自死は最大のディスコミュニケーション
本作では多くの登場人物が死を選ぶ。主人公・「僕(ワタナベ)」が執着する直子も物語の終盤で死を選ぶ。その顚末を「僕」はレイコさんから伝えられる。
直子は「僕」に対して何のメッセージも残さずに首をくくった。これは物語中の最初の死者であるキズキの自死のときと同じだ。
キズキの死後、「僕」はある「諦観」を得る。
この「諦観」の肝となるのは、死の経験値というべきものがある程度蓄積すれば、人は死ぬということである。キズキも直子も生死の閾値を超えた時点であっさりと亡くなった。
これに先駆ける死として描かれるのが、直子の姉の縊死である。
直子を「可愛い小さな妹って風に」かわいがっていた姉が、直子が傷つくことも考えずに「遺書もなく」死んでいった。彼女もやはり生死のボーダーラインをあっさりと越えてしまったのだ。
姉とキズキの死は直子の死の経験値をアップさせ、やがて生死の狭間へと追いやっていく。
自死は突然にして最大のディスコミュニケーションであり、残された者はそれを補完するため死者とコミュニケーションを取る。
この物語そのものも「僕」が「何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事をうまく理解できない」から書かれた、死者とのコミュニケーションの記録という一面を有している。
「僕」はなぜ死ななかったのか
キズキと直子の死を経て、なぜ「僕」は死に至らなかったのか。言い換えれば、二人の死者と「僕」を隔てるものはなんだったのか。
まずは生き残った者であるレイコさんと緑の存在がある。
「忘れないでね」というのは、直子が生前、「僕」と交わした「私のことを覚えていてほしいの」という約束と重なる。
上記をふまえると、レイコさんとの約束も履行できる確約はない。また、直前に旭川に会いに行く約束をしているのに「会うことは二度とないかも」と言うのもやや違和感が残るし、「どこに行っても」「いつまでも」というのも過剰に感じなくもない。
結末の直前に置かれたこのレイコさんとの約束は、生者二人が死者一人を巻き込んだ祈りや願いに近いものなのかもしれない。
もう一人の生者・緑にも目を向けよう。
緑はさらに続ける。
緑の言う「信頼」は、かつてレイコさんが夫に抱いていた信頼感につながる。
だが、レイコさんの夫も最後の最後で信頼を裏切ることになる。緑の求めることは、本作においてはあまりにも重い。
それでは、本作の中で守られた約束とは何か。
「僕」は初めて「阿美寮」に直子を訪れてから物語の結末に至るまで、性交を行っていない。緑との和解後も、じつはセックスに至っていない。
緑は「僕」の言葉を受け、手淫に及ぶ。
「僕は噓をついた」とあることから、「僕」が直子の「覚えておいてね」の約束を律儀に果たしていることがわかる。
直子の死後、「僕」は1か月間、放浪の旅に出る。脳裏に去来するのは、当然、直子との思い出だ。
直子が「覚えていられる?」と言った記憶を「僕」は反復し増幅し生きていた。彼女の死がその記憶をさらに暴走させていたことがわかる。
その生々しさが「僕」を死に追いやらなかったのは、逆説的に彼の身勝手さのおかげである。
この物語は「僕がまだ若く、その記憶が鮮明だったころ」には「一行たりとも書くことができなかった」ものだ。つまり、「覚えていられる?」という約束を履行することができなかったため、この物語を書くことができた、という体裁となっている。
完全に覚えていられることと、「思いだしもしない」ということの間のグラデーションが、結果的に彼を救うことになる。そのことを、レイコさんは直子の死の直前の手紙で予言している。
「定規で長さを測ったり分度器で角度を測ったり」する世界について、『海辺のカフカ』の「カーネル・サンダーズ」が言及する箇所がある。
この「三角定規でできた世界」はまさに狂気の世界だ。人間が根本的に抱えるねじれを世界のまっすぐさに合わせなければいけないからだ。ねじれや忘却というヒューマン・エラーを許容できる世界にこそ救いが生まれる。
「100パーセントの恋愛小説」が描く恋愛
本作刊行時の帯文に「100パーセントの恋愛小説」と銘打たれていたのは有名な話だ。ただ、著者としては、スーパーナチュラルな存在が登場しない「100パーセントのリアリズム小説」と書きたかったと後に明かしているように、「100パーセントの恋愛」が描かれているわけはない。
では、本作における恋愛観とはどのようなものか。もっとも恋愛から遠い人物・永沢さんが恋について言及する場面を見てみよう。
恋愛も最小単位の人間関係であると定義するなら、コミュニケーションの成立のために「まともな人間」は相手に共感や相互理解を求めるだろう。永沢さんはこれに与しない。他者を理解する/自分を理解してもらう可能性を否定はしないが、相関性は徹底的に排除する。
永沢さんが「僕」に親切にするのは、そうした価値観を共有していると考えているからだ。
「僕」が永沢さん的な属性を発揮するのは、共感を求める緑に対してであった。
ここにも「親切」という言葉が出てくる。親切さと心の動きについては『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「街」に住む「僕」に老大佐が諭すシーンがある。
心を奪われ続ける「街」においては、親切さは表層的な機能として、心とは関係なく成立している。逆に言えば、「街」ではない場所では親切さは深層の心と連動しうる。だから親切にされた緑の心は「好き」という情動へ発展する。そして、「僕」の心もまた動き始める。
肉体的な欲望と地続きに、ついに「僕」は愛し合う段階まで到達する。しかし、その肉欲は、直子の存在により制限されたものであることを忘れてはならない。レイコさんはそのことに気づいており、手紙で忠告する。
上記に先駆け、レイコさんが「心を開」くことに言及する箇所が早い段階で出てくる。
レイコさんが言う「素直」に近い「正直」という言葉が本作では頻出する。
ここでも「親切」という言葉が出てくる。だが同時に、「僕」は「この男にだけは何があっても心を許すまいと決心」もしている。永沢さんにとっては親切さはまさに表層的な機能なのだ。
そして彼の希求する「正直さ」はいくぶんバイアスがかかっているものの「公正さ」に通じる。「公正さ」は直子が希求していたものだ。
ここで「ごく普通の女の子」にとっての正直さと、「永沢=直子ライン」の正直さの乖離が明らかになる。そして、前者の方が明らかに「幸せ」に近い。レイコさんの言う「回復」もじつはこちらに近いものだ。
「正直さ」について、変わったところでは緑が語る「根は正直な」父のエピソードがある。
緑の父の言葉は娘二人を確かに傷つける。だが、「ちょっと変ってる」という視点のずらしがユーモアに回収され、最終的に「愛しあうって素敵なこと」という結論に行き着く。ここにこそ「正直に」「公正に」生きていくヒントが隠されている。
物語の冒頭、キズキの死ののち、「僕」はすでにこの「ずらし」の重要性に気づいている。
しかし、物語後半、「僕」が直子を愛すると同時に緑を愛してしまったことについて、レイコさんから手紙で忠告を受ける。
しかし、この直後、直子が自死する。ふたたび死の深刻さが「僕」をとらえてしまう。
放浪する「僕」は述懐する。
「僕」の死の経験値が極限まで高まった段階だ。だが、「僕」が自死することはない。この直後にレイコさんが上京し、二人で直子の「お葬式」を執り行い、性行する。翌日「僕」は旭川へ発つレイコさんを見送り、長らく待たせていた緑に連絡するところで物語は終わる。
「ノルウェイの森」を含むビートルズ・ナンバーや直子が好きだった曲など五十曲を弾いた「お葬式」と直後のセックスは、「僕」とレイコさんにまとわりつく死の穢れを浄める儀式であったのかもしれない。そうすることで、レイコさんは新天地へ、「僕」は緑へと向かうことができる−−。そう読み解くことも可能だろう。だが、「死の穢れ」を浄めれば生へ向かえるというのはあまりにも単純すぎる。
ここで物語冒頭、直子が語る野井戸の話に注目しよう。
「僕」が井戸に落ちる、つまり死ぬことがないのは生まれ持っての属性なのだ。
本作は死にゆく属性と生き残る属性のことを事細かに記している。それを裏付けるように、残酷な結論があらかじめ記されている。「直子は僕のことを愛してさえいなかった」のだ。直子は「あなたにくっついている」ことができなかった。
緑もまた死の穢れに満ちていたが、「愛情しか信じない」ことができれば生き残れるだろう。「僕」との間に信じるに足る愛を築けるかは、本書の結末からは読み取れないのだが。