雑感『神の子どもたちはみな踊る』

世界の背後にある見えない法則

本書の装画は前衛画家・北脇昇(1901–1951)の「空港」(1937) で、使用を決めたのは村上本人である。

東京の近代美術館で北脇昇さんの特集展示をやっていて、それを見てとても心を惹かれました。戦前のシュールレアリスト風の絵画から、戦争中のいささか国家主義的色彩をふくんだ作品、そして深く沈潜した戦後の作品へとスタイルは大きく変化するものの、彼の絵の中に一貫して含まれている『異様な個人的風景』は、僕の作品のある部分に通底しているような気がしたのです。

(『村上春樹編集長 少年カフカ』p252)

村上が足を運んだ特集展示は「北脇昇展」(東京国立近代美術館。1997)と思われるが、2020年にも同館でコレクションによる小企画が行われている。以下は同展のパンフレットからの引用である。

これまで彼(北脇)の作品は、シュルレアリスム(超現実主義)の影響の側面から語られることがほとんどでした。例えば《空港》(1937年)において、カエデの種子が同時に飛行機にも見えるような、形の連想によって幻想的なイメージを生み出そうとする手法がそれにあたります。けれども本展では、北脇がそうしたシュルレアリスムの思想や技法を借りながら、本当にやりたかったことは何だったのか、ということに目を向けたいと思います。それは、私たちをとりまくこの世界の背後にある見えない法則を解き明かし、世界観のモデルを示すことでした。

(「北脇昇 一粒の種に宇宙を視る」展(東京国立近代美術館。2020)パンフレット)

世界の背後にある見えない法則を解き明かし、世界観のモデルを示すこと−−。往々にして超自然的で幻想的なイメージに注目されがちな村上作品に通底する部分が少なくないのではないか。

性欲の圧倒的な速さ

「アイロンのある風景」に登場する「啓介」は、『海辺のカフカ』の星野に通じる、一見粗野で教養のない青年として描かれる。

問題は5万年前のことも、5万年後のことも、俺にはぜんぜん関係ないってことだよ。ぜんぜん。大事なのは、今だ。(中略)大事なのは、今の今しっかりメシが食えて、しっかりちんぽが立つことだ。そうだろ?

(『神の子どもたちはみな踊る』p42)

ここでは、太古からの営みとしてのたき火とポップ・ミュージックであるパール・ジャムの音楽について語られているが、最新作『街とその不確かな壁』でも永劫と性欲が対比的に描かれる場面がある。

それからぼくは永劫について考えることを諦め、きみの身体について考える。きみの一対の胸の膨らみのことを考え、きみのスカートの中について考える。(中略)でもそんなことをあれこれ想像しているうちに、ぼくの身体の一部はいつしかすっかり硬くなってしまう。大理石でできたみっともない形の置物みたいに。

(『街とその不確かな壁』p67-68)

両者に共通するのは、「永劫」に比すれば圧倒的な性欲の「速さ」であり、物理的な「身体の一部」の変化である。それはアンコントローラブルで、実際に目に見える現象であることが思春期の「ぼく」を悩ませる。

さらに「ぼく」は「きみ」を性的な妄想に登場させたことが、「きみ」が姿を表さない理由ではないかと考えてしまう。

あるいはきみは、ぼくがその朝の電車の中できみについて性的な想像に耽っていたことを−−どのようにしてか見当はつかないが−−察知し、そんなみっともない真似をするぼくにもう会いたくないと思ったのではないか? 

(『街とその不確かな壁』p69-70)

母親との「ろくでもない妄想」に苦しんでいるのが、「神の子どもたちはみな踊る」の善也だ。

母親と致命的な関係におちいることを恐怖するがゆえに、善也は手軽にセックスの相手をしてくれるガールフレンドを必死になって捜し求めた。そのような相手が身近に見つからない時期には、意識して定期的にマスターベーションをした。高校生のうちから、アルバイトした金で風俗店にまで通った。

(『神の子どもたちはみな踊る』p72)

実際に「身体の一部」が屹立してしまうことが「今の今」、大きな問題になる。そして、本人にとって切実であればあるほど、ある種の滑稽さが生じる。それは去勢をめぐる恐怖とおかしみにも通じる。

「少し痛いけど我慢しな」と男は言った。
テニス・ボールくらいの大きさの空気のかたまりが、胃から喉のまん中あたりまで上ってくるのが感じられた。鼻の頭に汗が浮かんでくるのがわかった。私は怯えているのだ。私はたぶん自分のペニスが傷つけられるのを怯えているのだ。ペニスが傷つけられて永遠に勃起できなくなってしまうのを。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』新潮文庫 p266)

同作では、去勢とともにインポテンツの不安も吐露される。

しかるべきときにペニスが勃起しなかったことなんて東京オリンピックの年以来はじめてのことだった。私はこれまでそういった種類の肉体能力については自分でも絶対的と表現してもさしつかえない程度の自信を持って生きてきたから、それは私にとっては少なからざるショックだった。

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』新潮文庫  p156)

「しかるべきときに」身体の一部が即時的に反応できることは、男性を主人公とする村上作品においてはある種の自信につながってもいる。

遅くなる性欲と憎しみ

しかし、長期にわたり持続されて「遅くなった」性欲は身も心もむしばんでしまう。かつて善也の「導き役」をつとめた田端は、死の淵で善也に打ち明ける。

口にするのはとても恥ずかしいことだが、やはり言わなくてはならない。それは、私が善也くんのお母さんに対して幾度となく邪念を抱いたということだ。(中略)善也くんのお母さんの肉体を、私の心は激しく求めた。その思いを止めることはできなかった。

(『神の子どもたちはみな踊る』p94)

宗教二世である善也は、生まれる前に田端によって「お方」の子であると予言され、長じて自らの意思で棄教した。
善也に許しを請うのであれば、田端は善也への虐待を認める言葉を発するべきであったろう。だが、同じ女性へ同じ邪念を抱く呪われた者として、善也は田端を許す。
邪念は「父なるものの限りない冷ややかさ」と対極に位置するものだ。それはときに硬直した人間関係をときほぐす一方、憎しみとして発露される可能性も秘める。

そして彼女(さつき)は一人の男を三十年間にわたって憎み続けた。男が苦悶にもだえて死ぬことを求めた。そのためには心の底では地震さえをも望んだ。ある意味では、あの地震を引き起こしたのは私だったのだ。

(『神の子どもたちはみな踊る』p122)

個人的な憎しみが集合的な暴力に直結すると考える飛躍は、『壁の〜』の「ぼく」が性的な妄想をしたことを「きみ」が現れない理由と考えたことと遠いようで近い。

老女は静かにうなずいた。そしてまたさつきに向かって何かを言った。
「その人は死んでいません」とニミットは通訳した。「傷ひとつ負っていません。それはあなたの望んだことではなかったかもしれませんが、あなたにとってはまことに幸運なことでした。自分の幸運に感謝なさい」

(『神の子どもたちはみな踊る』p120)

「夢を予言する」老女の言葉は、憎しみが人を傷つけ、殺しうることを示唆している。三十年間にわたって「遅くなった」憎しみは鈍いナイフとなりうるのだ。それは自らを傷つける、もろ刃の刃となりうる。

「想像力に対して抱く恐怖」をナイフにするのが「かえるくん、東京を救う」の「かえるくん」だ。

ぼくが彼らに与えたのは精神的な恐怖です。ジョセフ・コンラッドが書いているように、真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです。

(『神の子どもたちはみな踊る』p143)

かえるくんの言う「想像力に対して抱く恐怖」は「アイロンのある風景」の三宅さんが語る、ジャック・ロンドンの溺死への恐怖とリンクする。

ジャック・ロンドンはずっと長いあいだ、自分は最後に海で溺れて死ぬと考えていた。必ずそういう死に方をすると確信していたわけや。あやまって夜の海に落ちて、誰にも気づかれないまま溺死すると

(『神の子どもたちはみな踊る』p61)

しかし、ジャック・ロンドンはモルヒネで服毒自殺した。

「じゃあその予感は当たらなかったんだ。あるいはむりに当たらないようにしたということかもしれないけど」
「表面的にはな」と三宅さんは言った。そしてしばらく間をおいた。「しかしある意味では、彼は間違ってなかった。ジャック・ロンドンは真っ暗な夜の海で、ひとりぼっちで溺れて死んだ。(中略)予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をはるかに超えて生々しいものなんや。

(『神の子どもたちはみな踊る』p62)

予感とは想像力のなせるわざだ。それは長い間、繰り返し思い返されることで成就する可能性をはらむ。ポジティブに言えば「夢」であるし、ネガティブにとれば「呪い」とも言える。

それは遥か昔に葬り去った過去からの響きだった。大学を出て以来その街に踏み入れたことすらない。にも関わらず、画面に映し出された荒廃の風景は、彼の内奥に隠されていた傷あとを生々しく露呈させた。

(『神の子どもたちはみな踊る』p190)

阪神大震災による故郷の被害を「蜂蜜パイ」の淳平は出張先のスペインで画面越しに知る。これは村上自身が震災当時、アメリカに住んでいたこととリンクする。

淳平は家族と「義絶」し故郷との関係を断っていたが、自らが切り捨てた故郷に災害が及ぶことで自分が行使した暴力に気づく。

淳平はこれまでにない深い孤絶を感じた。根というものがないのだ、と彼は思った。どこにも結びついていない。

(『神の子どもたちはみな踊る』p190)

故郷を捨てて文学を志す。支配的な父親から物理的な距離を置く−−。東京で過去の自分や人間関係と決別することを志向するものの、新たなコミュニティーの形成と維持が常に他者の選択に委ねられていたことに淳平は苦悩する。

彼自身の決定事項はいったいどこにあるのだ? 彼は迷い続けた。結論は出なかった。そして地震がやってきた。

(『神の子どもたちはみな踊る』p189)

故郷とも現在の周囲の人間とも根源的なつながりを見出せない順平にとって、震災とは過去からの復讐なのだ。

(笠原メイ)あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。(中略)だからきっとあなたは今、そのことで仕返しをされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p166-167)

切り捨てたはずの過去が「覚えているぞ」と顔をのぞかせる恐怖。それはときに集合的な暴力に無自覚に結びついてしまう。

100パーセントの女の子/男の子

「蜂蜜パイ」の淳平と小夜子は、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の数ある変奏のひとつといえるだろう。
初めて肉体的に結ばれるとき、小夜子はささやく。

「私たちは最初からこうなるべきだったのよ」、ベッドに移ったあと、小夜子は小さな声でそう言った。「でもあなただけがわからなかった。何もわかっていなかった。鮭が川から消えてしまうまで」

(『神の子どもたちはみな踊る』p197)

長い時間をかけて「遅くなった」想いは、高槻を頂点の一角とする完璧な三位一体の崩壊後のある夜、突如、成就する。しかし、肉体的な結びつきが最高潮に達するとき、やはり邪魔が入る。

そのとき背後で、軽い軋みが聞こえた。寝室のドアがそっと開けられる音だった。(中略)淳平が身体を起こして後ろを振り向くと、光を背にして沙羅が立っていた。小夜子は息をのみ、腰を引いて淳平のペニスを抜いた。そしてベッドカバーを胸にひっぱりあげ、手で前髪をなおした。

(『神の子どもたちはみな踊る』p197)

この場面は、想いの遅さと肉体的な速さの相剋ともとれるだろう。どうしたって肉体は精神に比べて拙速すぎるのだ。

「4月のある晴れた朝に〜」の変奏のもうひとつの例が「UFOが釧路に降りる」だ。

しかし小村は—その理由は本人にも正確にはわからないのだが—ひとつ屋根の下に妻と二人でいると、肩の力が抜けてのびやかな心持ちになることができた。夜には安らかな眠りを楽しむことができた。以前のように奇妙な夢に眠りを乱されることもなくなった。勃起は硬く、セックスは親密だった。

(『神の子どもたちはみな踊る』p12)

しかし、その「親密」さは一方的なものでしかなかったことが、震災後、明らかになる。

問題は、あなたが私に何も与えてくれないことです、と妻は書いていた。もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけれど、あなたとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした。でもそれはもちろんあなた一人の責任ではありません。

(『神の子どもたちはみな踊る』p13)

小村の妻にとって「優しくて親切でハンサム」な小村との生活は一見、安らかで平穏な日々であった。しかし、震災がすべてを露見させた。妻は小村の「中身のなさ」を共に助長させていたことに気づく。

地獄のふたは開いているのか?

冒頭の北脇昇は「世界の背後にある見えない法則を解き明かし、世界観のモデルを示す」ために、「シュルレアリスムだけでなく、数学をはじめ、ゲーテの自然科学や古代中国の易などを駆使し」たのだという。

例えば「周易解理図(乾坤)」(1941)では、易の陰陽をもとに「天」「君主」と「君主に仕える者」を非常にミニマルかつグラフィカルに表す。いわゆる戦争画というジャンルでも、北脇はあくまで軽やかに抽象的に描くことに成功している。

村上の言う北脇の「異様な個人的風景」の背景には、じつは明確な規則性といった「ことわり」が潜んでいた。
一方、本作には阪神間という村上の個人的風景(遥か昔に葬り去った過去)が散在しており、暴力と生(性)と死とが色濃く影を落としている。マテリアルとしては初期作から一貫して扱われてきたものであり、目新しさはない。しかし、震災という暴力装置によって露見した「ことわり」はより生々しさを増し、東日本大震災をはじめとする災害やワールドワイドな戦争や紛争へと結びついていく。

震災が地獄のふたを開いたのか、すでに開いてしまっていることを顕現させただけなのか−−。いずれにしても、村上も我々も震災前には戻ることはできない。そして、故郷とそこに封じ込められた過去と想いを切り捨てた経験のある者は、これから起こる災いに対して責任を感じずにはいられないのである。


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