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雑感『街とその不確かな壁』

「きみ」はどこへ行ったのか?

『街とその不確かな壁』において、「きみ」は「ぼく」の交際相手の呼称として、また「君」は「街」に暮らす図書館の少女のそれとして明確に描き分けられている。
「きみ」によると、自分自身は「君」の影であり、「君」は「きみ」の実体であるという。また、影である「きみ」は三歳のときに里子に出され、かりそめの両親に育てられたとされる。

亡くなった母親と、現在も生きている父親は、わたしのことを本当の娘だと思っていますが(思っていましたが)、それはもちろんまちがった幻想です。わたしは遠くの街から風に吹き寄せられてきた、誰かのただの影に過ぎないのです。

(『街とその不確かな壁』p132)

しかし、「きみ」の言動が十分に信じられるかについては、「ぼく」も疑問視している。

考えてみれば、ぼくはきみについて何ひとつ知らないも同然なのだ。きみについて「これは間違いない」と断言できる客観的な事実、具体的な情報、そういうものをほとんど手にしていない。

(『街とその不確かな壁』p114)

また、「私」の「影」は彼女(きみ)こそが本体で、彼女の「影」が街で暮らしているのだと推測する。

私はそれについて考えてみた。「そして壁の外に追放された本体たちは、自分たちは影だと思い込まされている。そういうことなのか?」
「そのとおりです。そういう偽りの記憶をそれぞれにすり込みまれたんです」

(『街とその不確かな壁』p148)

真偽のほどはともかく、「きみ」の認識では「街」には「君」がおり、そこに自分の居場所はない。
「きみ」は「ぼく」に会えたことを「奇跡みたいなこと」とし、「ぼく」を軸にして現実世界で生きる道を探る(あるいは「ぼく」をどこかへ道連れにしようとする)。

「隅から隅まであなたのものになりたい」ときみは続ける。「あなたとひとつになりたい。ほんとうよ」
(中略)
「でも急がないでね。わたしの心と身体はいくらか離れているの。少しだけ違うところにある。だからあとしばらく待ってほしいの。準備が整うまで。わかる?」

(『街とその不確かな壁』p92-93)

この「待ってほしい」という言葉から想起されるのが、『ノルウェイの森』の直子だ。

「私と寝たい?」
「もちろん」と僕は言った。
「でも待てる?」
「もちろん待てる」
「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれる?」

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p260)

直子は「自分のことをきちんと」するのを待たず、自死を選ぶ。その伏線として、かつて直子の姉もやはり自死を選び、それを目の当たりにした直子に深い傷を残していた。
直子が語る姉の描写に注目しよう。

彼女(直子の亡くなった姉)の場合は不機嫌になるかわりに沈みこんでしまうの。二ヵ月か三ヵ月かに一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆ど食べないで。部屋を暗くして、何もしないでボオッとしてるの。

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p264-265)

この描写は以下の「きみ」の言動と酷似する。

一人で閉じこもって、家族の誰とも口をきかないの。学校にも行かないし、ご飯も食べない。何もせず、ただ床に座り込んでいるだけ。ひどいときにはそれが何日も続く

(『街とその不確かな壁』p89)

「きみ」が自死を選んだのか定かではないが、現実世界との関わりを絶ってしまったのは明白だ。そして、その消失が「ぼく」に深い傷(呪い)を残す。前図書館長の子易さんは自らの体験を重ねつつ、その心持ちを代弁する。

(子易さん)いったん混じりけのない純粋な愛を味わったものは、言うなれば、心の一部が熱く照射されてしまうのです。ある意味焼け切れてしまうのです。とりわけその愛が何らかの理由によって、途中できっぱり断ち切られてしまったような場合には。そのような愛は当人にとって無常の至福であると同時に、ある意味厄介な呪いでもあります。

(『街とその不確かな壁』p380)

(子易さん)ひとことも残さず妻がこの世を去っていったことで、わたくしの心は深く傷つけられました。(中略)心の芯まで達する深手です。

(『街とその不確かな壁』p382)

影を持たない人々

本作には影を持たない人物が複数登場する。街の住人では「君」と、高熱の際に「ぼく」を介抱してくれた老人がいる。かつて軍人であったこの老人は、「ぼく」に「若い女の亡霊」を見た話を警告として伝える。

そこ(女の右側の横顔)にあったのは人が決して目にしてはならぬ世界の光景だったということだ。(中略)それを目にすれば、人は二度と元には戻れない。いったん目にしたあとではな……あんたもよくよく気をつけた方がいいぞ。

(『街とその不確かな壁』p86)

この体験が老人が影を捨てて「街」に入った理由であるかは明言されていない。しかし、街で生まれた「君」と異なり、老人には将校として前線で戦ってきた過去があり、なんらかの自発的な理由で影を捨てて「街」へ入ったことがうかがえる。

もう一人の影を持たない人物が子易さんだ。彼は自分が死んだときに、「影を持たぬ人間」になったと告げる。

わたくしの影はわたくしを離れて、どこかに行ってしまいました。

(『街とその不確かな壁』p 288)

この状態を、子易さんは「昔ながらの便宜的表現」を用いて「幽霊」と呼ぶ。

直接の描写はないが、「街」に登場した「イエロー・サブマリンの少年」が影を失っていることに疑問はないだろう。

いいえ、ぼくには影がありません。ぼくは自分の抜け殻をあちらの世界に残してきました。たぶんそれがぼくの影と呼ばれるものなのでしょう。それとも逆に、この僕が影なのかもしれません。

(『街とその不確かな壁』p 617-618)

このように、影を失った人物はその経緯や動機に違いがありつつも、基本的には一方通行(現実世界から「街」、生から死)の移行に伴うことがわかるだろう。その意味で「街」と現実を行き来する「私」を、子易さんは特別視している。

一度でも自分の影を失われた方は、一目でそれと見て取れます。そのような方は当然ながら、なかなかおられません。とりわけまだ生きておられる人の中には

(『街とその不確かな壁』p374)

ああ、そうだ、この人はなにしろ特別な人だ。この人はおそらくわたくしの存在を、仮初めの身体を伴った意識としてのわたくしのありようを十全に理解し、そのまま受け止めてくださるに違いないと。それは何と申しますか、思いもかけぬ奇跡的な邂逅でありました

(『街とその不確かな壁』p298)

信用できない「影」

今作の「私」の「影」は一人称が「おれ」で、「私」に対して敬語を用いる。タメ口を利く『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「影」とも性格づけが異なり、第2部でこの「影」が本体である「私」として振る舞うことに、さらなる違和感を付与している。

さらに、「影」の振る舞い、門衛の発言などから、「影」が信用ならないものとしてうさん臭く描かれてもいる。

(影)「あれ(板壁の節目)がずっとおれの様子を見張っています」
私はしばらくその節目を見ていた。しかしどう見ても、それはただの古い節目でしかなかった。

(『街とその不確かな壁』p124)

(門衛)いずれにせよ、影の言うことなんざ真に受けない方が賢いぜ(中略)連中は何しろ口が達者だからな。自分が助かりたい一心で、思いつく限りの理屈を並べたてる。

(『街とその不確かな壁』p107)

そもそも、本作において、影と本体の関係は流動的にとらえられている。

影と本体はおそらく、ときとして入れ替わります。役目を交換したりもします。しかし本体であろうが、影であろうが、どちらにしてもあなたはあなたです。(中略)どちらが本体で、どちらがその影というより、むしろそれぞれがそれぞれの大事な分身であると考えた方が正しいかもしれません

(『街とその不確かな壁』p 646-647)

流動的で交換可能でありながらも、本体と影が話すとき、明らかな個性の違いが生じる。これはなぜか。
第2部では「影」が「私」の意識と記憶を引き継ぎ、「私」として思考し、行動し、苦悩もする。

あるいは私は自分のふりをしている、自分ではない私なのかもしれない。

(『街とその不確かな壁』p362)

この人生を自分として、自分の本体として生きている実感が持てないのです。自分がただの影のように思えてしまうことがあります。そのようなとき私は、ただただ自分を形どおりになぞって、巧妙に自分のふりをして生きているような、落ち着かない気持ちになってしまうのです。

(『街とその不確かな壁』p383)

この「私(=影)」の苦悩に対し、子易さんは「本体と影は表裏一体のもの」としたうえで、こう助言する。

何かをなぞることも、何かのふりをすることもときには大事なことかもしれません。気になさることはありません。なんといっても、今ここにいるあなたが、あなた自身なのですから

(同)

影が本体をなぞることを肯定しつつ、そこにアイデンティティーを見出してもよい−−。「私」として生きる「影」のスポンテニアティーを担保することが、物語の展開に大きく寄与している。

私と少年の融合

(イエロー・サブマリンの少年)ぼくはあなたと一体になりたいのです。あなたとひとつになれば、ぼくはあなたとして、毎日ここで古い夢を読み続けることができます

(『街とその不確かな壁』p 618)

「街」へ「不法侵入」した「イエロー・サブマリンの少年」は、「私」と融合することで「夢読み」となる願望を果たそうとする。
この「ひとつにな」るは、「きみ」の「あなたとひとつになりたい」のアンサーになっていることは明白だろう。

ぼくとひとつになることによって、あなたの人格や日常が変化するようなことは決して起こりません。あなたの自由が束縛されるようなこともありません。

(『街とその不確かな壁』p 619)

ぼくとひとつになることによって、あなたはより自然な、より本来のあなた自身になることができるのです。

(『街とその不確かな壁』p 620)

この融合の提案で想起されるのが、映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(押井守監督作。1995)の「人形使い」と草薙素子の融合のシーンだ。

脳核以外は全身サイボーグの草薙は、自己の存在を希薄に感じている。

私みたいに全身を義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくに死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないかって。いえ、そもそも初めから「私」なんてものは存在しなかったんじゃないかって

(『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』)

「情報の海から生じた生命体」と自称する人工知能「人形使い」は、そんな草薙に興味を抱き、融合を提案する。

(人形使い)君と融合したい。完全な統一だ。君も私も総体は多少変化するだろうが、失うものは何もない。融合後に互いを認識するのは不可能なはずだ。
(草薙)私が私でいられる保証は?
(人形使い)その保証はない。人は絶えず変化するものだし、君が今君自身であろうとする執着は君を制約し続ける。

(同)

「自身であろうとする執着」があれば、本体だろうが影だろうが、誰かと融合しようが分裂しようが関係なく、自分自身でいられる。逆に、自分自身が誰かの影でしかないと規定してしまえば、自分自身として生きていくことはできない。

村上作品にしばしば登場する、死の領域に引かれていく人物、生きづらさを感じながらも生きていこうとする人物。今作では前者が「少女」「子易さんの妻」、後者は「私(ぼく、影)」「子易さん」「イエロー・サブマリンの少年」が大まかに該当するだろう。

頼りになるのは「意識と記憶」−−村上作品の無常感

死んだはずの人物が亡霊となって主人公の前に現れる−−。初期長編『羊をめぐる冒険』の終盤で、「僕」の旧友「鼠」は自分が死んでいることを明かす。

僕は黙って頷いた。「質問の順序がばらばらになるけどかまわないか?」
「かまわないよ」
「君はもう死んでるんだろう?」
(中略)
「そうだよ」と鼠は静かに言った。「俺は死んだよ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p196)

このとき「僕」と「鼠」は「漆黒の闇の中」で邂逅しており、その姿は「僕」の目には見えない。しかし、本作の子易さんは生前と変わらぬ姿を「私」と添田さんの前に現し、「私」の部屋や、「私」の会社の後輩・大木に(おそらく)電話をかけたりもする。

亡霊としては破格の扱いの子易さん自身は、死者として脳が失われているのに意識が継続していることに疑念を感じている。

肉体がなくとも意識はちゃんとあるのです。それはわたくしにとって大きな謎です。

(『街とその不確かな壁』p292)

一方で魂の不確かさを語り、いちばん頼りになるのは「意識と記憶」であるとも言う。

魂なんていうものは目にも見えませんし、手でも触れられません。(中略)わたくしが思いますに、実際に我々の頼りになるのは、なんといっても意識と記憶だけです

(『街とその不確かな壁』p293)

さらに、以下のくだりでは魂の無常さが語られる。

お墓に入っているのは結局のところ、三人の遺骨に過ぎませんし、骨と魂とはまず繋がりのないものです。(中略)肉体を失った魂はやがては消えてしまいます。そのようなわけで、こうして死んでしまって死後の世界にありましても、わたくしはやはり生きている時と同じようにひとりぼっちなのです。(中略)そしてやがてはこのわたくしの魂も、しかるべき時間が経てばどこかに消えて、無と帰することでしょう。

(『街とその不確かな壁』p373)

村上作品において、「意識と記憶」はたとえ肉体を失っても一時的にでも継続する可能性がある。また、本作では本体のそれを影が引き継ぐことも可能だ。

だが、一度魂が無に帰すれば、意識と記憶を永遠に失ってしまう。子易さんの悲劇は、息子と妻の意識と記憶が暴力的に奪われることで、亡霊としての彼らに再会できなかったことだ。そしてその悲劇性は「きみ」を唐突に失った「ぼく(私)」のそれと相似形を描く。子易さんは死ぬまではその悲劇性の中に囚われていたが、死後、影を失ったことで逆説的に「人間的に生き生き」するようになる。

(添田さん)でも亡くなられてからは、つまり魂だけになられてからは、まっすぐ私の目を見て、気持ちを込めてお話をなさるようになりました。その人柄もこれまでになく生き生きした、人情味のあるものになってきたようでした。

(『街とその不確かな壁』p312)

死そのものは魂が無に帰するだけであり、子易さんにとって救済ではないことが注目に値するだろう。

「意識と記憶」を継続する幽霊としての子易さんの存在は、ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』の引用と、ラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムへのやや直截的な言及にも垣間見れる。

ガルシア=マルケス、生者と死者との分け隔てを必要としなかったコロンビアの小説家。何が現実であり、何が現実ではないのか? いや、そもそも現実と非現実を隔てるような壁のようなものは、この世界に存在しているのだろうか?

(『街とその不確かな壁』p587)

「生者と死者」と「現実と非現実」がここでは対比されている。「死者=非現実」が「意識と記憶」を持ちうるのなら、それを隔てる壁は「不確か」である。そして、魂が無常にも消え果てても「不確かな壁」に囲まれた街はいつまでも存在し続けるのだ。

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