

        • 雑感『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』

          過去を切り離された主人公 中編小説『国境の南、太陽の西』は、『ねじまき鳥クロニクル』の「原型(現行の小説の第1部と第二部)」から「外科手術をするみたいに切除して抜き出」された三つの章を「独自に発展させ」た作品である。 この分離作業の経緯は『村上春樹全作品1990〜2000 ② 国境の南、太陽の西 スプートニクの恋人』収載の「解題」に詳しい。 『国境の南〜』のイズミは、村上作品で繰り返し登場する“故郷に置いてきた元恋人”である。 村上作品の主人公は、大学進学を機に故郷を捨て

        雑感『悪は存在しない』

          雑感『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

          信用ならない語り手—多崎つくる 村上作品の主人公は、名前を持たなかったり、明確な過去や家族関係、生い立ちが描かれなかったりすることが少なくない。つまり、先天的にアイデンティティーが奪われている。 これに対し、多崎つくるという主人公が独特なのは、彼のアイデンティティー・クライシスが後天的に与えられる点である。 つくるは大学進学のため自らの意思で故郷を去るが、その後、「長く親密に交際していた四人の友人たち」に事実上の絶交を突きつけられることで、故郷とのつながりを絶たれる。第三

          雑感『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

          雑感『海辺のカフカ』

          父親の予言の真意は? 本作の主人公・カフカ少年に、父親が刻み込んだ予言はあまりにも重い。 しかし、大島さんはこの予言の「なにをしようと」の部分に着目する。 「常識に富んだリアリストである」大島さんは「そこにはアイロニーというものが存在するからだ」と主張する。 悲劇的な結末が予言されているからこそ、それを回避するために「勇敢さと正直さ」を駆使し「選択や努力」をする。そうすることで「君は確固として君」となり「前に進」むことができる。 「アイロニーが人を深め、大きくする。そ

          雑感『海辺のカフカ』

          雑感『ノルウェイの森』

          自死は最大のディスコミュニケーション 本作では多くの登場人物が死を選ぶ。主人公・「僕(ワタナベ)」が執着する直子も物語の終盤で死を選ぶ。その顚末を「僕」はレイコさんから伝えられる。 直子は「僕」に対して何のメッセージも残さずに首をくくった。これは物語中の最初の死者であるキズキの自死のときと同じだ。 キズキの死後、「僕」はある「諦観」を得る。 この「諦観」の肝となるのは、死の経験値というべきものがある程度蓄積すれば、人は死ぬということである。キズキも直子も生死の閾値を超

          雑感『ノルウェイの森』

          雑感『一人称単数』

          「僕」と「村上春樹」の分離性 本書が独特なのは、語り手である「僕」が「村上春樹」であると示される箇所があることだ。短編「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の一節である。 題名ともなっている「ヤクルト・スワローズ詩集」であるが、実存はしないといわれている。ただ、この架空の詩集からの引用が、村上作品に登場することがある。 架空の作品といえば、デビュー作『風の歌を聴け』に登場する架空の作家「デレク・ハートフィールド」が想起される。『風の〜』では主人公の「僕」が「文章についての多く

          雑感『一人称単数』

          雑感『羊をめぐる冒険』

          十二時の「お茶の会」で起こったこと 本作で一際異様な存在感を示しているのが、黒服の秘書である。戦後日本のフィクサー「先生」に仕える彼は、「僕」に「羊つき」状態にある「鼠」を「精神的な穴倉」から引っ張り出す役割を与える。 物語の終盤、「鼠」との邂逅後、役割を果たした「僕」を、男が待ち構える。 しかし、男が向かった先の別荘は、「鼠」が用意し「僕」がセットした時限爆弾で爆発、炎上する。 一読すると、「鼠」と「僕」の連携プレーにより男の裏をかき、彼の野望は打ち砕かれたように見える

          雑感『羊をめぐる冒険』

          雑感『1973年のピンボール』

          「ラバー・ソウル」とコーヒー 本書の序章に当たる「1969-1973」に「僕」が「直子」の故郷を訪ねる場面が出てくる。『ノルウェイの森』の同名人物との関係性は不明だが、1973年9月時点でこの「直子」は故人であることが明らかにされている。 「ノルウェイの森」は、ビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(1965)の収録曲「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」だ。『ノルウェイの森』の「直子」は「この曲いちばん好き」だと語る。 双

          雑感『1973年のピンボール』

          雑感『神の子どもたちはみな踊る』

          世界の背後にある見えない法則 本書の装画は前衛画家・北脇昇(1901–1951)の「空港」(1937) で、使用を決めたのは村上本人である。 村上が足を運んだ特集展示は「北脇昇展」(東京国立近代美術館。1997)と思われるが、2020年にも同館でコレクションによる小企画が行われている。以下は同展のパンフレットからの引用である。 世界の背後にある見えない法則を解き明かし、世界観のモデルを示すこと−−。往々にして超自然的で幻想的なイメージに注目されがちな村上作品に通底する部

          雑感『神の子どもたちはみな踊る』

          雑感『街とその不確かな壁』

          「きみ」はどこへ行ったのか? 『街とその不確かな壁』において、「きみ」は「ぼく」の交際相手の呼称として、また「君」は「街」に暮らす図書館の少女のそれとして明確に描き分けられている。 「きみ」によると、自分自身は「君」の影であり、「君」は「きみ」の実体であるという。また、影である「きみ」は三歳のときに里子に出され、かりそめの両親に育てられたとされる。 しかし、「きみ」の言動が十分に信じられるかについては、「ぼく」も疑問視している。 また、「私」の「影」は彼女(きみ)こそが

          雑感『街とその不確かな壁』

          雑感『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

          心とは何か 『世界の終り〜』において「心」とは、「過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性」と定義される。 この独自性を情報スクランブルにおけるブラックボックスとして利用するのがシャフリングシステムだ。  一方、過去の記憶が失われた状態でも、心はその自律性により機能することが可能であるとしている。  では、「心を失う」とはどういうことか。「世界の終り」パート(以下、EWパート)では「影」の死がキーとなる。 心を失って初めて、「街」の永続性のシステ

          雑感『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』