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雑感『ノルウェイの森』

自死は最大のディスコミュニケーション

本作では多くの登場人物が死を選ぶ。主人公・「僕(ワタナベ)」が執着する直子も物語の終盤で死を選ぶ。その顚末を「僕」はレイコさんから伝えられる。

「不思議なのよ」とレイコさんは言って小さな音で指を鳴らした。「直子は誰にあてても遺書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。(中略)『洋服は全部レイコさんにあげて下さいって』って。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p240)

直子は「僕」に対して何のメッセージも残さずに首をくくった。これは物語中の最初の死者であるキズキの自死のときと同じだ。

「今日は珍しく真剣だったじゃないか」と僕は訊いてみた。
「今日は負けたくなかったんだよ」とキズキは満足そうに笑いながら言った。
彼はその夜、自宅のガレージの中で死んだ。(中略)遺書もなければ思いあたる動機もなかった。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p46)

キズキの死後、「僕」はある「諦観」を得る。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p48)

キズキが死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身につけた。あるいは身につけたように思った。それはこういうことだった。「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p226)

この「諦観」の肝となるのは、死の経験値というべきものがある程度蓄積すれば、人は死ぬということである。キズキも直子も生死の閾値を超えた時点であっさりと亡くなった。

これに先駆ける死として描かれるのが、直子の姉の縊死である。

「お姉さんが死んでるのをみつけたのは私なの」と直子はつづけた。「小学六年生の秋よ。(中略)そのときお姉さんは高校三年生だったわ。(中略)私は二階に上って、お姉さんの部屋のドアをノックしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。(中略)私は『ねえ何してるの? もうごはんよ』って声をかけたの。でもそう言ってから彼女の背がいつもより高くなっていることに気がついたの。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p265-266)

直子を「可愛い小さな妹って風に」かわいがっていた姉が、直子が傷つくことも考えずに「遺書もなく」死んでいった。彼女もやはり生死のボーダーラインをあっさりと越えてしまったのだ。

姉とキズキの死は直子の死の経験値をアップさせ、やがて生死の狭間へと追いやっていく。

私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。(中略)キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p159)

自死は突然にして最大のディスコミュニケーションであり、残された者はそれを補完するため死者とコミュニケーションを取る。
この物語そのものも「僕」が「何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できない」から書かれた、死者とのコミュニケーションの記録という一面を有している。

「僕」はなぜ死ななかったのか

キズキと直子の死を経て、なぜ「僕」は死に至らなかったのか。言い換えれば、二人の死者と「僕」を隔てるものはなんだったのか。

まずは生き残った者であるレイコさんと緑の存在がある。

「私のこと忘れないでね」と彼女(レイコさん)は言った。
「忘れませんよ、ずっと」と僕は言った。
「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子のこといつまでも覚えているわよ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p261)

「忘れないでね」というのは、直子が生前、「僕」と交わした「私のことを覚えていてほしいの」という約束と重なる。

「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。「君のことを忘れられるわけがないよ」
       *
それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまった。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p19)

上記をふまえると、レイコさんとの約束も履行できる確約はない。また、直前に旭川に会いに行く約束をしているのに「会うことは二度とないかも」と言うのもやや違和感が残るし、「どこに行っても」「いつまでも」というのも過剰に感じなくもない。
結末の直前に置かれたこのレイコさんとの約束は、生者二人が死者一人を巻き込んだ祈りや願いに近いものなのかもしれない。

もう一人の生者・緑にも目を向けよう。

「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを信頼してるから」と彼女は言った。「でも私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱くときは私のことだけを考えてね。私の言っている意味わかる?」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p208-209)

緑はさらに続ける。

「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの人生で十分に傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p209)

緑の言う「信頼」は、かつてレイコさんが夫に抱いていた信頼感につながる。

「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」とレイコさんは言った。「この人と一緒にいる限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p220)

だが、レイコさんの夫も最後の最後で信頼を裏切ることになる。緑の求めることは、本作においてはあまりにも重い。

それでは、本作の中で守られた約束とは何か。

「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニスにそっと唇をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精をした。
「覚えていられる?」とそのあとで直子が僕に訊ねた。
「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p165)

「僕」は初めて「阿美寮」に直子を訪れてから物語の結末に至るまで、性交を行っていない。緑との和解後も、じつはセックスに至っていない。

「でもワタナベ君、私とやりたくないんでしょ? いろんなことがはっきりするまでは」
「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。でもやるわけにはいかないんだよ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p212-213)

緑は「僕」の言葉を受け、手淫に及ぶ。

「ねえ、ワタナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」
「考えてないよ」と僕は噓をついた。
「本当?」
「本当だよ」
「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」
「考えられないよ」と僕は言った。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p213)

「僕は噓をついた」とあることから、「僕」が直子の「覚えておいてね」の約束を律儀に果たしていることがわかる。

直子の死後、「僕」は1か月間、放浪の旅に出る。脳裏に去来するのは、当然、直子との思い出だ。

僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のペニスをそっと口で包み、その髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p225)

僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思いださないわけにはいかなかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へと外にとびだそうとしていたからだ。僕にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p225)

直子が「覚えていられる?」と言った記憶を「僕」は反復し増幅し生きていた。彼女の死がその記憶をさらに暴走させていたことがわかる。

その生々しさが「僕」を死に追いやらなかったのは、逆説的に彼の身勝手さのおかげである。

漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たガール・フレンドのことをふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひどいことをしてしまったかを思って、どうしようもなく冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思い、どう感じ、そしてどう傷つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今の今まで彼女のことなんてロクに思いだしもしなかったのだ。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p229)

でもハツミさんとビリヤードをやったその夜、僕は最初の一ゲームが終るまでキズキのことを思いだしもしなかったし、そのことは僕としては少なからざるショックでした。というのはキズキが死んだあとずっと、これからはビリヤードをやるたびに彼を思いだすことになるだろうなという風に考えていたからです。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p131)

そしてまあ緑が怒るのも無理はないなと思った。僕は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐための労働に追われて緑のことなんて全く思いだしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思いだしもしなかった。僕には昔からそういうところがあった。何かに夢中になるとまわりのことが全く目に入らなくなってしまうのだ。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p173)

この物語は「僕がまだ若く、その記憶が鮮明だったころ」には「一行たりとも書くことができなかった」ものだ。つまり、「覚えていられる?」という約束を履行することができなかったため、この物語を書くことができた、という体裁となっている。
完全に覚えていられることと、「思いだしもしない」ということの間のグラデーションが、結果的に彼を救うことになる。そのことを、レイコさんは直子の死の直前の手紙で予言している。

私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったりして銀行預金にみたいにコチコチと生きているわけではないのです。でしょ?

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p219)

「定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったり」する世界について、『海辺のカフカ』の「カーネル・サンダーズ」が言及する箇所がある。

「君にはわからんだろうが、ねじれというものがあって、それでようやくこの世界に三次元的な奥行きが出てくるんだ。何もかもがまっすぐであってほしかったら、三角定規でできた世界に住んでおればよろしい」

(『海辺のカフカ(下)』p54)

この「三角定規でできた世界」はまさに狂気の世界だ。人間が根本的に抱えるねじれを世界のまっすぐさに合わせなければいけないからだ。ねじれや忘却というヒューマン・エラーを許容できる世界にこそ救いが生まれる。

「100パーセントの恋愛小説」が描く恋愛

本作刊行時の帯文に「100パーセントの恋愛小説」と銘打たれていたのは有名な話だ。ただ、著者としては、スーパーナチュラルな存在が登場しない「100パーセントのリアリズム小説」と書きたかったと後に明かしているように、「100パーセントの恋愛」が描かれているわけはない。

では、本作における恋愛観とはどのようなものか。もっとも恋愛から遠い人物・永沢さんが恋について言及する場面を見てみよう。

「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思ってるの?」とハツミさんが訊いた。
「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期が来たからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」
「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの? たとえばあなたに?」
「いや、べつに間違っていないよ」と永沢さんは答えた。「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p116)

恋愛も最小単位の人間関係であると定義するなら、コミュニケーションの成立のために「まともな人間」は相手に共感や相互理解を求めるだろう。永沢さんはこれに与しない。他者を理解する/自分を理解してもらう可能性を否定はしないが、相関性は徹底的に排除する。

永沢さんが「僕」に親切にするのは、そうした価値観を共有していると考えているからだ。

「でもワタナベだって殆んど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そしてただ渇きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p117)

「僕」が永沢さん的な属性を発揮するのは、共感を求める緑に対してであった。

私はただただ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにしてあげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもっていて、私がこんこん、ワタナベ君、こんこんとノックしてもちょっと目を上げるだけで、またすぐもとに戻ってしまうみたいです。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p190-191)

ここにも「親切」という言葉が出てくる。親切さと心の動きについては『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「街」に住む「僕」に老大佐が諭すシーンがある。

親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』新潮文庫 p287-288)

心を奪われ続ける「街」においては、親切さは表層的な機能として、心とは関係なく成立している。逆に言えば、「街」ではない場所では親切さは深層の心と連動しうる。だから親切にされた緑の心は「好き」という情動へ発展する。そして、「僕」の心もまた動き始める。

僕としては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押しとどめるのがやっとだったのだ。僕のペニスを握った指がゆっくりと動き始めたのを止めさせることなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めていたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p216)

肉体的な欲望と地続きに、ついに「僕」は愛し合う段階まで到達する。しかし、その肉欲は、直子の存在により制限されたものであることを忘れてはならない。レイコさんはそのことに気づいており、手紙で忠告する。

あなたが彼女(緑)に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時に心を魅かれるというのもよくわかります。そんなことは罪でもなんでもありません。(中略)放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたもそういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人生の流れに身を委ねなさい。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p219-220)

上記に先駆け、レイコさんが「心を開」くことに言及する箇所が早い段階で出てくる。

「でもあなたは素直な人よね。私、それ見てればわかるわ。(中略)あなたは(心を)開ける人よ。正確に言えば、開こうと思えば開ける人よね」
「開くとどうなるんですか?」
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルのうえで手をあわせた。「回復するのよ」と彼女は言った。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p184-185)

レイコさんが言う「素直」に近い「正直」という言葉が本作では頻出する。

しかし原則的には僕は彼(永沢さん)に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美徳は正直さだった。彼は決して噓をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつも変ることなく親切だったし、あれこれと面倒をみてくれた。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p62)

ここでも「親切」という言葉が出てくる。だが同時に、「僕」は「この男にだけは何があっても心を許すまいと決心」もしている。永沢さんにとっては親切さはまさに表層的な機能なのだ。
そして彼の希求する「正直さ」はいくぶんバイアスがかかっているものの「公正さ」に通じる。「公正さ」は直子が希求していたものだ。

でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。(中略)ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれるかとか、そういうことを中心に物を考えるものです。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p158)

ここで「ごく普通の女の子」にとっての正直さと、「永沢=直子ライン」の正直さの乖離が明らかになる。そして、前者の方が明らかに「幸せ」に近い。レイコさんの言う「回復」もじつはこちらに近いものだ。

「正直さ」について、変わったところでは緑が語る「根は正直な」父のエピソードがある。

「お母さんが死んだとき、お父さんが私とお姉さんに向ってなんて言ったか知ってる? こう言ったのよ。『俺は今とても悔しい。俺はお母さんを亡くすよりはお前たち二人を死なせた方がずっとよかった』って。私たち唖然として口もきけなかったわ。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p133)

「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。「とにかくね、うちの家族ってみんなちょっと変ってるのよ。どこか少しずつずれてんの」
「みたいだね」と僕も認めた。
「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない? 娘に向ってお前らがかわりに死にゃ良かったんだなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」
「まあそう言われてみればそうかもしれない」

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p134)

緑の父の言葉は娘二人を確かに傷つける。だが、「ちょっと変ってる」という視点のずらしがユーモアに回収され、最終的に「愛しあうって素敵なこと」という結論に行き着く。ここにこそ「正直に」「公正に」生きていくヒントが隠されている。

物語の冒頭、キズキの死ののち、「僕」はすでにこの「ずらし」の重要性に気づいている。

でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p49)

しかし、物語後半、「僕」が直子を愛すると同時に緑を愛してしまったことについて、レイコさんから手紙で忠告を受ける。

次にあなたのこと。
そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれたりはしません。自信を持ちなさい。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p218)

第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p219)

しかし、この直後、直子が自死する。ふたたび死の深刻さが「僕」をとらえてしまう。

放浪する「僕」は述懐する。

僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。(中略)僕の記憶の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p231)

「僕」の死の経験値が極限まで高まった段階だ。だが、「僕」が自死することはない。この直後にレイコさんが上京し、二人で直子の「お葬式」を執り行い、性行する。翌日「僕」は旭川へ発つレイコさんを見送り、長らく待たせていた緑に連絡するところで物語は終わる。

「ノルウェイの森」を含むビートルズ・ナンバーや直子が好きだった曲など五十曲を弾いた「お葬式」と直後のセックスは、「僕」とレイコさんにまとわりつく死の穢れを浄める儀式であったのかもしれない。そうすることで、レイコさんは新天地へ、「僕」は緑へと向かうことができる−−。そう読み解くことも可能だろう。だが、「死の穢れ」を浄めれば生へ向かえるというのはあまりにも単純すぎる。

ここで物語冒頭、直子が語る野井戸の話に注目しよう。

「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちないの」

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p14)

「僕」が井戸に落ちる、つまり死ぬことがないのは生まれ持っての属性なのだ。

本作は死にゆく属性と生き残る属性のことを事細かに記している。それを裏付けるように、残酷な結論があらかじめ記されている。「直子は僕のことを愛してさえいなかった」のだ。直子は「あなたにくっついている」ことができなかった。

「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」
「ピース」と僕は言った。
「ピース」と緑も言った。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p63)

緑もまた死の穢れに満ちていたが、「愛情しか信じない」ことができれば生き残れるだろう。「僕」との間に信じるに足る愛を築けるかは、本書の結末からは読み取れないのだが。

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