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雑感『海辺のカフカ』

父親の予言の真意は?

本作の主人公・カフカ少年に、父親が刻み込んだ予言はあまりにも重い。

「僕はどんなに手を尽くしてもその運命から逃れることはできない、と父は言った。その予言は時限装置みたいに僕の遺伝子の中に埋めこまれていて、なにをしようとそれを変更することはできないんだって。僕は父を殺し、母と姉と交わる」

(『海辺のカフカ(上)』p348)

しかし、大島さんはこの予言の「なにをしようと」の部分に着目する。

「もし仮にそうだとしても、つまりもし君の選択や努力が徒労に終わることを宿命づけられていたとしても、それでもなお君は確固として君であり、君以外のなにものでもない。君は君としてまちがいなく前に進んでいる。心配しなくていい」

(『海辺のカフカ(上)』p343)

「常識に富んだリアリストである」大島さんは「そこにはアイロニーというものが存在するからだ」と主張する。

人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていく。(中略)オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇はもたらされる。そこには不可避的にアイロニーが生まれる

(『海辺のカフカ(上)』p343)

悲劇的な結末が予言されているからこそ、それを回避するために「勇敢さと正直さ」を駆使し「選択や努力」をする。そうすることで「君は確固として君」となり「前に進」むことができる。
「アイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入り口になる」。これがじつは、カフカ少年の父親・田村浩一氏の養育方針もである。

「僕は父にとってたぶんひとつの作品のようなものに過ぎないんだ。彫刻と同じだよ。たとえ壊して損なっても、それは父の自由なんだ」

(『海辺のカフカ(上)』p349)

たとえ息子を悲劇的で不可逆な結末に追い込んだとしても、その美質を引き出すことが田村浩一氏にとっては重要であった。

ではカフカ少年の美質とは何か。大島さんは彼の「現実の入れ物」の特徴を挙げる。

大島さんは僕の顔を眺め、それから微笑む。「君は立派に鍛えあげられた肉体を持っている。誰から譲り受けたものであれ、顔だってなかなかハンサムだ。まあハンサムというにはいささか個性的すぎるかもしれないけれど、ぜんぜん悪くない。少なくとも僕は好きだ。頭もちゃんと回転している。おちんちんだって素敵だ。僕にもそういうのがひとつあればいいのにと思う。(中略)そういう現実の入れ物のいったいどこが不満なのか僕にはわからないけどね」

(『海辺のカフカ(下)』p66)

カフカ少年の「立派に鍛えあげられた肉体」は、「世界でいちばんタフな15歳の少年になる」ための努力のもっともわかりやすい成果であろう。置かれている状況を打破するために「ちゃんと回転している」頭もそれに準じるものだ。そして、遺伝によって先天的に与えられた容姿と性器。これがカフカ少年の「現実の入れ物=外殻」である。

ここで大島さんは、カフカ少年から自らに視点を移す。

でもね、僕だってこの自分という現実の入れ物が決して気に入っているわけじゃない。当たり前の話だ。どう考えたってまともとはいえない代物だものね。(中略)しかしそれにもかかわらず僕は内心こう考えている。外殻と本質を逆に考えれば—つまり外殻を本質だと考え、本質を外殻だと考えるようにすれば—僕らの存在の意味みたいなものはひょっとしてもっとわかりやすくなるんじゃないかってね

(『海辺のカフカ(下)』p66-67)

大島さんの外殻は、本人が詳らかにしている。

僕は性別からいえばまちがいなく女だけど、乳房もほとんど大きくならないし、生理だって一度もない。でもおちんちんもないし、睾丸もないし、髭もはえない。要するになにもないんだ。さっぱりしているといえば、とてもさっぱりしている。

(『海辺のカフカ(上)』p311)

大島さんの外殻は「とてもさっぱり」している。だから本質的にさっぱりした人間と言える。そして、彼の挙げた外郭の特徴は、カフカ少年の「現実的な入れ物」の描写と見事に対になっていることがわかるだろう。

一方で本質を外殻と考えるのなら、大島さんの外殻はギリシャ神話のキメラ(キマイラ。頭は獅子、胴体は牝ヤギ、後部が龍)あるいはオイディプス神話のスフィンクス(頭は人間の女性、胴体が獅子)のようなものなのかもしれない。

「でも身体の仕組みこそ女性だけど、僕の意識は完全に男性です」と大島さんはつづける。「(中略)僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながら、ゲイです。ヴァギナは一度も使ったことがなくて、性行為には肛門を使います。クリトリスは感じるけど、乳首はあまり感じない。生理もない。

(『海辺のカフカ(上)』p309)

非常にコンプレックスかつ異形な外殻だが、想像力を欠いた〈うつろな人間たち〉には大島さんは「男性的男性」にしか見えない。それどころか、カフカ少年にも彼の外殻は見えない。作中でその外殻を一目で見抜いた描写のあるのは、佐伯さんだけである。

佐伯さんは大島さんのお母さんにある日、ふとしたきっかけで彼を紹介され、一目で気に入ってしまった。大島さんのほうも佐伯さんが気に入ったし、図書館で仕事をすることにも興味を持った。

(『海辺のカフカ(上)』p278)

予言を下した父親、佐伯さん、そしておそらくナカタさんにも、人間の本質の裏返しである外殻を見ることができたのだろう。

彼らはなぜ極端へ向かうのか

息子へ強力な呪いをかけた田村浩一氏。芸術家としての才能を「かたちのないなにか」にふり向けた佐伯さん。
彼らはなぜ極端な方向へ向かわなければならなかったのか。

ここで、ナカタさんの担任であった岡持先生の例を見てみよう。彼女は軍やアメリカの調査では明かさなかった集団昏睡事件の詳細を、30年近くの時を経て塚山教授に手紙で懺悔する。

私は中田君をしっかりと抱いたまま、しばらくそこに立ちすくんでました。私はこのままここで死んでしまいたいと思いました。このままどこかに消えてしまいたいと思いました。すぐそこの世界では巨大な凶暴な戦争が進行し、あまりに多くの人々が死に続けていました。何が正しいのか正しくないのか、私にはもうわからなくなっていました。

(『海辺のカフカ(上)』p173)

出兵中の「主人との激しい性交の夢」と「予期せぬ月経」、「混乱の中で中田君を叩」いたこと。その背景には「巨大な凶暴な戦争」という大きなストレスがあったことがわかる。

もうひとつの参照点として、『源氏物語』と『雨月物語』が大島さんによって提示される。

六条御息所は、正妻の葵上に対する激しい嫉妬に苛まれ、悪霊となって彼女に取り憑いた。夜な夜な葵上の寝所を襲い、ついには取り殺してしまった。(中略)彼女は自分でも知らないあいだに、空間を超えて、深層意識のトンネルをくぐって、葵上の寝所に通っていたんだ。

(『海辺のカフカ(上)』p388)

信義は命よりも大切なものだ。その侍は腹を切り、魂となって千里の道を走り、友の家を訪れる。そして菊の花の前で心ゆくまで語り合って、そのまま地表から消えてしまう。

(『海辺のカフカ(上)』p390)

前者が人を呪い殺す「悪しき心」の発露であり、後者が「信義や親愛や友情のため」という違いがあるが、生か死かという極端さは共通する。つまり、呪いも信義も異様にコストが高いのである。

田村浩一氏と佐伯さんに共通するのは、ある種の才能(ギフト)を持ち、異様なコストをかけて「なにか」を求めたことだ。それは一般的な「善とか悪とかいう峻別を超え」ている。あるいは関係がない。

「ねえ、大島さん、僕の育った場所ではすべてのものが歪んでいた。なにもかもがひどく歪んでいたせいで、まっすぐなものが逆に歪んでいるように見えるほどだった。

(『海辺のカフカ(上)』p349)

カフカ少年が置かれていた状況について、カーネル・サンダーズも『雨月物語』をひいている。

「『我もと神にあらず仏にあらず、只(ただ)これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糺(ただ)し、それにしたがふべきいはれなし』」
「わからないなあ」
「神でも仏でもないから、人間の善悪を判断する必要もない。また善悪の基準に従って行動する必要もない、ということだ」
「つまりおじさんは、善悪を超えた存在なんだ」
「ホシノちゃん、それは褒めすぎだ。べつに善悪を超えてはおらん。ただ関係ないだけだ。

(『海辺のカフカ(下)』p96-97)

佐伯さんが自らの半生を端的に述べる場面も参照点となるだろう。

「田村くん。私はこれまでずいぶん人生をすり減らしてきたのよ。自分自身をすり減らしてきた。生きることをやめるべきときにやめなかった。無意味であることがわかっていながら、なぜかそれをやめることができなかった。その結果、ただそこにある時間をやりすごすために、筋のとおらないことをつづけてきた。

(『海辺のカフカ(下)』p115)

佐伯さんの言う「筋のとおらないこと」は、やはり一般的な善悪や道徳といった基準にそぐわないことなのだろう。彼女はそれを「自分をおとしめていく」行為であり生きているかぎり続く「呪い」と呼ぶ。その行為により自分を傷つけ、他人を傷つけ、「今その報いを受けている」という。

佐伯さんの「自分をおとしめていく」行為が詳らかにされることはない。なぜなら、本作ではその行為の中にカフカ少年の「仮説」が含まれているからだ。だが、アイロニカルにそこに迫ることはできる。

「その仮説の中では、私はあなたのお母さんなのね」
「そうです」と僕は言う。「あなたは僕の父と暮らし、僕を産み、それから僕を捨てて出ていった。僕が四つになったばかりの夏に」
「それがあなたの仮説」
僕はうなずく。

(『海辺のカフカ(下)』p111)

カフカ少年の仮説と佐伯さんの言う「筋のとおらないこと」は奇妙にマッチングする。そして「有効な反証がみつからない仮説は、追究する価値のある仮説だ」と「カラスと呼ばれる少年」は言う。

それを追究する以外に君がやるべきことはない。君の手にはそれ以外の選択肢ってものがないんだよ。だから君はたとえ自分の身を捨てても、そいつをとことん追究しなくちゃならない

(『海辺のカフカ(下)』p306)

ここに至って、カフカ少年もひとつの極端な選択を迫られる。

「自分の身を捨てる?」。その言葉にはどことなく不思議な響きがある。僕はその響きをうまく呑みこむことができない。

(『海辺のカフカ(下)』p306)

オルター・エゴである「カラスと呼ばれる少年」の助言のなかでも、これはかなり難解である。

カラスと呼ばれる少年はつづける。「いいかい、君の母親の中にもやはり激しい恐怖と怒りがあったんだ。今の君と同じようにね。だからこそ彼女はそのとき、君を捨てないわけにはいかなかった」

(『海辺のカフカ(下)』p305)

「佐伯さんはそのとき、どんな恐怖と怒りを心の中にもっていたんだろう? それはどこからやってきたものなんだろう」、僕は前を向いて歩きながら彼にたずねる。
「彼女がそのとき、いったいどんな恐怖と怒りを心の中に持っていたと君は思う?」とカラスと呼ばれる少年は逆に僕に質問する。「よおく考えるんだな。そいつはね、君が自分の頭でしっかりと考えなくちゃしょうがないことなんだ。頭ってのはそのためにあるんだからさ」

(『海辺のカフカ(下)』p306-307)

仮説を追究することにより、母親の持っていた恐怖と怒りが佐伯さんのそれに置換されていることがわかる。そして、佐伯さんの恐怖と怒りは「自分の身を捨て」てて極端に走ってでも「よおく考える」価値のあるものなのだ。

仮説とメタファー

本作に頻出する「メタファー」という言葉について、著者自身が読者の質問に答えるかたちで述べている。

メタファーはたしかに辞書を引くと「隠喩」「暗喩」と出ています。何のことだかわからないですよね。似たような言葉にsimile「明喩」「直喩」というのがあります。(中略)metaphorという言葉はギリシャ語から来たものですが、要するに「別のものに置き換える」という意味です。たとえば、「君の心は深い森となる」というのが隠喩、「君はきゅうりのようにクールだ」というのが直喩。でも現在では一般的に比喩=メタファーという感じで、隠喩・直喩の区別なく使われているようです。

(『村上春樹編集長 少年カフカ』p102)

先述の「恐怖と怒り」にあてはめると、メタファーを用いれば「君の母親」を「佐伯さん」に置き換えることができる。大島さんの言う「外殻と本質」もメタファーの置換作用のひとつと考えられるだろう。

さらにメタファーの効用のひとつに、遠くにあるものを引き寄せることがある。

「いずれにせよあなたは、あなたの仮説は、ずいぶん遠くの的を狙って石を投げている。そのことはわかっているわよね?」
僕はうなずく。「わかっています。でもメタファーをとおせばその距離はずっと短くなります」
「でも私もあなたもメタファーじゃない」
「もちろん」と僕は言う。「でもメタファーをとおして、僕とあなたとのあいだにあるものをずいぶん省略していくことができます」

(『海辺のカフカ(下)』p114)

手元にあるものと「ずいぶん遠く」にあるものを置き換えることで、ショートカットが可能になる。たとえば15歳のカフカ少年、15歳の甲村少年、15歳の佐伯さん、50歳を過ぎた佐伯さんがゆるく円環を成す。

「どうして知っているの?」と佐伯さんは言う。そして君の顔を見る。
「僕はそのときそこにいたから」
「そこにいて橋を爆破していたのね」
「そこにいて橋を爆破していた」
「メタフォリカルに」
「もちろん」

(『海辺のカフカ(下)』p124)

僕が誰なのか、それは佐伯さんにもきっとわかっているはずだ、と君は言う。僕は『海辺のカフカ』です。あなたの恋人であり、あなたの息子です。カラスと呼ばれる少年です。

(『海辺のカフカ(下)』p160)

このように、本作の中では「仮説」と「メタファー」は強く結びついている。そして、少年の「仮説」は最後まで有効な反証を与えられない。

「僕にあなたをゆるす資格があるんですか?」
彼女は僕の肩に向かって何度かうなずく。「もし怒りや恐怖があなたをさまたげないのなら」
「佐伯さん、もし僕にそうする資格があるのなら、僕はあなたをゆるします」と僕は言う。
お母さん、と君は言う、僕はあなたをゆるします。そして君の心の中で、凍っていたなにかが音をたてる。

(『海辺のカフカ(下)』p382)

予言を回避してくれるもの

予言、呪い、運命、呪詛、戦争、信義、怒り、恐怖、狭量さ--。これらが本作における強い概念であり、「アイロニー」や「メタファー」は極端に走った意味性を相対化してくれる。そして、アイロニーやメタファーは、決して軽くはない運命のもとで生きている大島さんが駆使するレトリックでもある。

「レッド・ヘリング」と大島さんは言う。
曽我という名前の女性は口を軽く開けたまま、なにも言わない。
「英語にred herringという表現があります。興味深くはあるが、話の中心命題からは少し脇道に逸れたところにあるもののことです。

(『海辺のカフカ(上)』p305)

この「レッド・ヘリング」を正確にいうと「アナロジーのすりかえ」ということになるらしい。
アナロジー(類推)は、複数の物事同士に見られる類似性からそのほかの類似性を推論することである。本作に即してもっと軽くいうと「似ているもの同士は、他の点でも似ている点がある(だろう)」ということである。

このアナロジーは、皮肉なことに大島さん自身にあてはめると、立ち行かなくなってしまう。なぜなら、大島さんは誰にも似ていないからだ。

僕は化け物でもなんでもない。普通の人間だ。ほかのみんなと同じように感じ、同じように行動する。しかしそのちょっとしたちがいが、ときには無限の深淵のように感じられることがある。それはもちろん、考えてみればしかたないことではあるんだけどね

(『海辺のカフカ(上)』p312)

大島さんの「ほかのみんなとは少し変わっている」ことが、カフカ少年の呪いが成就することを阻んでくれる。交わる対象としての「姉」と大島さんにアナロジーが成立しないからだ。

本作ではカフカ少年の母と姉が誰であるかは明示されていない。つまり、カフカ少年が野方の家を出て以降に出会う年上の女性は、すべて母か姉と考えてもよいのだ。
言い換えれば、顔の部分が失われた母の記憶と、横を向いて写真に写った姉の姿とアナロジーが成立すれば誰だってよい。

それと同時に、ひょっとして彼女が僕のお姉さんではないかという疑いが、僕の中に生まれる。歳もだいたい同じくらいだ。彼女の特徴的な顔立ちは、写真にうつっていた姉の顔とはずいぶんちがう。でも写真なんてあてにできないものだ。

(『海辺のカフカ(上)』p40)

彼女の名前はさくらで、それは姉の名前ではない。でも名前なんて簡単に変えられる。特に人が誰かから姿を隠そうとしているような場合には。

(『海辺のカフカ(上)』p55)

彼女は僕にとても強い、でもどことなくなつかしい印象を与える。この人が僕の母親だといいのにな、と僕は思う。僕は美しい(あるいは感じのいい)中年の女の人を目にするたびにそう考えてしまう。この人が僕の母親であればいいのにと。

(『海辺のカフカ(上)』p67)

予言の影響下にあるカフカ少年にとっては、姉も母も「交わる」可能性がある、つまり性的な魅力を感じる存在でなければならない。その念押しとして、甲村図書館の見学ツアーに参加する「中年の夫婦」は以下のように描かれる。

悪い人たちではないようだ。彼らが僕の両親であればいいのにとは思わないけれど、ツァーに参加するのが僕ひとりでないとわかって少し安心する。

(『海辺のカフカ(上)』p67-68)

カフカ少年に下された予言において、姉や母がさくらや佐伯さんである必然性もない。だが、もし仮に大島さんがいわゆる女性の外見と性自認をとっていたらどうだろう。致命的に予言の渦に飲み込まれたのではないだろうか。

「俺はその話を今まで誰にもしていない」と彼(サダさん)は言う。「弟にもしてないんだ。弟というか妹というか、なんでもいいけど、まあ弟だ。

(『海辺のカフカ(下)』p413)

実の兄であるサダさんは、大島さんを本人の性自認を尊重し「弟」と呼ぶ。

僕は横に立って、その肩をしばらく眺めている。そして大島さんが女性であったことをとつぜん思いだす。僕はその事実をたまにしか思いださない。(中略)でも眠っているときの大島さんは、不思議に女性であることに戻っているみたいに感じられる。

(『海辺のカフカ(下)』p213)

キャビンのベッドで、顔を壁に向けて眠っていた大島さんの姿を僕は思いだす。そしてそのあとに残っていた彼の/彼女の気配を思いだす。僕は同じベッドでその気配に包まれるようにして眠った。でもそのことについてこれ以上考えるのはやめよう。

(『海辺のカフカ(下)』p279)

サダさんもカフカ少年も、大島さんを「弟」「男性」として受け入れているのは、本人が「そうされたがっているはず」という認識があるからだ。だからカフカ少年は大島さんが「姉」である可能性を「これ以上考えるのはやめ」られたのだ。

星野青年の「趣味の雪かき」

奇数章において深刻な問題をレトリックを駆使して相対化してきたのが大島さんなら、偶数章で「陽キャ」として軽みを発揮するのが星野青年である。

「いろいろとご迷惑をおかけいたします」とナカタさんはぼんやりした声で言った。
「たしかに迷惑はかけられているような気がする」と青年は認めた。「でもな、これまでのいきさつをよく考えてみたら、俺っちが勝手におじさんについてきているんだ。言い換えれば、俺が自分から進んで迷惑を引き受けているようなものなんだ。誰に頼まれたわけでもない。趣味の雪かきみてえなもんだ。

(『海辺のカフカ(下)』p318-319)

ふつう「雪かき」は雪が積もって交通に支障が出たり、家が潰れてしまったりするから「しかたなく」行うものだ。これを「趣味」と言える酔狂な自由意志がナカタさんを助け、最終的にカフカ少年の森への行き来をサポートすることになる。

偶数章の登場人物である星野青年には、奇数章で何が起こっているのかわからない。それどころか、カーネル・サンダーズに導かれナカタさんを手伝うなかでも、いったい何が起こっているのか、何のために行動しているのかわからないままである。それでも青年はナカタさんについていく。

でもさ、なんていうのかごく自然に、俺っちはおじさんの目を通していろんなものを見ていたんだね。どうしてそんなことをするかというとだね。俺はおじさんが世界を見る姿勢みたいなのをけっこう気に入っていたからだ。だからこそ俺っちは、このホシノくんは、ずっとここまでおじさんについてきたんじゃねえかな。

(『海辺のカフカ(下)』p320-321)

これは本人も言っているように、キリストの使徒や釈迦の弟子たちに通じる。

でも俺は今のところ少しはナカタさんの役に立っている。ナカタさんの代わりに字を読んでいるし、あの石だって俺がみつけてきたんだ。役に立っているというのはなかなか悪くない気分だ。そんな気持ちになれたのはほとんど生まれて初めてのことだ。

(『海辺のカフカ(下)』p170)

比較するのはいささかオーバーかもしれんけど、お釈迦様かイエス・キリストの弟子になった連中も、あるいはこんな具合だったのかもしれないな。お釈迦様と一緒にいるとさ、俺っちなんかこういい気分なんだよな、とかさ。教義とか真理とかむずかしいことを言う以前に、その程度の乗りだったのかもしれない。

(『海辺のカフカ(下)』p170)

「教義とか真理とかむずかしいこと」を取りざたするのがオウム真理教などのカルトだとすると、星野青年の「乗り」は圧倒的に軽い。そして、彼の素直さと理解の早さも特筆に値する。

「フランソワ・トリュフォーの映画みたいに」
「そのとおりです」と店主は言って、思わず星野青年の肩を叩いた。「実にそのとおりです。それはフランソワ・トリュフォーの作品にも通底するものです。柔軟な好奇心に満ちた、求心的かつ執拗な精神」

(『海辺のカフカ(下)』p176)

「はいはい。わかりましたよ。ドラマツルギーに従って物質を必然的に移動させているだけなんだね」
「そういうこと」とカーネル・サンダーズはうなずいて言った。「ちゃんとわかってるじゃないか」

(『海辺のカフカ(下)』p104)

「自己と客体との投射と交換……」と星野さんは恐る恐る言った。
「そうだ。それがわかっておればよろしい。それがポイントだ。

(『海辺のカフカ(下)』p81)

そんな星野青年の人生のキーワードは「面倒くさい」だった。ナカタさんの死後、青年は「入り口の石」に向かって自らの女性遍歴を開陳する。

石くんはどうだか知らんけどさ、俺はさ、あれこれうるさく問いつめられるのって苦手なんだよ。息が詰まって気が滅入ってくる。で、逃げたんだな。自衛隊に入っていてよかったのはね、何かあると中に逃げ込めたことだ。ほとぼりが冷めるまで塀の外に出なきゃいいだけだ。

(『海辺のカフカ(下)』p357-358)

「塀」を「壁」や「殻」と置き換えると、村上作品の主人公の「デタッチメント」な振る舞いにも思えてくる。『ノルウェイの森』の直子が「僕(ワタナベ)」にあてた手紙を例に見てみよう。

私はあなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたが本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p159)

直子は村上作品のなかでも顕著な「どん詰まりタイプ」だ。「ほとぼりが冷めるまで」やりすごすことができない。これは予言の支配下にあるカフカ少年にも通じる。
では、どうすれば「殻」や「塀」のなかに逃げ込めるのか。

空っぽ、空白、余白

ナカタさん、星野青年、佐伯さん、大島さんはそれぞれに「空っぽ」であること、あるいは空白を抱えていることが示されている。

ナカタさんは自分が空っぽだと言う。そうかもしれない。でもじゃあ俺はいったい何なんだ?(中略)もしナカタさんが空っぽなら、俺なんてどう考えたって空っぽ以下じゃないか。

(『海辺のカフカ(下)』p168)

たぶん僕(引用者註:大島さん)の中にある空白を埋めるために、この人(引用者註:佐伯さん)の存在を僕は必要としていた。でも僕にはこの人の抱えている空白を埋めることはできなかった。

(『海辺のカフカ(下)』p297)

一方、予言にしばられ、がんじがらめになったカフカ少年は、予言をひととおり実行しようと試みる。夢の領域でさくらと交わる場面だ。

君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引きうけようと思う。

(『海辺のカフカ(下)』p251)

彼がさくらの「中に入る」直前に、彼の中にある何かが胎動を始めていた。

それと同時に、僕の中にあるくぼみのような場所で、なにかが殻から抜けだそうとしている。いつのまにか僕には、自分の内側に向けられた一対の目がそなわっている。だからその光景を観察できる。

(『海辺のカフカ(下)』p249)

そして、姉なるものを犯す予言を実現させた直後、そのなにかははっきりと現前する。

君の中でそのなにかは、今では姿をはっきりと現している。それは黒い影としてそこに身を休めている。殻はもうどこにも見えない。殻は完全に破られ、捨て去られている。

(『海辺のカフカ(下)』p253)

果たして予言を成就させたカフカ少年だが、恐怖や怒り、不安感は消え去ることはなかった。少年は森の深部へと向かう。

深い森の中で、ひとりぼっちで、自分という人間がひどくからっぽに感じられる。自分がいつか大島さんが言っていた〈うつろな人間〉になってしまったような気がする。僕の中には大きな空白がある。そしてその空白は今でもすこしずつ膨らんでいって、それが僕の中に残されている中身をどんどん食い破っていく。

(『海辺のカフカ(下)』p282)

ここでカフカ少年の内部についに「空白」が生まれる。同時に、空白の対立概念である「中身」が初めてフォーカスされる。

でも僕の中身とはいったいなんだろう? それは空白と対立するものなんだろうか?

(『海辺のカフカ(下)』p283)

僕は森の中核へと足を踏み入れていく。僕はうつろな人間なのだ。僕は実体を食い破っていく空白なんだ。だからこそもう、そこには恐れなくちゃならないものはないんだ。なにひとつ。

(『海辺のカフカ(下)』p284)

自らを「空白」と認識することで、予言に支配された実体を超えていく。少年が森へ入る資格を得た瞬間である。

僕は硬い殻を捨てた生身の僕として、ひとりで迷宮の中心に向かっている。そしてそこにある空白に身をまかせようとしている。

(『海辺のカフカ(下)』p300)

「殻」から出てきたのは「生身の僕」であった。そして「迷宮」のメタファーを通して、森と自らの深部にある「空白」へと身を委ねる。

少年が森の奥の「町」にたどり着く直前の描写に注目しよう。

風は森を抜け、僕のまわりのあちこちで木の葉をふるわせる。そのさらさらという匿名的な音は、僕の心の肌に風紋を残していく。(中略)その風紋はなにかの暗号のように見えなくもない。

(『海辺のカフカ(下)』p336)

森を抜ける風の「匿名的な音」は、少年の心に「風紋を残」す。それは意味を読み解けない暗号であり「まったく知らない外国語のよう」である。

大島さんは山の中に入るカフカ少年に、「風の音を聞いていればいい」と言った。

「いろんなことは君のせいじゃない。僕のせいでもない。予言のせいでもないし、呪いのせいでもない。(中略)僕らがみんな滅び、失われていくのは、世界の仕組みそのものが滅びと喪失の上に成りたっているからだ。(中略)風は吹く。(中略)でもすべての風はいつか失われて消えていく。風は物体ではない。それは空気の移動の総称にすぎない。君は耳を澄ます。君はそのメタファーを理解する」

(『海辺のカフカ(下)』p189)

「森のいちばん奥の部分」に至り、風の音が心に残す風紋のコードが組み替えられていく。

その場所をじっと眺めていると、僕の中にある風紋がさらに移ろっていくのが感じられる。それにしたがって暗号が組み替えられ、メタファーが転換していく。僕が僕自身を遠く離れて、漂っていくような感覚がある。

(『海辺のカフカ(下)』p336)

僕は蝶になって世界の周縁をひらひらと飛んでいる。周縁の外側には、空白と実体がぴったりとひとつにかさなりあった空間がある。過去と未来が切れ目のない無限のループをつくっている。そこには誰にも読まれたことのない記号が、誰にも聞かれたことのない和音がさまよっている。

(『海辺のカフカ(下)』p336)

この世界の周縁の外側にある「空白と実体がぴったりとひとつにかさなりあった空間」は、ナカタさんが慣れ親しんでいたものだ。

ナカタさんは身体の力を抜き、頭のスイッチを切り、存在を一種の「通電状態」にした。(中略)ほどなく彼は意識の周辺の縁を、蝶と同じようにふらふらとさまよい始めた。縁の向こう側には暗い深淵が広がっていた。ときおり縁からはみ出して、その目もくらむ深淵の上を飛んだ。(中略)そこにはすべてがある。しかしそこには部分はない。(中略)むずかしいことは考えず、すべての中に身を浸せばそれでいいのだ。

(『海辺のカフカ(上)』p144)

少年は記憶だけを持ち、森の真奥に至った。そこで初めて空白と実体が対立しない世界をかいま見る。そこは「すべてがある」が「部分はない」世界であり、佐伯さんが持ち帰った「誰にも聞かれたことのない和音」のある場所だった。

ただ、空白と実体が対立しない世界は危険な場所でもある。戻れなくなるか、戻れても影を半分失うからだ。そして、ジョニー・ウォーカーの到達を許してはいけない場所でもある。だから佐伯さんはすべての記憶をナカタさんと星野さんに焼いてもらい、この場にやってきた。15歳の少年に影を、記憶を失わせないために。これ以上損なわれることを防ぐために。

僕は目を閉じる。僕は夏の浜辺にいる。デッキチェアに横になっている。(中略)誰かが少し離れたところで僕の絵を描いている。そのとなりには淡いブルーの半袖のワンピースを着た少女が座って、こちらを見ている。(中略)太陽の光を浴びて、その陶器のように艶やかな二本の腕が輝く。まっすぐな唇の両端には自然な微笑みが浮かんでいる。僕は彼女を愛している。彼女は僕を愛している。
それが記憶だ。

(『海辺のカフカ(下)』p380-381)

「海辺のカフカ」の絵画をめぐる記憶を共有することで、少年は「もとの場所に戻って、そして生きつづけ」ることができるようになる。なぜなら、記憶のない15歳の佐伯さんの「生き霊」が夜な夜な見続けていたのがこの絵だからだ。50歳を過ぎた佐伯さんが亡くなって記憶を失ったとしても、少女は絵を見続ける。少年が絵を持ち続けているかぎり。

佐伯さん、大島さん、ナカタさん、星野青年。「空白」を持つすべての登場人物が予言により少年がこれ以上損なわれないように行動した。「姉」の可能性のあるさくらやホテルのフロントの女性もだ。なぜなら、15歳の少年が損なわれることは明らかに間違ったことだからだ。

一方、予言が少年の「美質」や「空白」を生んだことも忘れてはならない。そこにもアイロニーが存在する。

「もし大島さんに会えなかったら、僕はたぶんどうしようもなくなっていたと思う。この町でまったくのひとりぼっちで、助けてくれる人もいなくて」
大島さんは微笑む。僕の肩から手を離し、その手を眺める。
「いや、そんなことはないんじゃないかな。もし仮に僕に出会わなかったとしても、君はきっと別の道を見つけていただろう。どうしてかはわからないけれど、そういう気がする。君という人間にはなにかしらそう思わせるところがある」

(『海辺のカフカ(上)』p344-345)

「いろいろとありがとう」と僕は言う。
「My pleasure」と彼は英語で返事をする。

(『海辺のカフカ(上)』p296-297)

たとえ少年が四国に向かわなくても、予言は装置として起動する。そして、どこか他の場所で少年の美質が人々の助力を招いてくれただろう。そして「母なるもの」と「姉なるもの」を救い、青年を成長させたであろう。

それと同時に、四国を選び甲村記念図書館を訪れることを選んだのは、カフカ少年の自由意志でもある。彼の選択自体が偶然を必然に変える。そのことを星野青年が代弁している。「石のように非情」な「石くん」の情に訴える場面だ。

だいたい俺が富士川サービスエリアでナカタさんを車に乗せてやったときから、最後にこうなるってことは運命としてすでに決まっていたんだろうね。知らないのはホシノくんばかりなりってさ(中略)まあ、しょうがねえよ。なんのかんの言ったって、俺が自分で選んじまった道だもんな。最後までつきあうしかない。

(『海辺のカフカ(下)』p398)

星野青年の自由意志が責任を生む。それと同時に、「白いもの」を抹殺する資格をナカタさんから受け継ぐ。運命と自由意志の相剋は、予言と美質のアイロニーと正確に呼応するのだ。


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