雑感『一人称単数』

「僕」と「村上春樹」の分離性

本書が独特なのは、語り手である「僕」が「村上春樹」であると示される箇所があることだ。短編「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の一節である。

とにかくその年に、僕は「よし、これからはサンケイ・アトムズを応援することにしよう」と決断したわけだ。(中略)もしひょっとして歴史年表みたいなものを今お持ちなら、その隅っこに小さな字でこう書き加えておいていただきたい。「一九六八年、この年に村上春樹がサンケイ・アトムズのファンになった」と。

(『一人称単数』p129)

題名ともなっている「ヤクルト・スワローズ詩集」であるが、実存はしないといわれている。ただ、この架空の詩集からの引用が、村上作品に登場することがある。

スクイズ

「サードベースとホームベースのあいだに」
と試合後大杉選手は語った。
「北回帰線のようなものがあって、
それが、
僕の足を止めたんです」

1981/9/2
*「ヤクルト・スワローズ詩集」より

(『夢で会いましょう』糸井重里との共著。講談社文庫 p104)

架空の作品といえば、デビュー作『風の歌を聴け』に登場する架空の作家「デレク・ハートフィールド」が想起される。『風の〜』では主人公の「僕」が「文章についての多く」をこの作家に学んだと宣言している。このことから物語自体の架空性が担保され、「僕」は作者自身ではないことの証左となっていた。

一方、本作では作中作「ヤクルト・スワローズ詩集」の架空性により、本人の実名(村上春樹は本名)を出しても物語そのものがフィクションであることが担保されるのである。

本書が巧みなのは、連作のほかの作品の「僕」や「ぼく」「私」を「村上春樹」と読み替えてもかまわないとしていることだ。結果、村上作品ではおなじみのエピソード(棄郷、義絶、ルッキズムなど)が虚実ないまぜに扱われる。

一般的にこれは、私小説やメタフィクションに分類される手法だろう。だが、村上作品の場合は語り手である「僕」の自律性があいまいな場合が少なくない。例えば「鼠三部作」では、「鼠」の存在が大きい。

たとえば『羊をめぐる冒険』の中では、「僕」と鼠の分離性というのはそんなにきっちりしていないんです。ところどころで混濁している。明確な書き分けができていない。でもこの小説(『海辺のカフカ』)ではそのへんのボイスのディフィニション(特定性)がかなりきっちりとしている。

(「村上春樹編集長 少年カフカ」p34 Special Interview)

上記は登場人物の書き分けについて述べているが、ボイスに着目しているのが興味深い。この後に村上自身が述べているとおり、『羊〜』ではオーディオ的に楽器音の分離性が低い。つまり「僕」がしゃべっているのか「鼠」がしゃべっているのか、音が混じって聞き分けられない部分があるということである。

「僕」が「村上春樹」に接近するとき、「鼠」の存在によって「僕」の輪郭がぼやける。結果、「僕=村上春樹」の図式は避けられる。そして、「棄郷」「義絶」といった重い設定を「鼠」に担わせることで、「僕」は語り手としての存在の軽さを手にする。これが、少なくとも『カフカ』以前のある種の作品で行われていた操作である。

じつは「僕(私)=村上春樹」の図式そのものは、村上の短編では例がないわけではない(「レキシントンの幽霊」など)。ただ、「村上春樹」の固有名をフィクションに持ち込んだのは初めてではないだろうか。

著者は、再び語り手の分離性が低い状態を演出することで何を狙っているのだろうか。本書収載作を一編ずつ読み解いていきたい。

●石のまくらに

本作は「大学二年」とあるように、村上が上京し早稲田大学に通っていたころのエピソードという体裁をとっている。

なお、本書収載作を「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」(神戸高校時代)→「クリーム」(浪人時代)→本作および「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」(早稲田大学時代)の順に並べることも可能だ。ちなみに、村上は同大学に7年間在籍している。また、文学部に通いつつも当時は小説家になるつもりもなかったというのは、村上が折に触れ公言しているエピソードである。どうやら本作も「僕=村上春樹」の図式に乗っ取って読み進めても問題なさそうだ。

さて、「僕」が「好きだけれど、事情があって関係をうまく深めることができない女性」は、当然「直子」を思い起こさせる(『ノルウェイの森』『1973年のピンボール』)。

(女性の名を)呼ぼうかとも思ったのだが、途中でなんとなく馬鹿馬鹿しくなって、そのまま何も言わずに彼女の中に射精した。

(『一人称単数』p13-14)

「直子」のイメージが定着している読者には、「直子」が精神の病に冒され、やがて自殺すること、性的な交渉に問題を抱えていたことがすぐに想起される。「ちほ」という名で「歌集みたいなの」を出しており「僕」とセックスにおよぶ女性(以下、「ちほ」)が「やっぱりときどきは男の人に抱かれたくなるんだから」と言うのとは対照的である。

あるいはもう彼女は生きていないかもしれない、そう考えることがある。彼女はこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかという気がしてならないのだ。詠まれた歌の多くは—少なくともその歌集に収められていた短歌の多くは—疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていたからだ。

(『一人称単数』p21)

こちらの描写では一転して「死のイメージ」が「ちほ」と「直子」を結ぶ。
ここで注意しなければいけないのは、死のイメージは「僕」の手元にある私家版の歌集から立ち昇ってくることである。実際の「ちほ」はもしかしたら、この夜の性行為により「僕」の子を妊娠し、人知れず産み育てていた、ということだってありえなくはない。実際、「僕」自身も「ちほ」が死のイメージからすっかり脱却している可能性を否定しない。

あるいは彼女自身だって(たとえまだ無事に生きていたとしても)、自分が若い頃につくった短歌のことなど、もうろくすっぽ思い出せないかもしれない。

(『一人称単数』p23-24)

たとえ書いた本人が忘れていたとしても、「彼女があの夜に嚙みしめていたタオルの歯形の記憶」と結びつき「僕」は「彼女の歌」をいまだに覚えているという。

その「彼女の歌」であるが、作中ではこのように表記される。

今のとき/ときが今なら/この今を
ぬきさしならぬ/今とするしか

(『一人称単数』p20)

ふつう短歌を掲載する場合、「/」などの区切りは入れず一行に続け、改行もなりゆきになるはずだ(一字アキや句読点は任意)。

今のときときが今ならこの今をぬきさしならぬ今とするしか

つまり、本書の「彼女の歌」は「僕=村上」が見せ方、伝わり方をコントロールしているものと考えたほうがいいだろう。彼女の歌集をそのまま掲示したものではないのだ。
いわゆる作中作の手法を用いて「虚実ないまぜ感」をトップスピードで飛ばしてくるのが連作1本目の本作である。

●クリーム

18歳、国立大学の受験に失敗し浪人生活を送っていた村上が、本ばかり読んでろくに勉強しなかったのに早稲田大学には簡単に入れた、というおなじみのエピソードを援用している。

おそらく悪意をもって「ぼく」を架空のリサイタルに招待した女の子は、「連弾をした」ことから下記の「女の子」とかぶるところがあるだろう。

彼女の姿は僕が昔知っていたある女の子を思い出させた。僕が小学校三年で、まだピアノを習っていた頃の話だ。僕と彼女は年も技術のクラスも同じようなものだったので、何度か一緒に連弾をしたことがあった。

(『羊をめぐる冒険(上)』講談社文庫 p155)

また、花束を持ちバスに乗る場面は、『ノルウェイの森』でワタナベが緑の家を尋ねる場面を思い出させる。

僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。(中略)花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を何本か買った。(中略)日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙を見比べた。一人のおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕もにっこりとした。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p120-121)

状況の違いもあるし花の種類の違いもあるが、『ノルウェイ〜』のワタナベは花束を持つことを変に意識していない。むしろ、ちょっとおめかしして浮かれている感じすらする。
それに対し、「クリーム」の「ぼく」はまわりの乗客の目が気になり、赤面してしまう。

ぼくは薄い無地のセーターの上に、青の混じったグレーのヘリンボンのジャケットを着て、キャンバスのショルダーバッグをたすき掛けにしていた。ジャケットは新しすぎたし、バッグはくたびれすぎていた。そして片手にセロファンに包まれた、派手な赤い花束を持っていた。そんな格好でバスに乗っていると、まわりの乗客たちがちらちらとぼくの方を見た。あるいは見られているような気がした。頰が赤くなるのが自分でもわかった。

(『一人称単数』p30)

本作では「ぼく」がかつて赤面症であり、ストレス性の過呼吸にも悩んでいたが、「成長するに従ってそういうことはなくなっていた」ことが示される。
『海辺のカフカ』の例があるとはいえ、若年の「ぼく(僕)」の不安障害の症状が直接的に描かれるのは珍しいのではないか。

さて、「ぼく」が過呼吸に苦しんでいる最中、唐突に話しかけてきた老人が、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」について禅の公案のような問いかけを発する。
舞台が神戸であるから老人が関西弁であることに不自然はない。だが、関西弁で語られるがゆえに、ある種のうさんくささと、いわゆる標準語(東京弁)では表現できないニュアンスが生じる。

人生のいちばん大事なエッセンス––それが『クレム・ド・ラ・クレム』なんや。わかるか? それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや

(『一人称単数』p42)

これを試しに標準語(東京弁)に翻訳してみよう。

人生のいちばん大事なエッセンス––それが『クレム・ド・ラ・クレム』なんだ。わかるかい? それ以外はね、みな取るに足らない、つまらないことばかりなんだ

一気に味気なく、気取った感じになってしまう。とくに「しょうもない」と「つまらん」を東京弁に置き換えることは難しい。

逆に標準語で語られるキリスト教の宣教アナウンスを関西弁に翻訳してみよう(筆者は関西弁ネイティブではないので、変換サービスを利用し「大阪弁」に翻訳した)

「しかしイエス・キリストに救いを求め、犯した罪を悔い改める人は、主によってその罪を許されます。地獄の業火を免れることができます。ですから神を信じてください。神を信じるものだけが、死後の救いを得るのです。そして永遠の生命を手にすることができるのです」

(『一人称単数』p36)

「せやけどダンさんイエス・キリストに救いを求め、犯した罪を悔い改める人は、主によってその罪を許されまんねん。地獄の業火を免れることができまんねん。やろから神を信じておくんなはれ。神を信じるものだけが、死後の救いを得るのや。ほんで永遠の生命を手にすることができるのや」

いきなり天国がうさんくさくなり、地獄の業火も悪くないような気がしてくる。

ここで注目すべきは、宣教カーも老人も人生の真理のようなものを語っていることだ。しかし、語り手、語り口によってその「真理っぽさ」「うさんくささ」が容易に逆転する。
関西出身の村上は、書き言葉である標準語(東京弁)で小説を書くことで、翻訳におけるある種のジレンマやギャップのようなものを感じ、それを意図的に活用しているのかもしれない。

●チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

学生時代の「無責任で気楽なジョーク」として批評を書いた架空のレコードが、ある日突然、35ドルの値札をつけてニューヨークの中古レコード店の「チャーリー・パーカー」の棚に現れる。

でも結局そのレコードを買うことなく店を出てきた。どうせ誰かのくだらない冗談だろうと思ったからだ。物好きな誰かが僕が記述したとおりの架空のレコードを形だけでっち上げたのだ。

(『一人称単数』p60-61)

四号で廃刊になった大学の文学誌に載った「僕」のレコード批評をもとに、それを「誰かが」わざわざ「でっち上げ」ることはあるだろうか。たとえ、その架空のレコードを買いにレコード店に足を運ぶ者が出たくらい真に迫っていたのだとしても。
仮にありうるとしても、「僕」のレコード評自体が「無責任で気楽なジョーク」なのだから、いたずらがいささか過剰である。もっとも不思議なのは、「僕」がその仮説をすんなり受け入れていることである。

その「でっち上げ」のレコードを手にして、「僕」は「言葉もなくそこに立ちすく」む。

僕はあらためてまわりをうかがった。ここは本当にニューヨークなのか? そこは間違いなくニューヨークのダウンタウンだった。そこの小さな中古レコード店に僕はいる。幻想の世界に迷い込んだわけではない。スーパーリアルな夢を見ているわけでもない。

(『一人称単数』p60)

ここで注意しなければいけないのは、「僕」のレコード評が、「ヤクルト・スワローズ詩集」や「石のまくらに」の歌集のようにその存在が疑わしいことだ。存在の疑わしいものが存在する世界は、逆説的に非現実になる。

念押しのように、本作の最後にはレコード批評の一文がリフレインされる。

あなたにはそれが信じられるだろうか?
信じた方がいい。それはなにしろ実際に起きたことなのだから。

(『一人称単数』p69)

チャーリー・パーカーが夢枕に立つ場面は観念的なセリフが多いが、もっとも不可思議なのがバードの以下の言葉だ、

しかしそれでも、実際の本物の死はどこまでも重いものだ。そのときまで存在していたものが唐突にそっくり消えてしまう。まるっきりの無に帰してしまう。そして私の場合、その存在とは私自身のことだった。

(『一人称単数』p67)

死によって消えてしまう存在が、自分自身でないことなどありうるのだろうか。
もちろんここでは、夢の中で奏でた『コルコヴァド』の無時間性と永劫性(瞬間的で全体的な照射に近いもの)が、死の無時間制(いつだって唐突なものだ)と永劫性(「永遠に至るほど長く」引き延ばされた死の緩慢さ)と対比して語られている。そういう意味で、死が存在の消失に直結する者はまれだ。

バードの「私自身」が無に帰することで、奏でられるべきだった音楽はきわめて限られた者にきわめて限られたシチュエーションにおいて届けられる。チャーリー・パーカーにとってのボサノヴァは、村上にとっては自らの死後に書かれるべき小説なのかもしれない。

●ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

上京にともなう恋人との別れは、村上作品で繰り返し取り上げられるモチーフである。もっとも明確な例が『国境の南、太陽の西』のイズミであろう。
『国境〜』と本作とで共通するのは、少女が「僕の耳の奥にある特別な鈴を鳴らしてはくれなかった」ことだ。

本作では少女・サヨコに対するその種の物足りなさを、彼女の兄と共有している。

サヨコが自殺するかもしれんなんて、一度として考えたことがなかった。(中略)幻滅やら心の闇やらを、一人で抱え込むタイプとはどうしても思えなかった。はっきり言って、考えの浅い女やと思っていた。

(『一人称単数』p117)

奇妙な精神の病を持つサヨコの兄は、自分のことを「心の闇」を理解できる深みを持った人間と自認していた節がある。が、その病は「憑(つ)き物が落ちたみたいに」完治してしまう。一方、「嫉妬深い」サヨコは「幻滅やら心の闇やら」を抱え込んで死に導かれる。

「僕」が「青春時代の背景音楽でしかなかった」ビートルズの楽曲に「それなりに真剣に耳を澄ませるようになったのは、ずっとあとになってからのことだ」った。物事の受容には思っている以上に時間がかかる。きっかけも必要だ。そのきっかけをつかんだとき、手遅れという場合だってある。サヨコの兄の後悔は、「僕」の後悔を代弁する。

所詮ぼくみたいなものの力では、妹の命を救うことはできなかったかもしれんけど、何かを少しでもわかってやることはできたはずや。あいつを死に導くことになった何かをな。そのことが今となってはとてもつらい。自分の傲慢さ、身勝手さを思い出すと、たまらんほど胸が痛む。

(『一人称単数』p118)

サヨコが子供を残して自ら命を絶ったのが「三年前」、「三十二歳」のときだった。「僕」がサヨコの兄と再会したのは「三十五歳」であった。村上の年齢を考えると、この再会自体が30年以上は昔のことである。死者は年を取らない。「憧憬の水準器」たる「『ウィズ・ザ・ビートルズ』を胸にしっかりと抱えた、その名も知らない美しい少女」が時の洗礼を浴びている可能性を保持しているのと対照的に。
「ウィズ・ザ・ビートルズ」が「決して息を呑むような素晴らしい音楽ではない」ことを「三十代半も半ばにな」ってから知ったことは、サヨコの死と無関係ではないのだ。

●「ヤクルト・スワローズ詩集」

ヤクルト・スワローズと神宮球場の長期支援者となった経緯を語る、「僕という人間の簡潔な伝記みたい」な短編。前述のとおり、本作では「僕」を「村上春樹」と読み替えることが可能だ。

僕の父親は筋金入りの阪神タイガース・ファンだった。僕が子供の頃、阪神タイガースが負けると、父親はいつもひどく不機嫌になった。顔つきまで変わった。酒が入ると、その傾向は更にひどくなった。だから阪神タイガースが負けた夜は、できるだけ父親の神経に障らないように心がけたものだ。僕があまり熱心な阪神タイガースのファンにならなかったのは、あるいはなれなかったのは、そのせいもあるかもしれない。

(『一人称単数』p136)

この部分は、村上文学の大きなモチーフである「棄郷」と「義絶」を端的に表している。村上は故郷を離れ、父親の影が差さない野球チームを応援することでホームを得たのである。
甲子園球場で「阪神=ヤクルト戦」をヤクルトの応援席で応援したことを描く「海流の中の島」は、いわば此岸と彼岸の逆転を描いている。少年時代の輝かしい思い出を帯びた甲子園球場は、いまやアウェイなのだ。

東京で小説を書き、ヤクルト・スワローズを応援すること。村上は自分の小説を「黒ビール」と謙遜(?)する。水道橋の某球団が「普通のラガービール」なら、ヤクルト・スワローズは「黒ビール」だろう。でも、「黒ビール」である村上の小説は、いつの間にか日本でいちばん売れるビールになってしまった。ここにもひとつの逆転現象が存在している。球場のシートで黒ビールで最初の一杯をやるとき、村上もそんな感慨にふけっているのだろうか。

●謝肉祭(Carnaval)

この作品も「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」に通ずる、価値の転倒が描かれている。

彼女は本当は「醜い仮面と美しい素顔—美しい仮面と醜い素顔」と言いたかったのかもしれない。僕はそのときそう思った。彼女はおそらく自分の何かについて語っていたのだ。

(『一人称単数』p171-172)

「F*」の醜い面貌を仮面とするなら、その下には美しい素顔が存在するという主張が成り立つ。

仮面をモチーフにした美醜の逆転というのはわりにありふれた考え方だが、本作ではシューマンの「狂気」がキーとなる。
『謝肉祭』を作曲したシューマンには、仮面とその下にある素顔の双方を「音楽的に表現」しえた。なぜなら、シューマン本人が分裂症的な傾向、精神的な病のなかにあったからだ。さらに演奏者はその種の狂気を狂気そのものとしてではなく、芸術として表現せねばならない。つまりここには表現における二種類の背反性が存在するのだ。

僕の『謝肉祭』演奏のベストワンは、今でも変わることなくルビンシュテインだ。ルビンシュテインのピアノは人々のつけた仮面を力尽くで剝いだりはしない。彼のピアノは風のように仮面と素顔との狭間を優しく軽やかに吹き抜けていく。

(『一人称単数』p180)

ここで「僕」はルビンシュテインの演奏者としての表現に仮託して「F*」と一線を引いていることがわかる。シューマンに対する「F*」の致命的な音楽観は否定することなく、演奏者の解釈なり表現なりでうまく同一性を回避している。あるいは、「F*」に完全には与しないことを試みている。

では、致命的とも言える「F*」の音楽観なり人生観はどんなものだったか。

僕が彼女と寝なかったのは—というか、実際にそういう気持ちになれなかったのは—その仮面の美醜よりはむしろ、仮面の奥に用意されているものを目にすることを恐れたからかもしれない。それが悪霊の顔であれ、天使の顔であれ。

(『一人称単数』p173-174)

ここで「僕」が主張しているのは、性交が仮面と素顔のダイナミックな入れ替えを可能にする危険性をはらむことだ。セックスを通してシューマンの狂気に近づき得る、と言い換えてもいいかもしれない。そこには「人々のつけた仮面を力尽くで剝」ぐという危うさが潜んでいる。

その危うさは彼女の生き方に直結している。「F*」が「単純にして愚劣な犯罪に加担」したのは彼女の「醜い仮面」の性能を限界まで上げることにあったのかもしれない。「仮面と素顔との息詰まる狭間に生き」るために。

本作はそういう意味では、正確にはルッキズムを取り扱っているとも言い難い。なぜなら「美しい仮面の下の醜い素顔」に対してシューマン的な狂気が機能するのか、という疑問があるからだ。そんなものを目にするために、ふつうの人間は狂気に走ったりはしない。

これに対し、大学時代の「容姿がぱっとしない女の子」のエピソードは、「醜さ」を扱うときにモラルが絡んでよいのか、という問いかけである。

彼女を恋人にすることはないかもしれない。たぶんないだろう。でももう一度会って話をしてもいい。どんな話をすればいいのかわからないが、何か話せることはあるはずだ。彼女をただのブスな女の子にしておかないためだけにも。

(『一人称単数』p182)

ここには「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の「耳の奥にある特別な鈴」の問題がかかわってくる。その鈴が鳴らないとき、美醜という問題が浮かび上がってしまうからだ。狂気が介在しない時にこそ、ルッキズムはきわめて凡庸なかたちで残酷さをあらわにする。

●品川猿の告白

この作品も品川育ちのアウトサイダーとしての猿の視点を借りながら、ルッキズムの問題に接近している。

私はこうしてこの心に(と言って猿は自分の毛だらけの胸に手のひらをあてた)、かつて恋した七人の美しい女性のお名前を大事に蓄えております。

(『一人称単数』p205)

ここでいう「美しい女性」はおそらく人間視点でのそれだろう。
その証拠に、品川猿に名前を奪われたであろう女性編集者を「僕」はこう表現する。

たぶん三十歳前後で、なかなか美しい女性だった。小柄で髪が長く、肌がきれいで、大きなチャーミングな目をしていた。

(『一人称単数』p210)

仕事相手である「ある程度気心は知れていた」旅行雑誌の編集者と「赤坂にあるホテルのコーヒーラウンジで」「軽い世間話をしてい」るシチュエーションは、下心が見え隠れしているととられても否定できないだろう。

だが、ここで品川猿の話題が持ち出されることで、「日本に住むヘテロセクシャルの中高年の男性小説家」と「品川育ちで大学教授に育てられたオス猿」の性的な嗜好が一致してしまう。すると、「僕」の中で彼女に対する見方が“猿が性的な関心を寄せる女性”へと変容する。
もっと下世話な言い方をすると、猿に名前を奪われた女性は、「僕」にとって獣に手をつけられた女性になってしまう。

しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。

(『一人称単数』p205)

猿が理性的に語る愛の形はたしかにそのとおりであるし、プラトニックにならざるをえない愛し方とフィットはする。しかし、品川猿は「七人の美しい女性のお名前」だけを燃料に残りの「猿の人生」を送ることはできなかった。
品川猿が獣性を再びあらわにすることで、「僕」の獣性(性欲)はリセットされる。それはまさに「行って来い」の関係性にある。

●一人称単数

この短編のみ、一人称が「私」になっている。村上がエッセイなどで選ぶ一人称は一貫して「僕」なので、本作では「僕=村上春樹」の図式を意図的にずらしていると考えてよいだろう。

「僕」として語られる物語と「私」として語れられる物語には位相のずれが存在する。なぜなら、「私」は必ず「僕」という語り手と対置されるが、同一性も保持されるからだ(『世界の終り〜』『街と、その不確かな壁』)。そのため、本作の「私」を「僕」「村上春樹」と置換しても痛痒はないかもしれない。

実際、村上が中華料理全般が苦手なことも、ポール・スミスのスーツを持っていることも、長年の読者であればよく知っていることだ。ローマの空港の免税店で「エルメネジルド・ゼニアの細かいペイズリー柄のネクタイ」も購入するだろう。ジョニ・ミッチェルのLPだって、そりゃ聞くだろう。
つまり、読者は彼が身に着けるものや聴く音楽、読む本(ミステリー小説。ジョン・ル・カレか?)から、「私」は「村上春樹」自身、もしくはその投影であると理解する。しかし、それを担保する裏付けは本作中には登場しない。例えば「私」を村上春樹にまつわる情報をよく知り、コピーしている中年男性と取ることも可能だ。

「とりたてて美人という顔立ちではないものの、そこにはうまく完結した雰囲気のようなものが漂」う五十歳前後の女性に「そんなことをしていて、なにか愉しい?」と尋ねられたとき、当然、読者は「村上がキザなことをしてるから…」ととるだろう。
しかし、前述のように「私」が村上のコピーであるとしたら、「村上春樹みたいなことをして、それがかっこいいと思っているの?」という批判にスライドする。
そして、その批判の矢は村上自身にも突き刺さる。村上が自然に行っていることが「村上春樹的」ということでやり玉に上がってしまうのである。

でもこの小説(『ねじまき鳥クロニクル』)が出たとき、どこかの文芸批評家に批判されたんです。日本人の普通の男は一人で家にいて、昼食に自分のためにスパゲティーを茹でたりはしない。だから話として現実的じゃないって。でもね、僕は一人でよく昼食にスパゲティーを茹でてましたね、現実的に。

(「村上RADIO」2021年10月31日放送回)

「現実的に」と最後に言い添えているように、村上にとってスパゲティーを自分のためにゆでることも、スーツを着てバーに行って本を読んでオムレツかサンドイッチを食べることもぜんぜん現実的なのだ。

本書は「僕=村上春樹」と呼んでもかまわないという大胆な試みであると同時に、村上作品を長く読んでいるほど、なじみのマテリアルに惑わされてミスリードする可能性がある。

だからといって、フィクションとエッセイの峻別をするべき、といったモラルや原則論におちいる必要はない。結果的に世界的なベストセラー作家となってしまった「村上春樹」をメタ的に持ちこんだのが本作であるのなら、我々も「僕」という「一人称単数」で語られる小説群にもっと「村上春樹」を持ち込んでもよいのではないだろうか。

みんながステレオで音楽を聴かなくちゃいけないという理由はないんだ。左側からヴァイオリンが聴こえて右側からコントラバスが聴こえたって、それで音楽性がとくに深まるというものでもない。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下)』新潮社文庫 p325-326)

「僕」「ぼく」「私」といった一人称単数と「村上春樹」。それらのボイスはディフィニション(特定性)がきっちりしていない。そのややくぐもった再生音に耳を傾けてみよう。


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