雑感『1973年のピンボール』

「ラバー・ソウル」とコーヒー

本書の序章に当たる「1969-1973」に「僕」が「直子」の故郷を訪ねる場面が出てくる。『ノルウェイの森』の同名人物との関係性は不明だが、1973年9月時点でこの「直子」は故人であることが明らかにされている。

でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。

(『1973年のピンボール』p24-25)

「ノルウェイの森」は、ビートルズの6枚目のアルバム「ラバー・ソウル」(1965)の収録曲「Norwegian Wood (This Bird Has Flown)」だ。『ノルウェイの森』の「直子」は「この曲いちばん好き」だと語る。

「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子はいった。「一人ぼっちで寒くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p200)

双子が初めて「ラバー・ソウル」をかけたとき、「僕」は深く混乱する。

一人が席を立ってレコードをかけた。ビートルズの「ラバー・ソウル」だった。「こんなレコード買った覚えないぜ。」僕は驚いて叫んだ。「私たちが買ったの。」
「もらったお金を少しずつ貯めたのよ。」
僕は首を振った。
「ビートルズは嫌い?」
僕は黙っていた。

(『1973年のピンボール』p90-91)

この後、「僕」は双子に謝罪し、「『ラバー・ソウル』の両面を聴きながらコーヒーを飲」む。

双子のいれるコーヒーは、本作中に何度も登場する。
物語終盤、78台のピンボール・マシンが整然と並ぶ倉庫で、「僕」と「3フリッパーのスペースシップ」は語り合う。

ありがとう、と彼女は言う。何か話して。
いろんなことがすっかり変っちまったよ、と僕は言う。君の居たゲーム・センターのあとはオールナイトのドーナツ・ショップになったよ。ひどくまずいコーヒーを出すんだ。
そんなにまずいの?
昔、ディズニーの動物映画で死にかけたシマウマがちょうどあんな色の泥水を飲んでたな。

(『1973年のピンボール』p186)

「スペースシップ」は「僕」の近況を尋ねる。

女の子は?
信じてくれないかもしれないけど、今は双子と暮してる。コーヒーをいれるのがとてもうまいんだ。

(『1973年のピンボール』p187)

双子のいれるコーヒーは親密さの象徴として「僕」の日常に溶け込んでいく。

仕事が終るとアパートに帰り、双子のいれてくれた美味しいコーヒーを飲みながら、「純粋理性批判」を何度も読み返した。

(『1973年のピンボール』p38)

「疲れたみたいだな。コーヒーでも飲まないか?」
二人は肯いて台所に行き、一人がカリカリと豆を碾き、一人が湯を沸かしてカップを暖めた。僕たちは窓際の床に一列に並んで腰を下ろし、熱いコーヒーを飲んだ。

(『1973年のピンボール』p59)

食事が終わると双子は食器を片付け、二人で台所に立ってコーヒーを入れた。そしてまた三人で熱いコーヒーを飲んだ。生命を与えられたように香ばしいコーヒーだった。

(『1973年のピンボール』p90)

物語の最後、「僕」は双子が残していった「ラバー・ソウル」を聴き、コーヒーをたてる。1973年の9月から始まった小説は、11月の「何もかもがすきとおってしまいそうなほどの11月の静かな日曜日」に終わる。

「鼠」の不眠症

「僕」の故郷である港町に暮らす「鼠」は、3年前(1970年)に大学を辞め、資産家の父親から与えられたマンションに住み、ほとんどニートの生活を送っている。

「鼠」パートでは、「九月の始め」に出会った「彼女」との短い逢瀬(次作『羊をめぐる冒険』で「二ヵ月と十日」と明かされる)と、バーテンダーの「ジェイ」との「年老いた夫婦のよう」な関係が語られるのみで、基本的には彼の孤独な生活と心情がつづられている。

「鼠」パートで明らかなのは、「鼠」の不眠傾向だ。

できることならビールの最後の一口を飲み干し、部屋に帰って寝てしまいたかった。もし本当に眠れるものなら……。

(『1973年のピンボール』p130)

頭の中はまるで古新聞を丸めて押し込んだような気がする。眠りは浅く、いつも短かかった。暖房がききすぎた歯医者の待合室のような眠りだった。誰かがドアを開ける度に目が覚める。時計を眺める。

(『1973年のピンボール』p130)

鼠は灯台を眺める。空が空け、海がグレーに色づき始める。そしてくっきりした朝の光がまるでテーブル・クロスでも引き払うように闇を消し去るころ、鼠はベッドに入り、彼の行き場所のない苦しみと共に眠った。

(『1973年のピンボール』p158)

浅い眠りが何度か彼の体を通りすぎる。時計の針はもう何の意味も持たない。闇の濃淡が幾度か繰り返されるだけだ。

(『1973年のピンボール』p192)

眠りたかった。
眠りが何もかもをさっぱりと消し去ってくれそうな気がした。眠りさえすれば……。
目を閉じた時、耳の奥に波の音が聞こえた。防波堤を打ち、コンクリートの護岸ブロックのあいだを縫うように引いていく冬の波だった。

(『1973年のピンボール』p198-199)

睡眠障害と並び、食欲不振はうつ病の典型的な症状だ。
「僕」のパートでは双子との食事(ますと缶詰のアスパラガス、クレソン。しいたけとほうれんそうのサンドイッチなど)、翻訳事務所の女性との会食(えび料理)、昼休みのランチ(魚のフライとオレンジジュース。しそのスパゲッティー)などが登場するが、「鼠」はビールばかり飲み、まともな食事をとっている描写がない。

永劫性との決別ーー「鼠」に担わされたもの

最新作『街とその不確かな壁』でも語られた「永劫」について、すでに本作でもピンボールがそのメタファーとして登場する。

しかしピンボール・マシーンはあなたを何処にも連れて行きはしない。リプレイ(再試合)のランプを灯すだけだ。リプレイ、リプレイ、リプレイ……、まるでピンボール・ゲームそのものがある永劫性を目指しているようにさえ思える。

(『1973年のピンボール』p31)

「僕」パートでも「鼠」パートでも、永劫性を示唆する記述が見られる。

同じ一日の繰り返しだった。どこかに折り返しでもつけておかなければ間違えてしまいそうなほどの一日だ。

(『1973年のピンボール』p96)

鼠にとっての時の流れは、まるでどこかでプツンと断ち切られてしまったように見える。何故そんなことになってしまったのか、鼠にはわからない。切り口を見つけることさえできない。

(『1973年のピンボール』p45)

「僕」パートでは、上記場面の直後に、双子との食事シーン(ますとアスパラガスとクレソン)となり、配電盤が話題に上る。

「配電盤の話をしよう。」と僕は言った。「どうも気にかかるんだ。」
二人は肯いた。
「何故死にかけてるんだろう。」
「いろんなものを吸い込みすぎたのね、きっと。」
「パンクしちゃったのよ。」

(『1973年のピンボール』p100)

この前段として、ある日曜日の朝に電話局の作業員が来訪し、「僕」の住む建物の配電盤を取り替えるくだりがある。双子を交えたすったもんだの末に作業が完了すると、「僕」は翻訳の仕事をし、前述のコーヒーの場面へつながる。

「疲れたみたいだな。コーヒーでも飲まないか?」
二人は肯いて台所に行き、一人がカリカリと豆を碾き、一人が湯を沸かしてカップを暖めた。僕たちは窓際の床に一列に並んで腰を下ろし、熱いコーヒーを飲んだ。

(『1973年のピンボール』p59)

双子は「僕」を気遣う。

「上手く行かないの?」と209が訊ねた。
「らしいね。」と僕は言った。
「弱ってるのよ。」208。
「何が?」
「配電盤よ。」
「お母さん犬。」

(『1973年のピンボール』p59-60)

配電盤をめぐる両場面は双子が絡むと同時に、飲食を伴うことに注目したい。

世界が「救いがたい冷ややかさに充ちていた」10月の日曜日に、雨の降り注ぐ貯水池の水面に放り投げ、配電盤の「お葬式」が終わる。
さらに別の日曜日、夕暮れ時に双子とゴルフ・コースで夕焼けを眺めているとき、「僕」の心をピンボールが捉える。「同じ一日の繰り返し」だった日常が、ピンボールを中心に回り始める。

冷凍倉庫での「3フリッパーのスペースシップ」との邂逅の後、冷え切った「僕」を双子が迎えてくれる。

「まだ冷たいわ」。双子は僕の腕首をつかみながら心配そうに言った。
「すぐに暖かくなるさ。」
それから僕たちはベッドに潜り込み、クロスワード・パズルの最後の二つを完成させた。ひとつはにじますで、ひとつはさんぽみちだった。体はすぐに暖かくなり、僕たちは誰からともなく深い眠りに落ちていった。

(『1973年のピンボール』p190)

双子が温もりと眠りをもたらす存在として描かれているのがわかるだろう。

一方、「鼠」も温もりを求めていた。しかし、自ら「橋を焼」くことを選ぶ。

ひどく女に会いたかった。女の肌の温もりを全身に感じ、いつまでも彼女の中に入っていたかった。でも女のところには戻れない。お前が自分で橋を焼いたんじゃないか、と鼠は思う。お前が自分で壁を塗り、中に自分を閉じ込めたんじゃないか……。

(『1973年のピンボール』p157)

海辺で暮らす「女」との関係をフェードアウトさせ、ジェイに別れを告げたところで「鼠」パートは終わる。

これでもう誰にも説明しなくていいんだ、と鼠は思う。そして海の底はどんな町よりも暖かく、そして安らぎと静けさに満ちているだろう。いや、もう何も考えたくない。もう何も……。

(『1973年のピンボール』p199)

街を離れ、「耳にしたこともない小さな町」をめぐり、海の底へ沈む道を「鼠」は選ぶ。

「女」の家が海辺にあり、「鼠」の少年時代の思い出とも結びついていることも注目に値するだろう。

女の家は突堤の近くにあった。鼠はそこに通うたびに少年のころの漠然とした思いや、夕暮の匂いを思い出すことができた。

(『1973年のピンボール』p65)

少々わかりにくいのだが、「鼠」は「二度しか」彼女の部屋に入ったことはない。ということは、彼女に会うためではなくこの場所に通い続けていたことになる。彼女との別れは「鼠」の原風景との訣別を意味する。そして、それは故郷を同じくする「僕」、村上自身とも共有される行為と言えるかもしれない。

「棄郷」「義絶」は以降の村上作品の通奏低音、あるいは前提条件となるが、本作では「僕」ではなく「鼠」に担わせているのが興味深い。

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