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雑感『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

心とは何か

『世界の終り〜』において「心」とは、「過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性」と定義される。

(博士)アイデンティティーとは何か? 一人ひとりの人間の過去の体験の記憶の集積によってもたらされた思考システムの独自性のことです。もっと簡単に心と呼んでもよろしい。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』25 ハードボイルド・ワンダーランド(食事、象工場、罠))

この独自性を情報スクランブルにおけるブラックボックスとして利用するのがシャフリングシステムだ。 
一方、過去の記憶が失われた状態でも、心はその自律性により機能することが可能であるとしている。 

(影)たとえ記憶が失われたしても、心はそのあるがままの方向に進んでいくものなんだ。心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 24 世界の終り(影の広場))

では、「心を失う」とはどういうことか。「世界の終り」パート(以下、EWパート)では「影」の死がキーとなる。

(僕)影が死んでしまえば、僕はもう永遠に心を失ってしまうことになる。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 34 世界の終り(頭骨))

心を失って初めて、「街」の永続性のシステムに組み込まれることが可能になる。図書館の少女の影は幼いころに壁の外に出され、17歳のとき、亡くなるために街に戻り、りんご林に埋葬されている。ゆえに少女には心がなく、影が死んでいない「僕」は彼女と心を通わせることができない。

作中では「心を失う」の前段階、「心を疲れさせる」ことにも触れられている。

(図書館の少女)疲れを心の中にいれちゃだめよ。(中略)疲れは体を支配するかもしれないけれど、心は自分のものにしておきなさいってね

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 6 世界の終り(影))

(私)(疲れると)感情のいろんなセクションが不明確になるんだ。自己に対する憐憫、他者に対する怒り、他者に対する憐憫、自己に対する怒り——そういうものがさ

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 17 ハードボイルド・ワンダーランド(世界の終り、チャーリー・パーカー、時限爆弾))

 なお「自己憐憫」は中編『街と、その不確かな壁』にも「暗い心」に群がるものとしてあげられている。

物語内の時間性、因果性

さて、本作において「心」はたとえ記憶を失っても、その自律性により機能すると先に述べた。ここでは「心」は時間性、因果性であると大胆に仮説したい。
本作において「心(自我)」は、その永続性を妨げるノイズとして描かれている。

(博士)そこ(街)には時間もなければ空間の広がりもなく生も死もなく、正確な意味での価値観や自我もありません。そこでは獣たちが人々の自我をコントロールするのです

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 25 ハードボイルド・ワンダーランド(食事、象工場、罠))

逆に言うと、心があれば時間が、そして時間性の産物である因果が生じることになる。

「ハードボイルド・ワンダーランド」パート(以下HWパート)において、「私」が物語序盤にシャフリングを行ったことにより「第三回路」(「私」の意識の核を博士がビジュアライズし編集し直した思考システム。すなわち「世界の終り」)が開きっぱなしになり、深層の変容に合わせて「第一回路」(表層意識。そもそもの「私」の思考回路)との間で補正作業が進行しているとされる。

(博士)あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです。だからあんたが今見ておる世界もそれにあわせて少しずつ変化しておる。(中略)認識ひとつで世界は変化するものなのです。(中略)現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんのです。(中略)記憶が変化することによって世界が変ってしまっても不思議はない

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 27 ハードボイルド・ワンダーランド(百科事典棒、不死、ペーパー・クリップ))

先の「心」の定義からすると、思考システムの独自性を生み出す大本である記憶が変化すれば、世界の変化にあわせて心も変化するといってよい。
だが、これに対し「私」は以下のように反論する。

(私)それは詭弁のように聞こえますね(中略)あなたは時間性というものを無視している。そういうことが実際に問題となるのはタイム・パラドックスにおいてのみです

(同上)

時間制とはつまり因果性のことである。「Aが起こった。だからBが起こった」。これが通常の時間性、因果性だ。記憶が変化したからといって、今ある世界が変化するわけがないというのが「私」の反論だ。
これに対し、博士はまさにタイム・パラドックスが起こっている可能性を示唆する。

(博士)あんたは記憶を作り出すことによって、あんたの個人的なパラレル・ワールドを作りだしておるんです(中略)認識によって捉えられる世界の姿です。それは様々な面で変化しておるだろうと私は思いますな

(同上)

世界の再編に伴う、心の変化。時間性と因果性の混乱。これがHWパートで起きていることだ。

記憶の改変による世界の再編

「私」の「認識によって捉えられる世界」は、まさに読者が読んでいる物語世界と言ってよい。HWパートが基本的に現実世界をベースにしつつも奇異に映るのは、そのためである(巨大なエレベーター、胃下垂、地下世界、やみくろ…)。

また、HWパートとEWパートの関係も、この視点から読み解ける。物語の構成上、HWパートの最後でEWパートへの移行が語られるため、時系列としてはHW→EWと考えると一応の筋が立ち、そのように読むことも可能である。ただ、それではつじつまが合わない、つまり因果関係が逆転するケースが登場する。
たとえばHWパートの「私」が「図書館の女性」に惹かれる場面。

私は彼女が慣れた手つきでキイボードを操作しているあいだずっと彼女のほっそりとした背中と長い髪を見ていた。彼女に好意を抱いていいものかどうか、私はかなり迷った

(『世界の終りハードボイルド・ワンダーランド』 7 ハードボイルド・ワンダーランド(頭骨、ローレン・バコール、図書館))

しかし、これに先立つEWパートで「図書館の少女」の髪について、

彼女は束ねていた紐をといた髪を手でひとつにまとめ、前にまわしてコートの中に入れた。
「君の髪はとても綺麗だな」と僕は言った。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 6 世界の終り(影))

と、EWパートの描写が先行している。
また、物語後半の「ダニー・ボーイ」、頭骨が光るくだりなどは、やはりEWパートがHWパートに先行、または同時進行(共鳴)しているように読める。
こういった時間性の矛盾は、「街」の完全さの維持についての記述で説明が可能になる。

(影)完全さというのはこの世には存在しない。(中略)エントロピーは常に増大する。この街はそれをいったいどこに排出しているんだろう?

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 32 世界の終り(死にゆく影))

「エントロピーが常に増大する」とは、物事の不可逆性、因果性、時間性といってもよい。たとえば、我々はコップから水をこぼすことがあるが、こぼれた水がひとりでにコップに戻ることはない。しかし、「街」の完全性は「それぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこ」むことで成立する。

(影)この街の完全さは心を失くすことで成立しているんだ。(中略)まず影という自我の母体をひきはがし、それが死んでしまうのを待つんだ。影が死んでしまえばあとはもうたいした問題はない。日々生じるささやかな心の泡のようなものをかいだしてしまうだけでいいのさ

(同上)

つまり、因果性や時間性が成立する要因となる「心の泡」を排除することで、街は完全性、永続性を維持している。そこでは原因と結果がしばしば逆転する(こぼれた水はコップに戻る)。あるいは意味を持たない。そして頭骨の中の「心の泡」は時間性と脈絡を欠きつつも、過去や未来を示唆するものとして描かれる。

おそらく彼ら(頭骨の光)は私に何かを示唆しているのだ。それは新しい来るべき世界のようでもあり、私があとに残してきた古い世界のようでもあった。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 37 ハードボイルド・ワンダーランド(光、内省、清潔))

村上作品の主人公

HWパートの「私」は脳手術により、記憶を奪われている。

彼らが私の記憶を、意識の壁の中に押し込んでしまったのだ。彼らは長いあいだ私の記憶を私の手から奪い去っていたのだ。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』23  ハードボイルド・ワンダーランド(穴、蛭、塔))

そしてEWパートの「僕」は影を引き離されたことで、それまでの「私」の記憶を失っている。

村上作品において、主人公に名前がないことが少なくない。これは巧妙に過去や個人情報がカットされているからではないか(例えば、ブッククラブでも話題に上った初期三部作「僕」「鼠」分離説。『ねじまき鳥〜』の岡田亨の過去は外科手術のように切り離され、『国境の南〜』のハジメとなったこと)
父母などの家族関係がほとんど描かれないことも含め、物語を展開するうえで主人公が身軽になっている必要を著者は感じているのではないだろうか。

感情的な殻、資格

HWパートにおいて「私」が「感情的な殻のようなもの」を持つことで、特別な存在になることが描かれている。

(ピンクの娘)祖父はこう言っていたわ。普通の人間はおそらく意識の核の照射に耐えることができなくて(中略)たぶんあなたには自然の抗体がそなわっていたのよ。私の言う感情的な殻のようなものね

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 19  ハードボイルド・ワンダーランド(ハンバーガー、スカイライン、デッドライン))

このエピソードで思い出されるのが『ねじまき鳥〜』の間宮中尉だ。死と隣り合わせの極限状態で、井戸の底に届く日の光の「恩寵」を受け止めきれずに失われてしまった人間として描かれる。
また、『街とその不確かな壁』で女性の亡霊を見る老人も「それを目にすれば、人は二度と戻れない」と振り返る。
意識の核、恩寵、亡霊……。それに耐えうる人間は資格を持っている。感情的な殻を持ち、過去を失っており、それでも現実に生きようとしている人物だ。

本体と影、幽霊——記憶の継続性

HWパートの「私」は「世界の終り」への移行を死として捉えている。なぜなら、移行した先の「僕」は「私」の記憶を引き継がないからだ。
一方、『街〜』の「私」は影として現実へ帰還したはずなのに、「私」の記憶を引き継ぎ、「私」として生きる。子易さんは死してなお幽霊としてその記憶を継続する。

(影)たとえ記憶が失われたしても、心はそのあるがままの方向に進んでいくものなんだ。心というものはそれ自体が行動原理を持っている。それがすなわち自己さ

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』 24 世界の終り(影の広場))

『世界の終り〜』では記憶を共有しない「私」と「僕」が、それでも同じ「自己」として直接は交わることなく物語をつむいでゆく。そのダイナミズムが読者を惹きつけると考えると、『街と〜』はやや弱い気がする。これを著者の後退と考えるかはともかく、比較して読むことはなかなか興味深い。

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