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雑感『1Q84 BOOK1』

近過去小説『1985』

ジョージ・オーウェルの『1984』(1949)は、全体主義が横暴を極める近未来を舞台にしたディストピア小説である。村上が 『1Q84』を執筆するにあたり、同作はもちろん念頭にあったという。

一九八四年にしたのは、もちろんジョージ・オーウェルの『1984』があるからで、最初は『1985』という題の小説を書こうと思っていたんです。『1984』の翌年の話を、ジョージ・オーウェルとはぜんぜん違ったものとして書きたいと思っていた。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p30)

また、同じインタビューで村上は、近未来ものは「だいたい退屈」とも述べている。

オーウェルの『1984』という小説も、ジャーナリスティックな意味でおもしろくはあるけれども、純粋に小説として読むとかなり退屈じゃないですか。少なくとも僕には退屈だった。近未来について何かを描写しようとすると、多くの場合、話は構造的に凡庸になりがちです。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p56)

僕が興味を持てるのは、言うなれば近過去です。(中略)近過去というのは、いまはこうだけど、ひょっとしたらこうなっていたかもしれないというさかのぼった仮定です。それによってもたらされる現在の事実の作り換えです。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p57)

つまり、村上の当初の心づもりは、
・『1985』という題で
・オーウェル『1984』の翌年の話を
・2000年代の今日的視点に立って
・「ひょっとしたらこうなっていたかもしれない」という仮定を描くことで
・現在の事実の作り換えを行う
ということになる。

しかし、『1985』という題の小説はすでにあると指摘され(『時計じかけのオレンジ』のアントニー・バージェス著)、村上は「これはまずいなと思って、あれこれ考えているうち、『1Q84』という題を思いつ」く。

僕の場合は、題から始まる小説と、あとから題をつけるのに苦労する小説があるけれども、これは完全に題から始まった小説です。『1Q84』という題で小説を書いたら、どんな小説ができるだろうなというところから始まったんです。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p32)

村上自身が『1985』ではなく『1Q84』というタイトルに牽引されて物語をドライブさせたように、近過去小説『1Q84』が世に出て以降、世界自体が大なり小なり変化している。次項ではその変容を見ていこう。

虚構vs.現実ーーシン化する「Q」

さて、作中での「1Q84年」の名付け親は青豆である。

1Q84年—私はこの新しい世界をそのように呼ぶことにしよう、青豆はそう決めた。Qはquestion markのQ だ。疑問を背負ったもの。

(『1Q84 BOOK1』p202)

警官たちが旧式のリボルバーの代わりに、セミオートマチックで弾丸を発射できる最新型の拳銃を携行している世界。1981年10月12日に板橋区の住宅地でNHKの集金人が大学生の腹を刺した事件があった世界。同年10月19日に本栖湖で過激派と自衛隊特殊部隊との間に激しい銃撃戦のあった世界。青豆の知っているものとは異なる世界線だ。

狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ。
そう、それでいい。
どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。レールのポイントが切り替わるみたいに。つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、世界そのものは既に別のものにかわってしまっている。

(『1Q84 BOOK1』p195)

青豆の言う「私の意識」は「意識と記憶」と言い換えてもよいだろう。それが目の前にある世界にマッチしない状況を、ここでは描いている。もちろん、もうひとつの可能性もある。すなわち自らの「意識と記憶」が疑わしい事態である。

実際には、ただ単に私の頭がおかしくなっているというだけかもしれない。私は自分の精神を完璧に正常だと見なしている。自分の意識には歪みがないと思っている。しかし自分は完全にまともで、まわりの世界が狂っているのだというのが、大方の精神病患者の主張するところではないか。

(『1Q84 BOOK1』p196)

世界がおかしいのか、自分がおかしいのか。究極の選択を迫られ、青豆は前者を選んだ。

“私は私?”
“この世界は1984年?”

この二つの問いに、青豆は即答する。“私は私である”と。それだけ、彼女の人生はソリッドでスタティックなのだ。逆に言えば、彼女の人生が変わるには、世界のほうが変わらなければならない。世界がダイナミズムを持つのはいわば必然である。

さて、単行本のカバーでは大きく配される「Q」であるが、2024年の現在に受け取る印象は、2009年の刊行当時と微妙に異なる。

まずひとつは「Q アノン(QAnon)」の存在である。彼らの掲げる「Q」の旗印は、陰謀論、そしてカルト宗教としての側面、また2021年のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件の暴動のイメージをダイレクトに喚起する。
「Qクリアランス」つまり、国家の機密情報にアクセスできると主張する「Qクリアランスの愛国者(Q Clearance Patriot)」が謎めいた一連の投稿を行ったのは2017〜2020年なので、もちろん村上に罪があるわけではないが、「Q」の文字に歴史改変や陰謀史観のイメージが全世界的に塗り重ねられたのは興味深い現象だ。

一方、文学やサブカルチャーにおいても、「Q」の文字は、「謎」や「疑問」、または「解決」のニュアンスを含む語として、グループ名や、フィクション作品のタイトル表記等に用いられる。

・阿Q正伝(「阿」は姓の前につく接頭辞で親しみの表現。「~ちゃん」といった意味。→「Qちゃん」)
・ウルトラQ(「ウルトラマン」の先行作)
・オバケのQ太郎
・シャ乱Q
・ドラゴンクエスト(「Dragon Quest」「DQ」)
・ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q
・Q(『007』の登場人物。兵器開発課長)
・Q*(Qスター。OpenAIの極秘プロジェクトとうわさされる)
・LGBTQQIAAPPO2S(セクシュアルマイノリティーの多様な性的指向と性自認を表現する頭文字の集合。二つのQは「クエスチョニング」(性的指向や性自認に疑問を持つ人々)と「クィア(伝統的な性的指向や性自認には当てはまらない人々)」
・Q資料(伝説上のイエスの語録集)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」(2013。以下、「ヱヴァQ」)は、テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995-1996)のリブート版・第3作目に当たる。「ヱヴァQ」は当初、「序」「破」「急」「?」の4部作の3作目に位置づけられていたが、2作目「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」(2009。以下「破」)本編終了後の次回予告で「急」から「Q」への変更が発表され、「Quickening」と併記された。

「Quickening」は「加速すること」の意のほかに「胎動」の意もある。エヴァンゲリオンシリーズの生みの親・庵野秀明は村上龍の『愛と幻想のファシズム』から登場人物名を援用しているが、村上春樹作品から影響を受けているかは不明だ。また、「破」の公開日は2009年6月27日であり、『1Q84 BOOK1』の発行日、2009年5月30日とほぼ時期を同じくしている。そのため、あくまで偶然と思われるが「空気さなぎ」や青豆の妊娠といった「胎動」のイメージ、物語の疾走感や加速感は奇妙に一致する。
なにより、2010年の『1Q84 BOOK3』の刊行を挟み、2013年に(やっと)公開された「ヱヴァQ」は観客の度肝を抜いた。テレビアニメ版とはまったく異なる世界線が描かれていたからである。

新しい世界の大部分は、私の知っているもともとの世界からそのまま流用されている。だから生活していくぶんには、とくに現実的な支障は(今のところほとんど)ない。しかしそれらの「変更された部分」はおそらく先に行くにしたがって、更に大きな違いを私のまわりに作り出していくだろう。

(『1Q84 BOOK1』p195)

この青豆の推測は正しい。「エヴァ」でいえば「序」「破」では、物語世界の大部分はテレビアニメ版から「そのまま流用され」つつも、明らかに異なる出来事や人物、設定の変更等が出現していた。それが「先に行くにしたがって、更に大きな違い」を生み出し、「ヱヴァQ」の世界へと変容していった。

ここで『1Q84』と「ヱヴァQ」の共通点をあえて挙げるとすると、異なる世界線への移行を、読者および観客が主人公(視点人物)とともに追体験するところにある(読者と視点人物だけが世界が変わってしまったことに気づく『1Q84』、観客と主人公だけが世界の変容を知らない「ヱヴァQ」)。
結果、『1Q84』を読んでいた者は、異世界や並行世界としての「Q」に対して免疫を得ており、「ヱヴァQ」の世界をある程度すんなり受容することができたのだ。

閑話休題。青豆は1981年(「1Q84年の三年前の年」)に起きたNHK集金人による傷害事件と、「あけぼの」が引き起こした銃撃戦(本栖湖事件)に薄い関連性を見出す。

もちろんその本栖湖事件は何日にもわたって新聞紙面で大きく扱われていた。(中略)新聞全体がその事件の報道で埋めつくされていた。おかげでNHKの集金人が板橋区で大学生を刺した事件なんて、どこかに吹き飛んでしまった。
NHKは—もちろん顔には出さないが—胸をなで下ろしたに違いない。もしそんな大事件がなかったら、マスコミはNHKの集金システムについて、あるいはNHKという組織のあり方そのものに対して、ここを先途と大きな声で疑義を呈していたに違いないから。

(『1Q84 BOOK1』p193)

しかし青豆は考え直す。

その本栖湖の事件と、NHKの集金人の事件を別にすれば、青豆はその時期に起こったほかの出来事や事件や事故を、どれもはっきり記憶していた。(中略)それなのに、本栖湖の銃撃事件とNHKの集金人の事件だけが、彼女の記憶にはまったく残っていない。(中略)私の脳の中に、現実を作り替えようとする機能みたいなものが生じていて、それがある特定のニュースだけを選択し、そこにすっぽりと黒い布をかけ、私の目に触れないように、記憶に残らないようにしてしまっているのかもしれない。警官の制式拳銃や制服が新しくなったことや、米ソ共同の月面基地が建設されていることや、NHKの集金人が出刃包丁で大学生を刺したことや、本栖湖で過激派と自衛隊特殊部隊とのあいだに激しい銃撃戦があったことなんかを。
しかしそれらの出来事のあいだに、いったいどのような共通性があるというのだ?
どれだけ考えても共通性なんてない。

(『1Q84 BOOK1』p193-194)

青豆は本栖湖事件とNHK集金人の事件に感じ取った薄いつながりを、「共通性なんてない」と断ち切っている。なぜか? 青豆は記憶の欠落という事実を、「私の脳」と「現実」のどちらが正常なのかという二項対立に置き換えてしまっている。正常ではない「私の脳」が「現実を作り替えようとする」とき、二つの事件には黒い布がかけられる。しかし、二つの事件はなぜか可視化される。その異常事態の整合性をとるために、彼女は先の結論、「狂いを生じているのは私ではなく、世界なのだ」に到達する。狂った世界の中では、事件と事件の脈絡は喪失する。

では、なぜ青豆は「私の脳」と「世界」を天秤にかけたのか。彼女の歴史観にそのヒントがある。

歴史について彼女が気に入っているのは、すべての事実が基本的に特定の年号と場所に結びついているところだった。歴史の年号を記憶するのは、彼女にとってそれほどむずかしいことではない。数字を丸暗記しなくても、いろんな出来事の前後左右の関係性をつかんでしまえば、年号は自動的に浮かび上がってくる。

(『1Q84 BOOK1』p12)

この「出来事の前後左右の関係性」こそが、彼女の世界の正しさを支えている。

私は日々丁寧に新聞を読んできたし、「丁寧に新聞を読む」と私が言うとき、それはいささかなりとも意味のある情報は何ひとつ見逃さない、ということだ。

(『1Q84 BOOK1』p193)

青豆にとって新聞を読むことは、アウトローとして生き残るための自衛にとどまらない。歴史の更新作業を日々行なっているのだ(これはオーウェウル『1984』の主人公が日々、歴史改ざんを行っていることのアナロジーといえよう)。
1984年だろうと、1Q84年だろうと、彼女の歴史更新作業にノイズが生じる世界は狂っているのである。よって、青豆は世界の変容にもっとも敏感な人物といえよう。そして、新聞というメディアにある種妄信的な信頼を抱いていることにも注目しておきたい。

このように、青豆にとって自分と世界を見つめる軸となる「出来事の前後左右の関係性」であるが、他の村上作品でもよく取り扱われるテーマである。一例を見てみよう。

「あれがこうだ」「だからそうなった」というのは、ちょうど電子レンジに「茶碗むしのもと」を入れてスイッチを押して、チンと鳴ってふたをあけたら茶碗むしができていたというのと同じで、ぜんぜんなんの説明にもなってないんじゃないかしら。つまりそのスイッチとチンのあいだに実際になにが起こっているのか、ふたを閉めちゃったらまったくわからないんだものね。(中略)でも私たちは「茶碗むしのもと」を電子レンジに入れてチンしたから当然結果的に茶碗むしができたと思っている。でもそれはただのスイソクに過ぎないと私は思う。私はむしろ、「茶碗むしのもと」を入れてチンしてふたを開けたらたまにマカロニ・グラタンが出てくる、なんていう方がほっとしちゃうのね。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p213)

上記引用の笠原メイの視点は、「出来事の前後左右の関係性」というものは「ただのスイソクに過ぎない」し、この世界においては時としてその関係性は狂ってしまうし、そのほうがむしろ安堵するという主張だ。

私の役目は世界と世界とのあいだの相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果が来るようにする。意味と意味が混じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在のあとに未来がくるようにする。まあ多少の前後はあってかまわない。世の中に完璧なものなんてありゃしないんだ。

(『海辺のカフカ(下)』p97)

「神でも仏でもない」カーネル・サンダーズは「出来事の前後左右の関係性」なんてものは「多少の前後」があってかまわないし、「結果的に帳尻さえちょんちょんとあえば」よいという。このアバウトさを、彼は「継続情報の感知処理の省略」と説明している。簡単にいうと、「あれ? 何だかつじつまが合わないけど、まあいいか」と考えられる余地ということだろう。このように「まあいいか」「そういうこともある」と思えるのが笠原メイであり、思えない者の代表として彼女の両親がいる。

でも私は想像するのだけれど、私の雨蛙みたいな両親は、もし「茶碗むしのもと」を入れてチンしてマカロニ・グラタンが出てきたとしても、たぶん「自分はきっとまちがえてマカロニ・グラタンのもとを入れたんだな」と自分に言いきかせたりするんじゃないかな。あるいはマカロニ・グラタンを手に取って、「いやいや、これは一見マカロニ・グラタンに見えるけれど実は茶碗むしだ」と一生けんめい言いきかせたりするかもしれない。

(『ねじまき鳥クロニクル 第3部 鳥刺し男編』p216)

青豆ならば、「茶碗むしのもと」がマカロニ・グラタンになって出てきたことをごまかしたりはしない。その事実を冷徹に見つめるだろう。また、「スイッチとチンのあいだに実際になにが起こっているのか」にも興味はない。「茶碗むしのもと」を入れてマカロニ・グラタンが出てきたなら、「出来事の前後左右の関係性」が狂っている、つまり世界が狂っていると考える。青豆にとって世界は巨大な電子レンジというブラックボックスなのだ。

ところで、青豆の言う「1984年」は我々の知っている、あるいは我々が通り過ぎた「1984年」に近いように思えるが、果たして同一と言い切れるだろうか。
ひとつには、当然ながら青豆や天吾といったフィクショナルな人物が存在する時点で、我々の生きている世界そのものとは別のラインにあると考えられる。しかし、これはあらゆるフィクションの宿命である。フィクションの登場人物は、自分の属する世界の実存を疑わない。あるいはその疑いそのものが、フィクションというまな板の上に乗ってしまう。

自分自身がまずく書かれた小説の中の一部になったような気がした。お前はぜんぜんリアルじゃない、と誰かに糾弾されているみたいだ。あるいは実際にそのとおりなのかもしれない。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p18)

フィクションがその虚構性を素材として取り扱うのは、メタフィクションにおいてであり、流行りの異世界転生ものなどもその亜流であろう。

ここで再び「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」(ヱヴァQ)の庵野秀明作品に目を向けたい。
「ヱヴァQ」(2012)の続編でありシリーズ完結編の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(2021。以下「シン・エヴァ」)の公開までに、およそ10年弱のブランクが生じた。その間に庵野が取り組んだ作品のひとつが、怪獣映画「ゴジラ」のリブート作「シン・ゴジラ」(2016)である。
「シン・ゴジラ」はいわゆる「シン・〇〇シリーズ」の1作目にあたり、以後、上記の「シン・エヴァ」、「シン・ウルトラマン」(2022。樋口真嗣監督作。庵野は企画・脚本ほか)、「シン・仮面ライダー」(2023)が続く。

この「シン・〇〇シリーズ」の共通点を強引に挙げると、「今まで〇〇が存在しなかった世界」を描いている点にある。とくに「シン・エヴァ」においては、テレビアニメ版、旧劇場版(1997)の作品世界(「虚構」)、そして我々鑑賞者や庵野自身が属する「現実」が、「今までエヴァンゲリオンが存在しなかった世界」への作り変えの対象として扱われる。

“エヴァンゲリオン・イマジナリー”。葛城博士が予測した、現世には存在しない想像上の架空のエヴァだ。虚構と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。

(「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」)

虚構と現実が溶け合い、すべてが同一の情報と化す。これで自分の認識すなわち世界を書き換える“アディショナル・インパクト”が始まる。

(「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」)

上記は主人公・碇シンジの父親である碇ゲンドウのセリフであるが、彼が「自分の認識すなわち世界」と断定していることに注目しよう。つまり、虚構(フィクション)と現実(リアル)を溶け合わせ同一化させることで、世界そのものが書き換わる。そして、それを実現できるのが、「虚構と現実を等しく信じる生き物」である人類という存在なのだ。

青豆が無意識ながらに志向したのは、これと同じ虚構と現実の混淆である。言い換えるなら、青豆は自らの「認識」を正当なものとして持続させるため、積極的に「世界」を書き換えたのだ。そして「1Q84年≒虚構」は、原理的には私たちが生きる「2024年≒現実」をも侵食する(村上の言う「現在の事実の作り換え」がここに成就する)。
だが一方で『1Q84』や「シン・エヴァ」が本当に我々の「現実」を書き換えたと言えるのか、という疑問も残る。その書き換えは、フィクションというまな板の上での「虚構と現実の混淆」にすぎなかったのではないか、と。それは「虚構と現実を等しく信じる生き物」というテーゼの真偽に関わるし、フィクションの抱えるモラリティーの問題にも直結する。

「1Q84年」をつくったのは誰か

再びNHK集金人の事件と本栖湖の銃撃事件に立ち戻ろう。
青豆は自身の「意識と記憶」を維持するために、この二つの事件の間に共通性はないと断じた。しかし、もちろん共通性はある。それは、青豆の記憶から欠落しているという共通点である。つまり「1984年」に二つの事件は存在しない。
では「1Q84年」にこの二つの事件があるのはなぜか? 少なくとも本栖湖事件は、NHK集金人の事件に注目が集まらないようにするために「起こされた」と考えられないだろうか。
さらに、では本栖湖事件を起こした存在がいるとすれば、その存在がより望むことはなんだろう。それはNHK集金人の事件が起こらないことである。

整理してみよう。

1984年 …NHK集金人の事件が起こらない。本栖湖事件が起こらない。 ◎

1Q84年 …NHK集金人の事件が起こる。本栖湖事件が起こる。 ○

?年  …NHK集金人の事件が起こる。本栖湖事件が起こらない。 ×

世界線「?年」が成立すると困る存在にとっては、「1Q84年」はベターな世界、「1984年」はベストな世界であることがわかるだろう。つまり、集金人事件が起きない世界をまんまと実現したのが「1984年」である。当然、本栖湖事件は起きる必要がない。
これに対し、「1Q84年」では本栖湖事件が起こる。「1984年」では存在しなかったか、別の形をとっていた「さきがけ」「あけぼの」が存在する世界。「さきがけ」が宗教色を強めていき、革命志向の「あけぼの」と袂を分かつ世界。「さきがけ」にリトル・ピープルの存在が深く影が落とす世界。

まず、『1Q84』の中心主題は、違う世界に行くことですね。いまここにある世界とどう違うかというと、いちばん大きな違いは、そこがよりプリミティブな世界であるということなんです。たとえば、きのうも話したように(引用者注:このインタビューは3日間にわたり行われた。本引用は2日目の冒頭)、大地から這い出してきたリトル・ピープルが暗闇のなかで人知れず活動し、我々が見慣れているはずのものごとを、あちこちで書き換えていく世界です。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p51)

そこでは宗教もより原始宗教的な傾向を帯びていくし、人と人のコミュニケーションもより直截的になります。というか、その技巧性は内的なものではなくなってくる。神話世界に近接したものです。そういうなかで、人が生き延びていくには、やはりより原初的な胆力を身につけなくてはならない。既成の価値基準が通用しない局面があります。

(「考える人」2010年夏号 「村上春樹ロングインタビュー」p51)

「より原初的な胆力」の持ち主として、青豆ほどふさわしい人物はいないだろう。「1984年」の世界から「原始宗教的な傾向を帯び」た「1Q84年」の世界へ移行したことで、彼女がもっとも純粋に望む天吾との再会は必然となる。

しかし一方で、「より原初的な胆力」の持ち主として想起される人物が他にもいる。天吾ではない。天吾の父親だ。彼にとってもっとも忌避するのがNHKの不祥事だ。彼の胆力は「1Q84年」の世界では事実の改変、糊塗を容易に可能にする。つまり、本栖湖事件を起こしたのは天吾の父だ。そして本栖湖事件が起きるには、「さきがけ」の変質が必要だ。その変質を引き起こしたのは、リトル・ピープルだ。
このように、「原初的な胆力」の持ち主に注目すると、天吾の父とリトル・ピープルの存在が浮き上がる。そして「1Q84年」ではこの二大勢力のほかにも、「より原初的な胆力」の持ち主が対抗勢力として台頭し、力と力が拮抗する可能性も生じる。

本作中の各勢力は

・「天吾の父=NHK」ライン

・「リトル・ピープル=さきがけ(リーダー、上層部、二人組etc.)=牛河」ライン

・「老婦人=青豆=タマル」ライン

・「小松=天吾=ふかえり=戎野先生」ライン

に大きく分けられよう。

ここでは、四勢力の中ではもっとも弱く見える「小松=天吾=ふかえり=戎野先生」ラインに注目しよう。

やり手の文芸編集者である小松の野望は、ふかえりの『空気さなぎ』をベストセラーに押し上げることだ。一方、ふかえりの庇護者であり、彼女の父・深田保(≒「さきがけ」リーダー)と深い親交があった戎野先生は、小松の計画を利用して「さきがけ」に揺さぶりをかけようとする。果たしてふかえりと天吾のタッグが生み出した『空気さなぎ』はベスト・セラーとなる。大きな脚光を浴びたふかえりは、しかし、世間の目を避けるように行方をくらます。戎野先生は捜索願を出し、警察は捜査を開始。『空気さなぎ』の著者周りのスキャンダルとして、革命家の親とカルトである「さきがけ」へマスコミの注目が集まる−−。

「しかし小松さん、こういう風になるというのが、戎野先生がそもそも目論んでいたことじゃなかったんですか」
「ああ、そうかもな」と小松は言った。「俺たちは体よく利用されたということになるのかもしれない。しかし先方の考えは最初からある程度わかってはいたんだ。

(『1Q84 BOOK1』p542)

小松は戎野先生のことを「読みの深い人だし、自信家だから」と評し、そのもくろみや思惑はある程度のラインまで持ち応えると考える。ふかえりもほぼ同意見だが、彼女はリトル・ピープルもまた戎野先生と同等の力を持つと考えている。

センセイはおおきなちからとふかいちえももっている。でもリトル・ピープルもそれにまけずふかいちえとおおきなちからをもっている。

(『1Q84 BOOK1』p536)

テープに吹き込まれたふかえりの声を再生したとき、天吾は次のように考える。

リトル・ピープルは天吾に対して、あるいは戎野先生に対して、害をなす可能性を持つ存在なのだ。しかしふかえりの口調には、リトル・ピープルを邪悪なものとして決めつける響きは聴き取れなかった。彼女の言い方からすれば、彼らはどちらにでも転ぶ中立的な存在のように感じられた。

(『1Q84 BOOK1』p539)

リトル・ピープルは「ふかいちえとおおきなちから」を持ちながら、善でも悪でもない。ただそういった価値観と関係ないのだ。これは『海辺のカフカ』のカーネル・サンダーズが『雨月物語』を引いて、自らを「非情のもの」とし、「人の善悪を糺(ただ)し、それにしたがふべきいはれなし」と言ったことに通じる。
しかし、どれほど「非情のもの」であっても、その怒りを買った人間はたまったものではない。案の定、物語は以下の引用がメインラインになっていく。

もう一カ所、天吾に気にかかる部分があった。

リトル・ピープルのことをジにしたことでリトル・ピープルははらをたてているかもしれない。

(『1Q84 BOOK1』p539)

ふかえりと天吾のタッグが生み出した『空気さなぎ』は、「リトル・ピープル的なるもの」に対するアンチ・ウィルスとして拡散する。そして、字を持たず記録を残さないギリヤーク人と同様、ふかえりは「じになるとそれはわたしのはなしでなくなる」と断ずる。

ふかえりが新人賞受賞時に受けるインタビューの想定問答のくだりを思い起こしてみよう。

「小説はこれまでたくさん書いてきたんですか?」
「たくさん」とふかえりは答えた。
「いつごろから書き始めたんですか?」
「むかしから」
「それでいい」と天吾は言った。「短く答えればいい。余計なことは言う必要はない。それでいい。つまりアザミに代わりに書いてもらっていたということだね?」
ふかえりは肯いた。

(『1Q84 BOOK1』p365)

アザミは物語中に一度も登場しないが、戎野先生の娘でふかえりの二つ年下だ。ふかえりが十歳のときに「さきがけ」を離れて戎野家に現れて以来、アザミはいつも一緒だったという。

エリとアザミは夜になると部屋に二人で閉じこもっていた。何をやっていたのかはわからない。それは二人だけの秘密だった。しかしどうやらあるときから、エリが物語を語ることが、二人のコミュニケーションの主要なテーマになっていたらしい。エリが語ることをアザミがメモかテープにとり、それを私(引用者注:戎野先生)の書斎にあるワードプロセッサーを使って文章にしていった。

(『1Q84 BOOK1』p263)

『空気さなぎ』の原型もこうして生まれた。まさに口承文芸としての『平家物語』の成立過程をそのままなぞっている。そして、ふかえりは『空気さなぎ』以前にも「むかしから」「たくさん」物語を書いて(語って)いたらしい。では、ふかえりとアザミが生み出してきた小さな物語群は、有効な力を持たないのだろうか。

「アザミは、君が話すことをそのまま文章にするの?」と天吾は尋ねた。
「はなすとおりに」とふかえりは答えた。
「君は話し、彼女がそれを書く」と天吾は尋ねた。
「でもちいさなコエではなさなくてはならない」
「どうして小さな声で話さなくてはならないんだろう?」
ふかえりは車内を見まわした。

(『1Q84 BOOK1』p183)

「あのひとたちにきかれないように」とふかえりは小さな声で言った。
(中略)
「あの人たちって誰のこと?」と天吾は尋ねた。

(『1Q84 BOOK1』p183)

このあと、天吾は「あの人たち」がリトル・ピープルのことを指すのか確認し、『空気さなぎ』が活字化され拡散されることに対して彼らは腹を立てるかと尋ねるが、ふかえりは答えなかった。
ここで少なくともわかるのは、「小さな声で」話すかぎりは「あのひとたちにきかれない」で済むということだ。

「リトル・ピープルは本当にいるとエリさんは僕に言いました」
先生はそれを聞いて、しばらくむずかしい顔をしていた。そして言った。「つまり君は『空気さなぎ』に描かれた物語は実際に起こったことだと考えているのか」
天吾は首を振った。「僕が言いたいのは、その物語は細部まできわめてリアルに克明に描かれているし、それが小説にとってひとつの大きな強みになっているということです」

(『1Q84 BOOK1』p266-267)

「本当にいる」とふかえりが断言する存在が、フィクションの強度を底上げする−−。天吾はそう考える。そして戎野先生の関心は、少なくともこの時点では、「『さきがけ』の中でエリの身に何が起こったのか」と「深田夫婦がどのような運命を辿ったのか」に限定されている。つまり二人とも『空気さなぎ』に描かれた物語が実際に起こったことであるかには、関心が向いていない。
おそらくふかえりがアザミを相手に語ってきた物語は、すべて真実か真実をその一部に含んでいる。逆に言えば、ふかえりの物語は真実を現実に変えてしまう。世界を変えることができる。その意味で、ふかえりは「原初的な胆力」の持ち主ではあるものの、その力は極めて限定されている。天吾という存在を得たことで、彼女の力はリトル・ピープル、そして天吾の父に匹敵するまでに拡張する。

では、なぜ「小さな声で」語られてきた物語を、あえて世の中に拡散したのか。天吾の存在は折り込み済みだったのか。
ここからは、誰が『空気さなぎ』を新人賞に応募したのかという謎に迫ろう。

天吾は気持ちを落ち着けるために、グラスを手にとって水を一口飲んだ。「つまり、君は新人賞に応募しなかったということ?」
ふかえりは肯いた。「わたしはおくっていない」
「じゃあいったい誰が、君の書いたものを、新人賞の応募原稿として出版社に送ったんだろう?」
ふかえりは小さく肩をすくめた。そして十五秒ばかり沈黙した。それから言った、「だれでも」
「誰でも」と天吾は繰り返した。

(『1Q84 BOOK1』p90-91)

ふかえりの「だれでも」からは、「誰でもない」と「誰でもよい」の意がくみ取れるだろう。さらに、こういう記述もある。

天吾は懸命に頭を働かせた。「つまり、君が物語を語って、それをアザミが文章にした。そういうこと?」
「タイプしてインサツした」とふかえりは言った。
天吾は唇を嚙み、提示されたいくつかの事実を頭の中に並べ、前後左右を整えた。それから言った、「つまりアザミが、そのインサツしたものを雑誌の新人賞に応募したんだね。おそらく君には内緒で、『空気さなぎ』というタイトルをつけて」
ふかえりはイエスともノーともつかない首の傾げ方をした。しかし反論はなかった。おおむねそれで合っているということなのだろう。

(『1Q84 BOOK1』p179)

これも天吾が「事実を頭の中に並べ、前後左右を整え」て得た仮説が、ふかえりに反論をもって迎えられなかったにすぎない(青豆も「いろんな出来事の前後左右の関係性をつかん」でいたが、「1Q84年」では立ち行かなくなったことを思い出そう)。

ふかえりが原稿を送っていないのなら、『空気さなぎ』と題をつけ新人賞に応募したのは、アザミか戎野先生の二人に絞られる。その戎野先生は『空気さなぎ』を読んだことがあるという。

「『空気さなぎ』はお読みになりました?」と天吾は質問した。
「もちろんだ」

(『1Q84 BOOK1』p266)

つまり戎野先生は応募前の『空気さなぎ』と題された物語を読んでいた。あるいは、応募した『空気さなぎ』の控えを読んでいた。ではアザミがふかえりの語った物語に『空気さなぎ』という題名をつけ、新人賞に応募し、そのコピーを戎野先生に渡したのか? 
アザミという名前しか登場しない戎野先生の娘(15歳?)。彼女が担わされている役割は、やや過剰ではないだろうか。

仮説1)アザミ単独犯説
アザミはふかえりの語る物語を、戎野先生のワープロを使って書きためていた。アザミはそのアーカイブから、リトル・ピープルと「めくらのヤギ」が出てくる物語に『空気さなぎ』とタイトルをつけ、新人賞に「ふかえり」名義で応募する。応募作の下読みしていた天吾は『空気さなぎ』を「最終選考に残す価値あり」と判断し、小松もその可能性に注目しリライト案を思いつく。小松はふかえりが戎野先生の保護下にあることを知らずにふかえりに電話をし、リライト案を提案する。ふかえりは天吾との面会を望み、対面のうえ書き直しを了承する。戎野先生はアザミの行動とふかえりの意向、そして小松の狙いが自分の目的と合致すると考え、『空気さなぎ』の控えを読んだうえで天吾との面会の場を設ける。その後、旧知である小松にもコンタクトをとる。

この仮説は、本作内に散らばる情報から整合性をとるために立ててみたものだが、前述のとおりアザミの役割が過剰だ。また、深い知恵を持つとされる戎野先生が完全に後乗りで、天吾よりも遅れをとっているのが気に食わない。

仮説2)戎野先生主犯説
アザミはふかえりの語る物語を、戎野先生のワープロを使って書きためていた。戎野先生はそのデータを見て、ある物語がふかえり本人の「さきがけ」での体験を描いていることを見抜いた。この物語を拡散すれば「さきがけ」に揺さぶりをかけ、親友夫妻の情報を引き出せるのではないか。そう考えた戎野先生は、主要モチーフ『空気さなぎ』を題として付し、本名の深田絵里子を想起させるペンネーム「ふかえり」名義で新人賞に応募した。審査の裏には旧知の小松がいる。おそらく『空気さなぎ』は小松の山気を刺激し、センセーショナルな演出を画策してくれるだろう。

このあたりがおそらく実状に近いところではないだろうか。
だが、この仮説2に立つと、アザミは単にふかえりの口述筆記を手伝っただけの存在になる。
実際、アザミはふかえりの影のように働いている。たとえば毎日の服を選ぶ。ふかえりのために図書館でギリヤーク人について調べる。天吾がリライトした『空気さなぎ』をふかえりに読んで聞かせる。ふかえりが吹き込んだカセットテープを天吾のアパートの郵便受けに届ける。まるで、ふかえりが行うことが困難なことをアザミがすべて代行しているように見える。そう考えると、アザミという少女には、あまりにも主体性がなさすぎないだろうか。

仮説3)アザミ/ふかえり同一人物説
アザミという娘は存在しない。ふかえりはある種の二重人格で、ディスクレシアの語り部的な人格と、それを文字にしてまとめる「アザミ的人格」が同居しており、ひとり遊びとして「物語ごっこ」をしていた。そのアーカイブの一部が『空気さなぎ』と題された物語だ。戎野先生がそれを発見し、新人賞に応募する。その動機は仮説2と同じ。

仮説3はもちろん、まったくの想像にすぎない。アザミについて、戎野先生は天吾の質問に答えてもいる。

「先生とアザミさんはそれまで(引用者注:ふかえりが来た7年前まで)二人暮らしだったのですか?」
「妻は十年ばかり前に死んだ」と先生は言った。そして少し間を置いた。「車の衝突事故で、即死だった。私たち二人があとに残された。(中略)妻を亡くしたことは、私にとってもアザミにとっても厳しくつらいことだった。あまりにも突然な死に方だったし、心の準備をする余裕もなかったからね。だからエリがうちに来て一緒に暮らすようになったのは、そこに至る経緯がどうであれ嬉しいことだった。たとえ会話はなくても、彼女がいてくれるだけで私たちは不思議に安らかな気持ちになれた。

(『1Q84 BOOK1』p262)

戎野先生が語る家庭事情に疑義を挟む余地はない。だが、あえてうがった見方を続けてみよう。

仮説3’)アザミ不在説
戎野先生と亡妻の間に子供はいなかった(あるいは事故で妻子とも亡くした)。失意の底にあった戎野先生はアザミという“イマジナリー・ドーター”と3年ほど暮らした。そこに「さきがけ」から脱出してきたふかえりが現れた。戎野先生は同居生活を続けるうちに、ふかえりにアザミを投影していく。やがて、ふかえりの中にアザミという実務面を担う人格が定着する。

こう考えると、アザミの実在感の薄さと、ふかえりのトラウマからの回復過程に説明がつくような気がしてくる。しかし、物語中にアザミの不在を確かなものにする記述はない。もう少し実質的な仮説を立ててみよう。

仮説4)戎野先生/アザミ共謀説
深田夫妻と「さきがけ」の動向を追っていた戎野先生は、娘のアザミを使ってふかえりから物語の形でさまざまなエピソードを聞き出し、語るがままに文字化させていた。特に後に『空気さなぎ』と題される物語は、「さきがけ」に揺さぶりをかけるに十分なインパクトを持っていた。戎野先生は旧知の野心的な文芸編集者・小松が絡む新人文学賞に『空気さなぎ』の原稿を応募する。果たして小松は網にかかる。ふかえりを経由してリライト案が提案されるに至り、より効果的でインフルエンスな状況を作り出せると判断した先生は、小松の話に乗った。アザミは計画を遂行するにあたり、ふかえり周りの実務面を担当する(小松からの電話にふかえりとして応対したのも彼女か?)。

この仮説4に立つと、戎野先生とアザミのユニット感がより強調される。だが、それでもやはり釈然としないものが残る。

疑問1)
小松はなぜふかえりの写真を持っていたのか。本名や年齢も知っていた。事前調査をしたのか? であれば、彼女が戎野先生の庇護のもとにあることはわかっていたはずだ。

疑問2)
携帯電話のない時代、ふかえりに連絡をとるなら戎野宅の固定電話にかけるしかない。その時点でふかえりと戎野先生の同居は小松に露見するはずだ。

疑問3)
ふかえりは天吾と新宿の中村屋で会う前に、彼の数学の講義を2回も聞いていた。なぜか?

このあたりの疑問は、小松と戎野先生が最初から共謀していたか、早い段階でお互いのもくろみを開示し合っていた可能性で説明できる。つまり、天吾だけが情報を制限されており、読者も同じ立場に置かれているということだ。
だが、たとえそうだとしても、続刊へ持ち越す下記の謎については明らかではない。

・リトル・ピープルに対抗しうる知恵と力を持つとされる戎野先生が、警察を動かし、マスコミを利用して世間の衆目を集めることに成功しつつも、みすみすリーダー(深田保?)の暗殺を見過ごしてしまうのはなぜか?
(青豆によるリーダー暗殺は、結果的に戎野先生とリトル・ピープルの裏をかくことに成功する)

・戎野先生はふかえり(パシバ。Perceiver。知覚するもの)と天吾(レシバ。Receiver。受け入れるもの)による「反リトル・ピープル的モーメント」の立ち上げに自覚的であったのか?
(『空気さなぎ』の掲載誌が売り切れ、単行本が出版される4日前に、先生はわざわざ天吾に面会し『空気さなぎ』が「私の予想を超えて深い豊かな内容を持つものになった」と伝えた。あるいは、その出来栄えをもって、計画を一段深めたのかもしれない)

・ふかえりが天吾というレシバを得たことで、アザミはその役目を終えたのか?

結局のところ、ふかえりと天吾のタッグが強力すぎたため、リトル・ピープルに並び立つという戎野先生の影が薄くなっていく。とすれば、やはり先生の慧眼はふかえり・天吾タッグの「反リトル・ピープル的モーメント」の立ち上げに自覚的だったと結論づけできる。さらにいえば、物語上の二つの月が夜空に浮かぶ世界が、現実を侵食することにも先生は自覚的だったのかもしれない。戎野先生はかつて気鋭の文化人類学者であった。強い力を持つ物語が世界を改変する可能性を理解したうえで、天吾を利用したのではないか。

銃撃戦、と天吾は思った。そんな話を耳にした覚えがある。大きな事件だ。しかしなぜかその詳細を思い出すことができない。ものごとの前後が入り乱れている。(中略)頭の芯が鈍く疼き、まわりの空気が急速に希薄になっていった。水に中にいる時のように音がくぐもった。今にもあの「発作」が襲ってきそうだ。
「どうしたのかね」と先生が心配そうに尋ねた。

(『1Q84 BOOK1』p231)

この場面は『空気さなぎ』のリライト前だ。それにもかかわらず、本栖湖の銃撃事件があった世界線「1Q84年」に天吾がいることが示される。
天吾の「発作」は二つの世界間の補正作業、つまり記憶の逆流に対する防衛ともとれるだろう。一方、戎野先生はどっぷり「1Q84年」にいる。「さきがけ」がカルト的な側面を強め、ふかえりがリトル・ピープルと邂逅した世界に。強い力を持つ物語が世界を改変しうる世界に。
すでに「1984年」から「1Q84年」に移行してしまっている天吾には、世界間のずれをつぶさに見つめることはできない。我々読者のみがその差異を見分けることができる。「出来事の前後左右の関係性」の狂いが、「2024年」を侵食していないのならば。

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