雑感『羊をめぐる冒険』

十二時の「お茶の会」で起こったこと

本作で一際異様な存在感を示しているのが、黒服の秘書である。戦後日本のフィクサー「先生」に仕える彼は、「僕」に「羊つき」状態にある「鼠」を「精神的な穴倉」から引っ張り出す役割を与える。
物語の終盤、「鼠」との邂逅後、役割を果たした「僕」を、男が待ち構える。

「さて」と男はつづけた。「羊をめぐる冒険は結末に向いつつある。私の計算と君の無邪気さのおかげだ。私は彼を手に入れる。そうだね」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p217)

しかし、男が向かった先の別荘は、「鼠」が用意し「僕」がセットした時限爆弾で爆発、炎上する。
一読すると、「鼠」と「僕」の連携プレーにより男の裏をかき、彼の野望は打ち砕かれたように見える。だが、本当にそうだろうか。

「私がいったいどうして先生の秘書になれたと思う? 努力? IQ? 要領? まさか。その理由は私に能力があったからさ。勘だよ。君たちのことばに即して言えばね」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p215)

「あなたは気が狂ってるんだ」と僕は言った。
「またいつか会おう」と男は言った。そしてカーブを台地に向って歩いていった。

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p217)

特殊能力としての「勘」、「僕」との再会を期する予言。そして、事ここに至るまでの用意周到さからも、男がまんまと「鼠」の策略にはまったとは考えにくい。

では、そこまでして彼が手に入れたかった「羊」とはなんなのか。男の口からは「先生」の作り上げた組織の成立要素の「意志部分」ということになる。

先生の死後に人々が分割を求めて群がるのもこの『収益部分』だけだ。『意志部分』は誰も欲しがらない。誰にも理解できないからだ。(中略)意志は分割され得ない。百パーセント引き継がれるか、百パーセント消滅するかだ

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p188-189)

「『意志』とは何ですか?」と僕は訊ねてみた。
「空間を統御し、時間を統御し、可能性を統御する観念だ」
「わかりませんね」
「もちろん誰にもわかりはしない。先生だけが、いわば本能的にそれを理解されていた。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p189)

「もちろん、私が今しゃべっているのはただの言葉だ。言葉はどれだけ並べたところで、先生の抱いておられた意志の形を君に説明することなんてできない。私の説明は私とその意志とのあいだのかかわりあいをまたべつな言語的なかかわりあいで示したものでしかない。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p189)

「意志部分」は、男にも理解がおよばない。また「意志部分」は分割不可能で「百パーセント引き継がれるか、百パーセント消滅するか」である。そして、「羊」は自身の後継者として彼ではなく「鼠」を選んだ。

男は「先生」の故郷である十二滝町で「羊」が「鼠」に宿主を変えたことを知る(「先生」が行っていた羊に関する記事のリサーチを「個人的に」引き継いだことがポイントだ。
つまり「羊」が「先生」を離れて「先生」が意識を失った「今年の春」の前に「星を背負った羊」のイメージが流布することはありえない。果たして、「僕」の作ったPR誌のグラビアが網にかかった。「僕」の経歴をたどることで「鼠」の存在と居場所を把握することも彼にとってはたやすい)。

男は「僕」を利用して「鼠」を手に入れようとする。一方、「鼠」は自死を選ぶことで「意志部分=羊」の「百パーセント消滅」を画策し、「僕」の協力をあおぎ男を爆殺する––。
一見、筋が通っているが、気になるのは下記の「僕」と男のやりとりだ。

「彼はあそこで待っていますよ。十二時ちょうどにお茶の会があるそうです」
僕と男は同時に腕時計を見た。十時四十分だった。
「私はそろそろ行くよ」と男は言った。「待たせちゃ悪いからね。君は下までジープで送ってもらうといい。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p217)

男には別荘から帰る手段が残されていない。もちろん、運転手が「僕」を駅まで送ってから秘書を迎えに戻る約束だったかもしれない。また、「僕」のガールフレンドが物語から退場した際も、歩いて町まで戻り、電車に乗って札幌のいるかホテルまで帰ったと思われる。車で1時間半の距離を歩くこともできなくはない。
だが、十二時の「お茶の会」が彼の最終目的であった、と解釈するとどうだろうか。

つまり、
・男は「羊」を内包して自死した「鼠」を手に入れた
・男は「僕」と再会する約束をいつか果たす
ことはあり得ないだろうか。

ここで視点を変えて、「鼠」が試みたことを検証しよう。
まず「鼠」が「僕」に託した写真は、秘書の発言から1978年9月からさかのぼること6か月以内に撮影されていることがわかる。これは、同年5月消印の「鼠」から「僕」への二番目の手紙に同封されていたことと時期的に矛盾しない。

「鼠」にとっても、黒服の秘書が写真を見ただけで自分が「羊」と関わりを持ったこと、自分のいる場所にすぐにたどり着くことはわかっていたはずだ。また、男が「羊つき」になった自分をただ入手しても意味がないこともわかっていた。

つまり、「僕」を使うことが「鼠」と男にとっての共謀であり、取引であったと推測できる。一方にとっては「友情」の、一方にとっては「取引」の名のもとに、「僕」の「自由意志」による「内輪だけのパーティー」への参加を促したのだ。

では、「鼠」と秘書の男との取引とは何か。
おそらく、害にならないかたちに変換したうえでの「羊」の引き渡しだろう。男にとっては「羊」との心中と言い換えてもいいかもしれない。なぜなら意志部分は個の認識の否定と、言語の否定だからだ。

「そうだよ。俺の体と一緒に全ては葬られたんだ。あとひとつだけ作業をすれば、永遠に葬られる」
「あとひとつ?」
「あとひとつだよ。それはあとで君にやってもらうことになる。しかし今はその話はよそう」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p203)

このくだりは一読すると、男をあざむいて爆殺する企みととれるが、前述の予知能力(勘)と予言(またいつか会おう)と矛盾する。むしろ葬るための最終段階に男が関与すると考える方が自然だ。

羊的思念にとっての善

いるかホテルでの「僕」との会話の中で、羊博士は「羊」の求めているのは「羊的思念の具現」であると説明する。

「それは善的なものですか?」
「羊的思念にとってはもちろん善だ」
「あなたにとっては?」
「わからんよ」と老人は言った。「本当にわからんのだ。羊が去ったあとではどこまでが私でどこまでが羊の影なのか、それさえもわからないのだ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p61-62)

「羊的思念」にとっての善は、我々の価値基準と外れたところにあることがわかる。
では、もし「羊」がその善性を十全に発揮するとどうなるのか。

「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺(鼠)と羊がいる」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p204)

これは究極の革命であり、黒服の秘書が言及した学生運動が志向した革命、そしてそれを絶望へと導く凡庸さと対をなす。

「君たちが六〇年代の後半に行った、あるいは行おうとした意識の拡大化は、それが個に根ざしていたが故に完全な失敗に終った。つまり個の質量が変らないのに、意識だけを拡大していけばその究極にあるのは絶望でしかない。私の言う凡庸さというのは、そういう意味だ。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p190)

「鼠」は自分の非凡さを「弱さ」と定義する。それを「羊」に見込まれ、つけこまれた。しかしその非凡さは凡庸さとの間にゆるやかなグラデーションを持つ。「羊」の申し出がどんなに魅力的であっても「鼠」を押し留めたものもまた凡庸なものだった。

「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蟬の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p204)

さて、「羊的思念にとっての善」の実現、あるいは革命を阻止したのちも、「羊」は「鼠」に「一冬」の時間を与えている(だから死後、「僕」と再会できた)。「鼠」が黒服の秘書との取引材料としたのが、宙ぶらりんになり実行能力を奪われた思念としての羊である。なぜなら、男は革命の成就に興味はないからだ。

「(羊を)探し出してどうするんですか?」
「どうもしないさ。たぶん私にはどうにもできないだろう。(中略)私の望みは失われてゆくものをこの目で見届けることだけだよ。そしてもしその羊が何かを望んでいるのだとしたら、私はそのために全力を尽したい。先生が亡くなってしまえば、私の人生にはもう殆んど意味なんてないからね」

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p193)

「羊」が望むことのために全力を尽くすのであれば、男は「鼠」の自死を防ぎ、「羊」の継承をサポートするだろう。
だとすると、ここで黒服の秘書はうそをついているのだろうか。いや、男は「正直」に話している。

彼が固執するのは純粋な「意志部分」の「百パーセント」の継承だ。言い換えれば「凡庸」の対極にある原初の混沌を引き受けることだ。それはおそらく「羊博士」の語る「羊抜け」の苦しみに近い、あるいはそれ以上の苦痛を伴うものだが、男はその苦痛を甘んじて受け入れると決めているのだろう。
だから、「僕」は彼に「気が狂ってる」と伝えたのだ。そして、失われていく「羊」と一体化して思念となることで「いつかまた会」うことも可能になる。

羊なき世界、あるいは「僕」の非現実的な凡庸さ

「羊」がその善性を実現する事態は避けられた。では、この世界はどうなったのか。

「先生は一週間前に亡くなったよ。とても立派な葬儀だったね。今東京はその後継者選びでてんやわんやだよ。凡庸な連中が何やかやと飛びまわっている。御苦労なことさ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p215)

「先生」の死後、組織の「収益部分」の分配にうつつを抜かすやからを蔑んだ発言であるが、まさに80年代以降、この国が歩んでいく道を示唆してもいる。
つまり、意志もモラルもなく、利益を追求し豊かさを求める姿を。そしてゆるやかな衰微を経て地金が見えたとき、そこにはなんらの確固とした信条が存在しなかったことを我々は知っている。

羊なき世界は凡庸をきわめる。一般論の国の王様である「僕」の凡庸さを、黒服の秘書はこう評する。

「(前略)人間をおおまかに二つに分けると現実的に凡庸なグループと非現実的に凡庸なグループにわかれるが、君は明らかに後者に属する。これは覚えておくといいよ。君の辿る運命は非現実的な凡庸さが辿る運命でもある」

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p172)

「鼠」と交際していた海辺に住む彼女は、「鼠」のことを「十分に非現実的だった」と評する。

「私の非現実性を打ち破るためには、あの人の非現実性が必要なんだって気がしたのよ。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p161)

非現実的だった「鼠」。その友だちである「僕」を雰囲気で見分けた彼女には、「僕」の「非現実的な凡庸さ」が見て取れた。

「わかりました」と僕は言った。「僕は白いスポーツ・シャツにグリーンの綿のズボンをはいてます。髪は短くて……」
「見当はつくからいいわ」と彼女はおだやかに僕の言葉を遮った。そして電話は切れた。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p153)

本書の第四章「羊をめぐる冒険Ⅰ」以降を本編とするなら、アヴァンタイトルである第一章から第三章は、第一作『風の歌を聴け』、第二作『1973年のピンボール』とで成す三部作の間隙を埋めるミッシングリンクでもあり、アナザーストーリーの体をなす。
いずれにせよ、この三つの章は主人公である「僕」をフィーチャーする。

「あなたには何か、そういったところがあるのよ。砂時計と同じね。砂がなくなってしまうと必ず誰かがやってきてひっくり返していくの」

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p33)

離婚した妻が「僕」を評したように、「誰とでも寝る女の子」、元妻、「立派な耳のガール・フレンド」が入れ替わるように登場する。
なぜ、「僕」のもとには誰かがやってくるのか。ガールフレンドが初めて耳を開放する場面に注目しよう。

彼女は非現実的なまでに美しかった。その美しさは僕がそれまでに目にしたこともなく、想像したこともない種類の美しさだった。全てが宇宙のように膨張し、そして同時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。(中略)彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p66-67)

ここにまたひとつの非現実性が登場する。
そして、なぜ「僕」の前で耳を開放できたのかも彼女の口から語られる。

「それはあなたが自分自身の半分でしか生きてないからよ」と彼女はあっさりと言った。
「あとの半分はまだどこかに手つかずで残っているの」
「ふうん」と僕は言った。
「そういう意味では私たちは似ていなくもないのよ。私は耳をふさいでいるし、あなたは半分だけしか生きてないしね。そう思わない?」

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p70)

半分でしか生きていないから、彼女の非現実性を受け入れられた。これは「鼠」の「弱さ」を「僕」が受容したことと呼応している。「自分自身の半分」で生きているからこそ凡庸であり、もう半分が非現実的なのだ。

非現実的に凡庸な「僕」は「羊」の器たりえない。しかし、非凡さ、非現実性、真の弱さといったものを現実的にドライブさせるためには、「僕」の凡庸さが必要だった。

「でももしそうだとしても僕の残り半分は君の耳ほど輝かしくないさ」「たぶん」と彼女は微笑んだ。「あなたには本当に何もわかってないのね」

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p71)

「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作りあげてしまったようだね」と鼠は言った。「君は世界が良くなっていくと信じてるかい?」
「何が良くて何が悪いなんて、誰にわかるんだ?」
鼠は笑った。「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p204)

物語の主人公は、ヒーローのような非凡さが求められると同時に、読者が共感できる凡庸さも求められる。本作では非凡さを「鼠」に担わせるとともに、「僕」があえて非凡さを押し殺して生きていることがわかる。

なぜ、「僕」はそのように生きているのか。「非現実性」を抱えながら現実を生きようとしているからである。その現実には、最後まで「鼠」を引き止めていた夏の光や風のにおいやセミの声、「僕」と飲むビール、故郷の街と海辺の彼女、そしてジェイも含まれている。

それからジェイにもよろしく。僕のぶんのビールを飲んでおいてくれ。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p132)

ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p159)

じつは再会を期する言葉は、黒服の秘書以外に、エピローグのジェイとの会話の中で「僕」も発している。

「(ジェイ)いつか会えるかな」
「会えるさ。共同経営者だもの。その金は僕と鼠とで稼いだんだぜ」
「とても嬉しいよ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p230)

「僕」がジェイに「会えるさ」と言うのは、「鼠」との最後のやりとりをふまえている。

「そろそろ俺は行くよ」と鼠は言った。「あまり長くはいられないんだ。きっとまたどこかで会えるだろう」
「そうだね」と僕は言った。
「できればもう少し明るいところで、季節が夏だといいな」と鼠は言った。

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p208-208)

「君に会えて嬉しかったよ」
沈黙が一瞬我々二人を包んだ。
「さようなら」と鼠は言った。
「また会おう」と僕は言った。

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p208)

「羊」を内包し肉体を失った「鼠」は、黒服の秘書との取引を遂行し「一冬」かけて消えていく間に「僕」とジェイに再会できるだろう。おそらく、ここではない場所で、思いもかけない形で。

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