雑感『羊をめぐる冒険』
十二時の「お茶の会」で起こったこと
本作で一際異様な存在感を示しているのが、黒服の秘書である。戦後日本のフィクサー「先生」に仕える彼は、「僕」に「羊つき」状態にある「鼠」を「精神的な穴倉」から引っ張り出す役割を与える。
物語の終盤、「鼠」との邂逅後、役割を果たした「僕」を、男が待ち構える。
しかし、男が向かった先の別荘は、「鼠」が用意し「僕」がセットした時限爆弾で爆発、炎上する。
一読すると、「鼠」と「僕」の連携プレーにより男の裏をかき、彼の野望は打ち砕かれたように見える。だが、本当にそうだろうか。
特殊能力としての「勘」、「僕」との再会を期する予言。そして、事ここに至るまでの用意周到さからも、男がまんまと「鼠」の策略にはまったとは考えにくい。
では、そこまでして彼が手に入れたかった「羊」とはなんなのか。男の口からは「先生」の作り上げた組織の成立要素の「意志部分」ということになる。
「意志部分」は、男にも理解がおよばない。また「意志部分」は分割不可能で「百パーセント引き継がれるか、百パーセント消滅するか」である。そして、「羊」は自身の後継者として彼ではなく「鼠」を選んだ。
男は「先生」の故郷である十二滝町で「羊」が「鼠」に宿主を変えたことを知る(「先生」が行っていた羊に関する記事のリサーチを「個人的に」引き継いだことがポイントだ。
つまり「羊」が「先生」を離れて「先生」が意識を失った「今年の春」の前に「星を背負った羊」のイメージが流布することはありえない。果たして、「僕」の作ったPR誌のグラビアが網にかかった。「僕」の経歴をたどることで「鼠」の存在と居場所を把握することも彼にとってはたやすい)。
男は「僕」を利用して「鼠」を手に入れようとする。一方、「鼠」は自死を選ぶことで「意志部分=羊」の「百パーセント消滅」を画策し、「僕」の協力をあおぎ男を爆殺する––。
一見、筋が通っているが、気になるのは下記の「僕」と男のやりとりだ。
男には別荘から帰る手段が残されていない。もちろん、運転手が「僕」を駅まで送ってから秘書を迎えに戻る約束だったかもしれない。また、「僕」のガールフレンドが物語から退場した際も、歩いて町まで戻り、電車に乗って札幌のいるかホテルまで帰ったと思われる。車で1時間半の距離を歩くこともできなくはない。
だが、十二時の「お茶の会」が彼の最終目的であった、と解釈するとどうだろうか。
つまり、
・男は「羊」を内包して自死した「鼠」を手に入れた
・男は「僕」と再会する約束をいつか果たす
ことはあり得ないだろうか。
ここで視点を変えて、「鼠」が試みたことを検証しよう。
まず「鼠」が「僕」に託した写真は、秘書の発言から1978年9月からさかのぼること6か月以内に撮影されていることがわかる。これは、同年5月消印の「鼠」から「僕」への二番目の手紙に同封されていたことと時期的に矛盾しない。
「鼠」にとっても、黒服の秘書が写真を見ただけで自分が「羊」と関わりを持ったこと、自分のいる場所にすぐにたどり着くことはわかっていたはずだ。また、男が「羊つき」になった自分をただ入手しても意味がないこともわかっていた。
つまり、「僕」を使うことが「鼠」と男にとっての共謀であり、取引であったと推測できる。一方にとっては「友情」の、一方にとっては「取引」の名のもとに、「僕」の「自由意志」による「内輪だけのパーティー」への参加を促したのだ。
では、「鼠」と秘書の男との取引とは何か。
おそらく、害にならないかたちに変換したうえでの「羊」の引き渡しだろう。男にとっては「羊」との心中と言い換えてもいいかもしれない。なぜなら意志部分は個の認識の否定と、言語の否定だからだ。
このくだりは一読すると、男をあざむいて爆殺する企みととれるが、前述の予知能力(勘)と予言(またいつか会おう)と矛盾する。むしろ葬るための最終段階に男が関与すると考える方が自然だ。
羊的思念にとっての善
いるかホテルでの「僕」との会話の中で、羊博士は「羊」の求めているのは「羊的思念の具現」であると説明する。
「羊的思念」にとっての善は、我々の価値基準と外れたところにあることがわかる。
では、もし「羊」がその善性を十全に発揮するとどうなるのか。
これは究極の革命であり、黒服の秘書が言及した学生運動が志向した革命、そしてそれを絶望へと導く凡庸さと対をなす。
「鼠」は自分の非凡さを「弱さ」と定義する。それを「羊」に見込まれ、つけこまれた。しかしその非凡さは凡庸さとの間にゆるやかなグラデーションを持つ。「羊」の申し出がどんなに魅力的であっても「鼠」を押し留めたものもまた凡庸なものだった。
さて、「羊的思念にとっての善」の実現、あるいは革命を阻止したのちも、「羊」は「鼠」に「一冬」の時間を与えている(だから死後、「僕」と再会できた)。「鼠」が黒服の秘書との取引材料としたのが、宙ぶらりんになり実行能力を奪われた思念としての羊である。なぜなら、男は革命の成就に興味はないからだ。
「羊」が望むことのために全力を尽くすのであれば、男は「鼠」の自死を防ぎ、「羊」の継承をサポートするだろう。
だとすると、ここで黒服の秘書はうそをついているのだろうか。いや、男は「正直」に話している。
彼が固執するのは純粋な「意志部分」の「百パーセント」の継承だ。言い換えれば「凡庸」の対極にある原初の混沌を引き受けることだ。それはおそらく「羊博士」の語る「羊抜け」の苦しみに近い、あるいはそれ以上の苦痛を伴うものだが、男はその苦痛を甘んじて受け入れると決めているのだろう。
だから、「僕」は彼に「気が狂ってる」と伝えたのだ。そして、失われていく「羊」と一体化して思念となることで「いつかまた会」うことも可能になる。
羊なき世界、あるいは「僕」の非現実的な凡庸さ
「羊」がその善性を実現する事態は避けられた。では、この世界はどうなったのか。
「先生」の死後、組織の「収益部分」の分配にうつつを抜かすやからを蔑んだ発言であるが、まさに80年代以降、この国が歩んでいく道を示唆してもいる。
つまり、意志もモラルもなく、利益を追求し豊かさを求める姿を。そしてゆるやかな衰微を経て地金が見えたとき、そこにはなんらの確固とした信条が存在しなかったことを我々は知っている。
羊なき世界は凡庸をきわめる。一般論の国の王様である「僕」の凡庸さを、黒服の秘書はこう評する。
「鼠」と交際していた海辺に住む彼女は、「鼠」のことを「十分に非現実的だった」と評する。
非現実的だった「鼠」。その友だちである「僕」を雰囲気で見分けた彼女には、「僕」の「非現実的な凡庸さ」が見て取れた。
本書の第四章「羊をめぐる冒険Ⅰ」以降を本編とするなら、アヴァンタイトルである第一章から第三章は、第一作『風の歌を聴け』、第二作『1973年のピンボール』とで成す三部作の間隙を埋めるミッシングリンクでもあり、アナザーストーリーの体をなす。
いずれにせよ、この三つの章は主人公である「僕」をフィーチャーする。
離婚した妻が「僕」を評したように、「誰とでも寝る女の子」、元妻、「立派な耳のガール・フレンド」が入れ替わるように登場する。
なぜ、「僕」のもとには誰かがやってくるのか。ガールフレンドが初めて耳を開放する場面に注目しよう。
ここにまたひとつの非現実性が登場する。
そして、なぜ「僕」の前で耳を開放できたのかも彼女の口から語られる。
半分でしか生きていないから、彼女の非現実性を受け入れられた。これは「鼠」の「弱さ」を「僕」が受容したことと呼応している。「自分自身の半分」で生きているからこそ凡庸であり、もう半分が非現実的なのだ。
非現実的に凡庸な「僕」は「羊」の器たりえない。しかし、非凡さ、非現実性、真の弱さといったものを現実的にドライブさせるためには、「僕」の凡庸さが必要だった。
物語の主人公は、ヒーローのような非凡さが求められると同時に、読者が共感できる凡庸さも求められる。本作では非凡さを「鼠」に担わせるとともに、「僕」があえて非凡さを押し殺して生きていることがわかる。
なぜ、「僕」はそのように生きているのか。「非現実性」を抱えながら現実を生きようとしているからである。その現実には、最後まで「鼠」を引き止めていた夏の光や風のにおいやセミの声、「僕」と飲むビール、故郷の街と海辺の彼女、そしてジェイも含まれている。
じつは再会を期する言葉は、黒服の秘書以外に、エピローグのジェイとの会話の中で「僕」も発している。
「僕」がジェイに「会えるさ」と言うのは、「鼠」との最後のやりとりをふまえている。
「羊」を内包し肉体を失った「鼠」は、黒服の秘書との取引を遂行し「一冬」かけて消えていく間に「僕」とジェイに再会できるだろう。おそらく、ここではない場所で、思いもかけない形で。
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