雑感『一人称単数』
「僕」と「村上春樹」の分離性
本書が独特なのは、語り手である「僕」が「村上春樹」であると示される箇所があることだ。短編「『ヤクルト・スワローズ詩集』」の一節である。
題名ともなっている「ヤクルト・スワローズ詩集」であるが、実存はしないといわれている。ただ、この架空の詩集からの引用が、村上作品に登場することがある。
架空の作品といえば、デビュー作『風の歌を聴け』に登場する架空の作家「デレク・ハートフィールド」が想起される。『風の〜』では主人公の「僕」が「文章についての多く」をこの作家に学んだと宣言している。このことから物語自体の架空性が担保され、「僕」は作者自身ではないことの証左となっていた。
一方、本作では作中作「ヤクルト・スワローズ詩集」の架空性により、本人の実名(村上春樹は本名)を出しても物語そのものがフィクションであることが担保されるのである。
本書が巧みなのは、連作のほかの作品の「僕」や「ぼく」「私」を「村上春樹」と読み替えてもかまわないとしていることだ。結果、村上作品ではおなじみのエピソード(棄郷、義絶、ルッキズムなど)が虚実ないまぜに扱われる。
一般的にこれは、私小説やメタフィクションに分類される手法だろう。だが、村上作品の場合は語り手である「僕」の自律性があいまいな場合が少なくない。例えば「鼠三部作」では、「鼠」の存在が大きい。
上記は登場人物の書き分けについて述べているが、ボイスに着目しているのが興味深い。この後に村上自身が述べているとおり、『羊〜』ではオーディオ的に楽器音の分離性が低い。つまり「僕」がしゃべっているのか「鼠」がしゃべっているのか、音が混じって聞き分けられない部分があるということである。
「僕」が「村上春樹」に接近するとき、「鼠」の存在によって「僕」の輪郭がぼやける。結果、「僕=村上春樹」の図式は避けられる。そして、「棄郷」「義絶」といった重い設定を「鼠」に担わせることで、「僕」は語り手としての存在の軽さを手にする。これが、少なくとも『カフカ』以前のある種の作品で行われていた操作である。
じつは「僕(私)=村上春樹」の図式そのものは、村上の短編では例がないわけではない(「レキシントンの幽霊」など)。ただ、「村上春樹」の固有名をフィクションに持ち込んだのは初めてではないだろうか。
著者は、再び語り手の分離性が低い状態を演出することで何を狙っているのだろうか。本書収載作を一編ずつ読み解いていきたい。
●石のまくらに
本作は「大学二年」とあるように、村上が上京し早稲田大学に通っていたころのエピソードという体裁をとっている。
なお、本書収載作を「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」(神戸高校時代)→「クリーム」(浪人時代)→本作および「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」(早稲田大学時代)の順に並べることも可能だ。ちなみに、村上は同大学に7年間在籍している。また、文学部に通いつつも当時は小説家になるつもりもなかったというのは、村上が折に触れ公言しているエピソードである。どうやら本作も「僕=村上春樹」の図式に乗っ取って読み進めても問題なさそうだ。
さて、「僕」が「好きだけれど、事情があって関係をうまく深めることができない女性」は、当然「直子」を思い起こさせる(『ノルウェイの森』『1973年のピンボール』)。
「直子」のイメージが定着している読者には、「直子」が精神の病に冒され、やがて自殺すること、性的な交渉に問題を抱えていたことがすぐに想起される。「ちほ」という名で「歌集みたいなの」を出しており「僕」とセックスにおよぶ女性(以下、「ちほ」)が「やっぱりときどきは男の人に抱かれたくなるんだから」と言うのとは対照的である。
こちらの描写では一転して「死のイメージ」が「ちほ」と「直子」を結ぶ。
ここで注意しなければいけないのは、死のイメージは「僕」の手元にある私家版の歌集から立ち昇ってくることである。実際の「ちほ」はもしかしたら、この夜の性行為により「僕」の子を妊娠し、人知れず産み育てていた、ということだってありえなくはない。実際、「僕」自身も「ちほ」が死のイメージからすっかり脱却している可能性を否定しない。
たとえ書いた本人が忘れていたとしても、「彼女があの夜に嚙みしめていたタオルの歯形の記憶」と結びつき「僕」は「彼女の歌」をいまだに覚えているという。
その「彼女の歌」であるが、作中ではこのように表記される。
ふつう短歌を掲載する場合、「/」などの区切りは入れず一行に続け、改行もなりゆきになるはずだ(一字アキや句読点は任意)。
つまり、本書の「彼女の歌」は「僕=村上」が見せ方、伝わり方をコントロールしているものと考えたほうがいいだろう。彼女の歌集をそのまま掲示したものではないのだ。
いわゆる作中作の手法を用いて「虚実ないまぜ感」をトップスピードで飛ばしてくるのが連作1本目の本作である。
●クリーム
18歳、国立大学の受験に失敗し浪人生活を送っていた村上が、本ばかり読んでろくに勉強しなかったのに早稲田大学には簡単に入れた、というおなじみのエピソードを援用している。
おそらく悪意をもって「ぼく」を架空のリサイタルに招待した女の子は、「連弾をした」ことから下記の「女の子」とかぶるところがあるだろう。
また、花束を持ちバスに乗る場面は、『ノルウェイの森』でワタナベが緑の家を尋ねる場面を思い出させる。
状況の違いもあるし花の種類の違いもあるが、『ノルウェイ〜』のワタナベは花束を持つことを変に意識していない。むしろ、ちょっとおめかしして浮かれている感じすらする。
それに対し、「クリーム」の「ぼく」はまわりの乗客の目が気になり、赤面してしまう。
本作では「ぼく」がかつて赤面症であり、ストレス性の過呼吸にも悩んでいたが、「成長するに従ってそういうことはなくなっていた」ことが示される。
『海辺のカフカ』の例があるとはいえ、若年の「ぼく(僕)」の不安障害の症状が直接的に描かれるのは珍しいのではないか。
さて、「ぼく」が過呼吸に苦しんでいる最中、唐突に話しかけてきた老人が、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」について禅の公案のような問いかけを発する。
舞台が神戸であるから老人が関西弁であることに不自然はない。だが、関西弁で語られるがゆえに、ある種のうさんくささと、いわゆる標準語(東京弁)では表現できないニュアンスが生じる。
これを試しに標準語(東京弁)に翻訳してみよう。
一気に味気なく、気取った感じになってしまう。とくに「しょうもない」と「つまらん」を東京弁に置き換えることは難しい。
逆に標準語で語られるキリスト教の宣教アナウンスを関西弁に翻訳してみよう(筆者は関西弁ネイティブではないので、変換サービスを利用し「大阪弁」に翻訳した)
いきなり天国がうさんくさくなり、地獄の業火も悪くないような気がしてくる。
ここで注目すべきは、宣教カーも老人も人生の真理のようなものを語っていることだ。しかし、語り手、語り口によってその「真理っぽさ」「うさんくささ」が容易に逆転する。
関西出身の村上は、書き言葉である標準語(東京弁)で小説を書くことで、翻訳におけるある種のジレンマやギャップのようなものを感じ、それを意図的に活用しているのかもしれない。
●チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ
学生時代の「無責任で気楽なジョーク」として批評を書いた架空のレコードが、ある日突然、35ドルの値札をつけてニューヨークの中古レコード店の「チャーリー・パーカー」の棚に現れる。
四号で廃刊になった大学の文学誌に載った「僕」のレコード批評をもとに、それを「誰かが」わざわざ「でっち上げ」ることはあるだろうか。たとえ、その架空のレコードを買いにレコード店に足を運ぶ者が出たくらい真に迫っていたのだとしても。
仮にありうるとしても、「僕」のレコード評自体が「無責任で気楽なジョーク」なのだから、いたずらがいささか過剰である。もっとも不思議なのは、「僕」がその仮説をすんなり受け入れていることである。
その「でっち上げ」のレコードを手にして、「僕」は「言葉もなくそこに立ちすく」む。
ここで注意しなければいけないのは、「僕」のレコード評が、「ヤクルト・スワローズ詩集」や「石のまくらに」の歌集のようにその存在が疑わしいことだ。存在の疑わしいものが存在する世界は、逆説的に非現実になる。
念押しのように、本作の最後にはレコード批評の一文がリフレインされる。
チャーリー・パーカーが夢枕に立つ場面は観念的なセリフが多いが、もっとも不可思議なのがバードの以下の言葉だ、
死によって消えてしまう存在が、自分自身でないことなどありうるのだろうか。
もちろんここでは、夢の中で奏でた『コルコヴァド』の無時間性と永劫性(瞬間的で全体的な照射に近いもの)が、死の無時間制(いつだって唐突なものだ)と永劫性(「永遠に至るほど長く」引き延ばされた死の緩慢さ)と対比して語られている。そういう意味で、死が存在の消失に直結する者はまれだ。
バードの「私自身」が無に帰することで、奏でられるべきだった音楽はきわめて限られた者にきわめて限られたシチュエーションにおいて届けられる。チャーリー・パーカーにとってのボサノヴァは、村上にとっては自らの死後に書かれるべき小説なのかもしれない。
●ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles
上京にともなう恋人との別れは、村上作品で繰り返し取り上げられるモチーフである。もっとも明確な例が『国境の南、太陽の西』のイズミであろう。
『国境〜』と本作とで共通するのは、少女が「僕の耳の奥にある特別な鈴を鳴らしてはくれなかった」ことだ。
本作では少女・サヨコに対するその種の物足りなさを、彼女の兄と共有している。
奇妙な精神の病を持つサヨコの兄は、自分のことを「心の闇」を理解できる深みを持った人間と自認していた節がある。が、その病は「憑(つ)き物が落ちたみたいに」完治してしまう。一方、「嫉妬深い」サヨコは「幻滅やら心の闇やら」を抱え込んで死に導かれる。
「僕」が「青春時代の背景音楽でしかなかった」ビートルズの楽曲に「それなりに真剣に耳を澄ませるようになったのは、ずっとあとになってからのことだ」った。物事の受容には思っている以上に時間がかかる。きっかけも必要だ。そのきっかけをつかんだとき、手遅れという場合だってある。サヨコの兄の後悔は、「僕」の後悔を代弁する。
サヨコが子供を残して自ら命を絶ったのが「三年前」、「三十二歳」のときだった。「僕」がサヨコの兄と再会したのは「三十五歳」であった。村上の年齢を考えると、この再会自体が30年以上は昔のことである。死者は年を取らない。「憧憬の水準器」たる「『ウィズ・ザ・ビートルズ』を胸にしっかりと抱えた、その名も知らない美しい少女」が時の洗礼を浴びている可能性を保持しているのと対照的に。
「ウィズ・ザ・ビートルズ」が「決して息を呑むような素晴らしい音楽ではない」ことを「三十代半も半ばにな」ってから知ったことは、サヨコの死と無関係ではないのだ。
●「ヤクルト・スワローズ詩集」
ヤクルト・スワローズと神宮球場の長期支援者となった経緯を語る、「僕という人間の簡潔な伝記みたい」な短編。前述のとおり、本作では「僕」を「村上春樹」と読み替えることが可能だ。
この部分は、村上文学の大きなモチーフである「棄郷」と「義絶」を端的に表している。村上は故郷を離れ、父親の影が差さない野球チームを応援することでホームを得たのである。
甲子園球場で「阪神=ヤクルト戦」をヤクルトの応援席で応援したことを描く「海流の中の島」は、いわば此岸と彼岸の逆転を描いている。少年時代の輝かしい思い出を帯びた甲子園球場は、いまやアウェイなのだ。
東京で小説を書き、ヤクルト・スワローズを応援すること。村上は自分の小説を「黒ビール」と謙遜(?)する。水道橋の某球団が「普通のラガービール」なら、ヤクルト・スワローズは「黒ビール」だろう。でも、「黒ビール」である村上の小説は、いつの間にか日本でいちばん売れるビールになってしまった。ここにもひとつの逆転現象が存在している。球場のシートで黒ビールで最初の一杯をやるとき、村上もそんな感慨にふけっているのだろうか。
●謝肉祭(Carnaval)
この作品も「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」に通ずる、価値の転倒が描かれている。
「F*」の醜い面貌を仮面とするなら、その下には美しい素顔が存在するという主張が成り立つ。
仮面をモチーフにした美醜の逆転というのはわりにありふれた考え方だが、本作ではシューマンの「狂気」がキーとなる。
『謝肉祭』を作曲したシューマンには、仮面とその下にある素顔の双方を「音楽的に表現」しえた。なぜなら、シューマン本人が分裂症的な傾向、精神的な病のなかにあったからだ。さらに演奏者はその種の狂気を狂気そのものとしてではなく、芸術として表現せねばならない。つまりここには表現における二種類の背反性が存在するのだ。
ここで「僕」はルビンシュテインの演奏者としての表現に仮託して「F*」と一線を引いていることがわかる。シューマンに対する「F*」の致命的な音楽観は否定することなく、演奏者の解釈なり表現なりでうまく同一性を回避している。あるいは、「F*」に完全には与しないことを試みている。
では、致命的とも言える「F*」の音楽観なり人生観はどんなものだったか。
ここで「僕」が主張しているのは、性交が仮面と素顔のダイナミックな入れ替えを可能にする危険性をはらむことだ。セックスを通してシューマンの狂気に近づき得る、と言い換えてもいいかもしれない。そこには「人々のつけた仮面を力尽くで剝」ぐという危うさが潜んでいる。
その危うさは彼女の生き方に直結している。「F*」が「単純にして愚劣な犯罪に加担」したのは彼女の「醜い仮面」の性能を限界まで上げることにあったのかもしれない。「仮面と素顔との息詰まる狭間に生き」るために。
本作はそういう意味では、正確にはルッキズムを取り扱っているとも言い難い。なぜなら「美しい仮面の下の醜い素顔」に対してシューマン的な狂気が機能するのか、という疑問があるからだ。そんなものを目にするために、ふつうの人間は狂気に走ったりはしない。
これに対し、大学時代の「容姿がぱっとしない女の子」のエピソードは、「醜さ」を扱うときにモラルが絡んでよいのか、という問いかけである。
ここには「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」の「耳の奥にある特別な鈴」の問題がかかわってくる。その鈴が鳴らないとき、美醜という問題が浮かび上がってしまうからだ。狂気が介在しない時にこそ、ルッキズムはきわめて凡庸なかたちで残酷さをあらわにする。
●品川猿の告白
この作品も品川育ちのアウトサイダーとしての猿の視点を借りながら、ルッキズムの問題に接近している。
ここでいう「美しい女性」はおそらく人間視点でのそれだろう。
その証拠に、品川猿に名前を奪われたであろう女性編集者を「僕」はこう表現する。
仕事相手である「ある程度気心は知れていた」旅行雑誌の編集者と「赤坂にあるホテルのコーヒーラウンジで」「軽い世間話をしてい」るシチュエーションは、下心が見え隠れしているととられても否定できないだろう。
だが、ここで品川猿の話題が持ち出されることで、「日本に住むヘテロセクシャルの中高年の男性小説家」と「品川育ちで大学教授に育てられたオス猿」の性的な嗜好が一致してしまう。すると、「僕」の中で彼女に対する見方が“猿が性的な関心を寄せる女性”へと変容する。
もっと下世話な言い方をすると、猿に名前を奪われた女性は、「僕」にとって獣に手をつけられた女性になってしまう。
猿が理性的に語る愛の形はたしかにそのとおりであるし、プラトニックにならざるをえない愛し方とフィットはする。しかし、品川猿は「七人の美しい女性のお名前」だけを燃料に残りの「猿の人生」を送ることはできなかった。
品川猿が獣性を再びあらわにすることで、「僕」の獣性(性欲)はリセットされる。それはまさに「行って来い」の関係性にある。
●一人称単数
この短編のみ、一人称が「私」になっている。村上がエッセイなどで選ぶ一人称は一貫して「僕」なので、本作では「僕=村上春樹」の図式を意図的にずらしていると考えてよいだろう。
「僕」として語られる物語と「私」として語れられる物語には位相のずれが存在する。なぜなら、「私」は必ず「僕」という語り手と対置されるが、同一性も保持されるからだ(『世界の終り〜』『街と、その不確かな壁』)。そのため、本作の「私」を「僕」「村上春樹」と置換しても痛痒はないかもしれない。
実際、村上が中華料理全般が苦手なことも、ポール・スミスのスーツを持っていることも、長年の読者であればよく知っていることだ。ローマの空港の免税店で「エルメネジルド・ゼニアの細かいペイズリー柄のネクタイ」も購入するだろう。ジョニ・ミッチェルのLPだって、そりゃ聞くだろう。
つまり、読者は彼が身に着けるものや聴く音楽、読む本(ミステリー小説。ジョン・ル・カレか?)から、「私」は「村上春樹」自身、もしくはその投影であると理解する。しかし、それを担保する裏付けは本作中には登場しない。例えば「私」を村上春樹にまつわる情報をよく知り、コピーしている中年男性と取ることも可能だ。
「とりたてて美人という顔立ちではないものの、そこにはうまく完結した雰囲気のようなものが漂」う五十歳前後の女性に「そんなことをしていて、なにか愉しい?」と尋ねられたとき、当然、読者は「村上がキザなことをしてるから…」ととるだろう。
しかし、前述のように「私」が村上のコピーであるとしたら、「村上春樹みたいなことをして、それがかっこいいと思っているの?」という批判にスライドする。
そして、その批判の矢は村上自身にも突き刺さる。村上が自然に行っていることが「村上春樹的」ということでやり玉に上がってしまうのである。
「現実的に」と最後に言い添えているように、村上にとってスパゲティーを自分のためにゆでることも、スーツを着てバーに行って本を読んでオムレツかサンドイッチを食べることもぜんぜん現実的なのだ。
本書は「僕=村上春樹」と呼んでもかまわないという大胆な試みであると同時に、村上作品を長く読んでいるほど、なじみのマテリアルに惑わされてミスリードする可能性がある。
だからといって、フィクションとエッセイの峻別をするべき、といったモラルや原則論におちいる必要はない。結果的に世界的なベストセラー作家となってしまった「村上春樹」をメタ的に持ちこんだのが本作であるのなら、我々も「僕」という「一人称単数」で語られる小説群にもっと「村上春樹」を持ち込んでもよいのではないだろうか。
「僕」「ぼく」「私」といった一人称単数と「村上春樹」。それらのボイスはディフィニション(特定性)がきっちりしていない。そのややくぐもった再生音に耳を傾けてみよう。
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