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雑感『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』

あまりにも多くのことが起こりすぎている

第2部の冒頭は、第1部の最後、間宮中尉来訪の当夜からシームレスで始まる。だが状況は明らかに異なる。クミコが姿をくらませたのだ。

時系列で言うと、クミコの逐電は間宮中尉が訪れた日の朝、第1部の第11章「間宮中尉の登場、温かい泥の中からやってきたもの、オーデコロン」で「僕」が彼女を送り出した直後のことである。しかし、我々読者は単行本で70ページ弱の間宮中尉の「長い話」を聞き、巻をまたいでいきなり失踪の事実をつきつけられる。このギャップに、「僕」も自覚的だ。

まず間宮中尉から電話がかかってきた。それが昨日の朝のことだ。−−そう、間違いなくそれは昨日の朝だった。そして妻は家を出ていった。僕は彼女のワンピースの背中のジッパーを閉めた。そしてオーデコロンの箱をみつけた。それから間宮中尉がやってきて、奇妙な戦争の話をした。外蒙古の兵隊に捕まって、井戸に放り込まれる話だ。彼は本田さんの形見を置いていく。でもそれはただの空の箱だ。そしてクミコは帰ってこない。彼女はその朝に駅前のクリーニング店で洗濯物をピックアップしている。そしてそのままどこかに消えてしまった。会社にも連絡はない。それが昨日の出来事だ。
でもそれだけのことが全部、本当に一日のうちに起こったとは、僕にはうまく信じられなかった。あまりにも多くのことが起こりすぎている。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p31-32)

「あまりにも多くのことが起こりすぎている」という感想は、読者の視点にかなり寄っている。言い換えれば「僕」がよりメタな視点に移行している。その傍証として、以下のような記述もある。

自分自身がまずく書かれた小説の中の一部になったような気がした。お前はぜんぜんリアルじゃない、と誰かに糾弾されているみたいだ。あるいは実際にそのとおりなのかもしれない。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p18)

通常、こういったメタ的な描写は興ざめを招きかねないが、上記のように「僕」が読者に寄ってきていると考えてはどうだろうか。実際、第1部をとおして、我々読者は「僕=岡田トオル(岡田亨、オカダトオル)」の何を知れたというのだろう。

本作の第2部の冒頭は「僕」が読者に近づくことで、「僕」が自身について何も知らないことに気づくという、新たなフェーズに移行したことを示している。この先、「僕」は自身の過去を探る探偵となる。そして、我々読者はときに「僕」の伴走者でもあり、目撃者ともなる。

「僕」の「遠過去」−−世界を埋め尽くすもの

ここからは「僕」が試みる探索を「遠過去(主に少年時代)」と「近過去(主にクミコとの記憶)」の二つに分けて、具体的に見ていこう。

宮脇家の井戸の底へ降りることを心に固め、「僕」は路地を行く。その脳裏に去来したのが、少年時代の家出の思い出である。「ちょうどこんなよく晴れた夏の朝に」、「おそらく両親に対して何か腹に据えかねたことでも」あってバスを乗り継ぎ〈知らない遠くの(もっと遠くの)町〉まで行ったものの、不安と恐怖を感じて家に引き返すというエピソードだ。

ここで注目すべきは、「僕」の両親の情報がほとんど開示されていないことだ。また、上記に先行して、両親との関係性のよしあしや金銭的な面のみが明かされていることもいささかの違和感につながる。
たとえば、「僕」が大学に入学した年に母親は鬼籍に入るが、「僕」にささやかな遺産を遺している。通常、亡くなった人が遺言等を作成していなかった場合、法定相続人が財産を受け継ぐ。「僕」の母親の法定相続人は、配偶者である夫(「僕」の父親)と子である「僕」(一人っ子)なので、遺産は二人で折半することになる。だが、「僕」と父親の関係はあまり良好ではなく、経済的援助を受けている様子もない。

しかし叔父は、ただ一人の甥である僕のことを昔から気にかけてくれていた。僕が大学に入った年に母親が死んで、再婚した父とのあいだが上手くいかなくなってからは、とくにそうだった。僕が大学生として東京で貧乏なひとり暮らしをしていた時分には、銀座にある何軒かの自分の店でよくただでご飯をたべさせてくれたものだった。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p211-222)

母が死んで、そのあと父親が再婚して以来、僕は父親とは顔を合わせたこともなければ、手紙をやりとりしたこともなければ、電話で話したこともない。そしてクミコはただの一度も僕の父親に会ったことはない。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p16)

あれだけそりの合わなかった義父とも面会する努力をしていた「僕」が、実父とはまったくの没交渉で、クミコを引き合わせようともしない。
あくまで推測でしかないが、「僕」の両親は不仲で、「僕」は母親寄りの立場だったのではないか。だから、母親はわざわざ「僕」のために遺言書を残して遺産をできるかぎり夫には残さなかったのではないか(いずれにしても、母親の遺産が失業中の「僕」のセーフティーネットになっていることは間違いがない)。

一方、少年時代の「僕」と父親との輝かしい記憶もまた語られる。井戸の中で確認した「七時二十八分」という時間がナイターの行われているスタジアムの情景に結びつき、さらに「ほんの小さな子供のころ」に観たセントルイス・カージナルスと全日本チームの親善試合の記憶につながる。

僕は父親と二人で内野席でその試合を見ていた。試合に先立ってカージナルズの選手たちがグラウンドを一周し、籠に入ったサイン入りのテニス・ボールを運動会の玉入れ競争みたいにスタンドにどんどん投げ込んでいった。人々は必死になってそれを取り合っていた。僕はただじっとそこに座っていたのだが、気がついたとき、そのボールのひとつが僕の膝の上にあった。それは魔法のように唐突で奇妙な出来事だった。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p170)

これとほぼ同じ逸話が短編集『一人称単数』収載の『「ヤクルト・スワローズ詩集」』でも扱われる。同作では父親が阪神タイガースのファナティックなファンであり、それが自身が阪神間育ちでありながらタイガースの応援にのめりこめなかった一因ではないか、と村上(らしき登場人物)は考える。本作でも、詳述されないものの、野球応援における父親との温度差や方向性の違いがあったと考えて差し支えないだろう。
また、『「ヤクルト・スワローズ詩集」』では、上京した村上が自らの意思で神宮球場を新たなホームグラウンドとし、ヤクルトスワローズを応援するようになった経緯が語られる。つまり、「僕」がクミコと立ち上げようとした新しい生活のアナロジーとして、新たなホームチームの設定をとらえてみてもよい。「僕」にとって父親は、タイガースとともに決別した過去に連なるものなのだ。

さて、井戸に入って「僕」が初めて思い出すのはクミコとのなれそめであったが、その「細部にいたるまで不思議なほど鮮やか」に思い起こされる記憶の奔流の中で、少年時代の思い出も顔を出す。初デートで水族館に赴き、クラゲの特別展示を見る場面だ。

クミコには言わなかったけれど、実を言うと僕はクラゲが大嫌いだった。子供の頃、近くの海で泳いでいて、何度かクラゲにからだを刺されたことがある。ひとりで沖に向けて泳いでいるうちに、クラゲの群れの真ん中に入りこんでしまったこともある。(中略)僕はクラゲたちの渦のまん中で、まるで深い闇の中に引きずりこまれてしまったような激しい恐怖を感じた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p101)

また、井戸の底で「壁抜け」を体験した直後、「半月のかたちに区切られた」明け方の空に「うっすらと光る星」を眺める場面では、友人と山登りしてキャンプをした経験がよみがえる。

小学校の五年生か六年生の頃、友達と何人かで山に登ってキャンプをしたときに、空を覆い尽くすほどの数の星を目にしたことがある。(中略)星の数はあまりに多すぎたし、夜の空はあまりにも広く、深かった。それは圧倒的な異物として僕を取り囲み、包みこみ、不安定な気持ちにさせた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p142)

上記、二つの場面では少年時代の「僕」が異物に取り囲まれる体験が描かれている。ひとつはクラゲであるが、クラゲについてはクミコがその存在に言及する場面がある。

本当の世界はもっと暗くて、深いところにあるし、その大半がクラゲみたいなもので占められているのよ。私たちはそれを忘れてしまっているだけなのよ。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p103)

クラゲも満天の星も、「本当の世界」を埋め尽くしている者たちだ。しかし、我々はその存在を「忘れてしまっている」。「僕」が井戸の中でアクセスできるのは、ふだんは忘れてしまっている限定された記憶である。その記憶は異界への恐怖や不安とともに、世界を埋め尽くす不可視の領域へと直結している。

「僕」の「近過去」−−後天的な世界としての家庭

浮気を隠し続けていたクミコは、第1部を通して終始、不機嫌な女性として描かれてきた。機嫌のいい場面が例外的に描かれているくらいである。

帰宅したとき、クミコは機嫌が良かった。すごく機嫌がいいといってもいいくらいだった。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p84)

機嫌のいいクミコが仕事の話をするのを聞きながら、「僕」は「家庭」について考えていた。

彼女が仕事場の話をし、僕は夕食の用意をして、その話を聞く。それは僕が結婚する以前に漠然と思い描いていた家庭の姿とはかなり違ったものだった。でも何はともあれ、それは僕が選んだものだった。もちろん僕は子供の頃にも自分自身の家庭を持っていた。しかしそれは自分の手で選んだものではなかった。それは先天的に、いわば否応なく与えられたものだった。でも僕は今、自分の意志で選んだ後天的な世界の中にいた。僕の家庭だ。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p84-85)

先述のとおり「僕」が井戸の底に降りて最初に思い出すのが、クミコとのなりそめである。その語り口は、間宮中尉や加納クレタが開示してくれたエピソードと同様、「そのまま手にすくい取れそうなくらいありありとしてい」る。「奇妙な含みを持った闇の中で」、「僕」がクミコにひかれていった経緯が明らかになっていく。

僕とクミコとのあいだには、最初から何かしら気持ちが通じ合うところがあったように思う。それは出会いがしらにびりびりと何かを感じるというような衝動的な、強いものではなくて、もっとずっと穏やかな優しい種類のものだった。(中略)クミコと顔を合わせる回数が増えるにつれて、知らず知らずのうちに、病院に通うのがそれほど苦痛ではなくなってきた。僕はそのことに気づいて、自分でもちょっと不思議な気持ちになった。それは新しい誰かに出会ったというよりは、むしろ懐かしい誰かにふとめぐり合ったような気持ちに近いものだったからだ。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p99)

この記述の直前では、クミコの先天的な家庭事情が端的に描かれている。

僕がそのときクミコの家族について得た知識といえば、兄がひとりいて、父親は役人だということだけだった。そして父親に対しても母親に対しても、愛情というよりは何か静かな諦めのようなものを抱いて接しているということ。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p99)

第1部では、クミコの両親、兄(綿谷ノボル)の生い立ちや家庭環境が明示されており、さらに、亡くなった姉とクミコ自身の幼少期についても詳述されている。
幼いクミコは母と折り合いの悪い父方の祖母の元へ、いわば人質として預けられるが、やがて綿谷家に呼び戻される。大人の都合による人身のトレードは、6歳のクミコをいたく傷つける。

そのときにクミコがやったのは心を外界から一時的に閉ざしてしまうことだった。何かを考えたり、何かを望んだりすることを一切やめてしまうのだ。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p128)

クミコは本来の家族という「新しい環境」で「無口で、気むずかしい少女」になっていく。そんな彼女に寄り添ったのが小学六年生の姉だ。

彼女は我慢強くクミコの面倒をみた。クミコと同じ部屋で眠り、少しずついろんな話をし、本を読んでやり、一緒に学校に行って、学校から帰ると勉強をみてやった。彼女が部屋の隅で何時間も一人で泣いていると、そのそばにいてじっと抱きしめていてやった。そして少しでも妹の心を開いてやろうと努めた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p130)

しかし、クミコの姉は「食中毒の事故」で亡くなってしまう。

私はそれ以来ずっとみんなに対して罪悪感を感じつづけてきたのよ。どうしてお姉さんのかわりに私が死んでしまわなかったのかって。(中略)ねえ、私もピアノを習わされたのよ。お姉さんが死んじゃったあと、うちにグランド・ピアノが残っていたから。でも私はピアノを弾くことに興味すら持てなかったのよ。私にはお姉さんみたいにうまく弾けないだろうってことがわかっていたし、私は自分がお姉さんよりあらゆる点で劣った人間だということをいちいち証明したくはなかったの。

(『ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編』p130-131)

クミコと姉の関係は、『ノルウェイの森』の直子とその姉の関係をほうふつとさせる。

「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもとても仲が良かったの」と直子は言った。(中略)お姉さんは何をやらせても一番になってしまうタイプだったのだ、と直子は言った。勉強も一番ならスポーツも一番、人望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱりしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあってという女の子だった。(中略)「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」

(『ノルウェイの森(上)』講談社文庫 p262-263)

クミコも直子も、姉とは異なった路線を選ぶ。また、二人とも家庭内の要であった姉を亡くし、後景から前景へと押し出される経験をしている。クミコはいわば生き残った直子と言ってもよいかもしれない。

僕がクミコに対し「懐かしい誰かにふとめぐり合ったような気持ち」を抱いたのは、家族に対する距離の置き方に通じ合うものを感じたからだ。だからこそ、お互いが結婚を通して「自分の意志で選んだ後天的な世界」を築くという価値観を共有できたのだ。
しかし、上述のように「僕」の先天的な家庭内での、つまり両親との距離感については井戸に潜る前に示される一方、井戸の中で思い起こされる少年時代の記憶は断片的なかたちにとどまる。つまり「僕」とクミコでは「遠過去」の与えられ方に乖離があり、注意が必要である。
また、クミコのそれも含め「他者の過去性」が、過去のある時点から現在まで比較的リニアに展開されるのに対し、「僕」の過去性はその遠近にかかわらず、井戸という装置を通してノンリニアにアクセスされる。本作以降、本格的に稼働する「壁抜け」は、異界や深層心理への移動装置と考えられるが、井戸の持つ過去性へのアクセスという機能(ランダム・アクセス・メモリーズ)に裏打ちされていることを忘れないでおこう。

笠原メイの視点、叔父の視点

笠原メイはそこでちょっと間を置いた。
「ねえ、ねじまき鳥さん?」
「なんだい?」
「あなたはそこで、その真っ暗な中で、自分が死ぬことについていろいろと考えてみた? 自分がそこでどんな風に死んでいくかということについて」
僕は少しそれについて考えてみた。「いや」と僕は言った。「そういうことについてはとくに考えなかったと思うな」
「どうして?」と笠原メイはあきれたように言った。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p161)

井戸にたらした縄ばしごを引き上げた笠原メイは、「僕」の生殺与奪の権を握ったと言っても過言ではない。
彼女の関心ごと(「存在の中心」)は終始一貫して「死」である。しかし、「僕」は笠原メイの中心命題である「死」に関心が持てない(あるいは鈍感である)。笠原メイはそれにいらだち、「僕」に死について必死に考えさせようとする。

考えてみれば、間宮中尉と加納クレタも死に著しく接近しつつも、彼らの関心は「恩寵」や「痛み」にあった。死は彼らの抱える問題の大きな転機となり得るが、中心命題にはならない。それに対し、笠原メイは自ら井戸の底に降り、「私の中にあったあの白いぐしゃぐしゃとした脂肪のかたまりみたいなものに乗っ取られていこうと」する体験をする。

しばらく口をつぐんで、笠原メイはそのときのことを思い出すように自分の手を見ていた。「本当に怖かったのよ」と彼女は言った。「きっと私はあなたにもそういうのを感じてほしかったのね。それがあなたの体をぼりぼりと齧っていく音を聞いてほしかったのね」

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p294)

笠原メイが感じてほしかった恐怖を、「僕」は感じられなかった。これが実は彼女を救うことにもつながる。彼女自身が乗り越えられなかったことを、「僕」が成し遂げたからだ。あるいは彼女の中心命題を相対化したとも言えるかもしれない。

「かわいそうなねじまき鳥さん」と笠原メイは囁くように言った。「きっとあなたはいろんなものを引き受けてしまうのね。知らず知らずのうちに、より好みすることもできずに。まるで野原に雨が降るみたいに—ねえ目を閉じて、ねじまき鳥さん。糊で貼りつけたみたいにしっかりと目を閉じてくれる」
僕はしっかりと目を閉じた。
笠原メイは僕の顔のあざの上に唇をつけた。薄い小さな唇だった。それはまるでよくできたつくりもののような唇だった。それから彼女は舌を出して、そのあざの上をまんべんなくゆっくりと舐めた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p299-300)

この場面の前に、「僕」は笠原メイに肉体的あるいは精神的に汚されたことがあるかを尋ね、彼女は処女であり精神的にも汚されていないと答えている。だから、笠原メイの行為は聖別とも解釈できるかもしれない。クミコを求めて綿谷ノボルと対峙する「僕」は、同時に「いろんなものを引き受けて」代理戦争を行う資格も与えられたのである。

ねじまき鳥さんはたぶんクミコさんのために闘いながら、それと同時に、結果的に他のいろんな人のためにも闘っているんじゃないかってね。だからこそあなたは、ときどきほとんどバカみたいに見えるんじゃないかしら。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p345)

おそらく「他のいろんな人」の中には、間宮中尉や加納クレタが含まれる。間宮中尉の手紙の結び、「岡田様がこの先幸せな人生をお送りになることを、陰ながら念じております」は単なる社交辞令ではない。

さて、「クミコ≒直子」の図式においては、クミコと築き上げた家庭が崩壊し、彼女が失われることはもはやデフォルトである。それは「僕」にとって、クミコと築き上げてきた「近過去」の意味喪失と等価である。笠原メイに言わせれば「ぜんぜん勝ち目がなさそうに見える」ということになる。

「結婚したとき、僕らがやろうとしていたのはそれだったんだ。僕はそれまでに存在した僕自身というものから抜け出したかった。クミコにとってもそれは同じだった。僕らはその新しい世界で、本来の自分に相応しい自分自身というものを手に入れようとしたんだ。僕らはそこでもっとうまく、もっと自分自身にぴったりとした生き方ができると思っていたんだ」

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p165)

上記引用は、まさに「僕」の「近過去」の中核であるが、危うさを十分にはらんでいる。そのことに、笠原メイは非当事者として敏感だ。

「私はまだ子供だし、結婚がどういうものかなんて知らない」と笠原メイは言った。「(中略)でも今の話を聞いた限りではね、あなたはそもそもの最初からちょっと間違った考えかたをしていたような気がするの。ねえ、ねじまき鳥さん、あなたが今言ったようなことは誰にもできないんじゃないかな。『さあこれから新しい世界を作ろう』とか『さあこれから新しい自分を作ろう』とかいうようなことはね。私はそう思うな。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p166)

だからきっとあなたは今、そのことで仕返しされているのよ。いろんなものから。たとえばあなたが捨てちゃおうとした世界から、たとえばあなたが捨てちゃおうと思ったあなた自身から。私が言ってることわかる?

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p167)

笠原メイの言う「捨てちゃおうとした世界」や「捨てちゃおうと思ったあなた自身」は、「僕」が井戸の底で断片的ながら再獲得していった過去そのものである。ここでメタな視点に立てば、物語をドライブさせるために村上が「僕」から切り離した「遠過去」に、「僕」は「仕返し」されているのである。
この「遠過去」の不在は、既存の村上作品の基調を成していると言っていいかもしれない。しかし、本作が新たな展開を見せるのは、「僕」がつくりあげようとした「新しい世界」「本来の自分に相応しい自分自身」が、クミコとの共作であることからだ。

それでも僕とクミコは少しずつ、自分の体や心を「我々の家庭」という新しい単位のために同化させていった。二人で一緒にものを考え、ものを感じる訓練をかさねた。自分たちの身に起こる様々なものごとを「自分たちのもの」として受け止め、共有しようと努めた。もちろんうまく行くこともあれば、行かないこともあった。しかし僕らはそんな試行錯誤をむしろ新鮮なものとして、楽しんでいたと思う。それにもし激しい衝突があっても、僕らは抱き合って忘れてしまうことができた。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p114)

そんな「僕」とクミコの「試行錯誤」を肯定的に捉えていた人物がいる。「僕」の叔父だ。

「クミコとお前とは、これまでのところずいぶんうまくやっているみたいに思えたんだけどね」、叔父は軽いため息をついたあとでそう言った。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p302)

ただね、お前がクミコと結婚したのはいいことだと俺はずっと思っていた。クミコにとってもいいことだと思っていた。それがどうしてこんな風に急に駄目になってしまったのか、俺にはもうひとつ理解できないんだよ。お前にもまだうまく理解できないんだろう?

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p310)

叔父は「どちらかというと現実的な人間」であり、「僕」のいる世界と叔父のいる世界の間には「目には見えない厚く高い壁のようなものがあ」る。だから、叔父は「僕」にプラクティカルな助言をする。「いろんなことがものすごく複雑にしっかりと絡み合っていて、ひとつひとつほどいて独立させることができない」ときは、「誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいなところから始めるんだ。そしてその馬鹿みたいなところにたっぷりと時間をかけるんだ」と。

「だとすれば、何かがはっきりとわかるまで、自分の目でものを見る訓練をした方がいいと思う。時間をかけることを恐れてはいけないよ。たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練されたかたちでの復讐なんだ」
「復讐?」と僕は少し驚いて言った。「なんですか、その復讐というのは。いったい誰に対する復讐なんですか?」

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p310)

叔父は「僕」の問いかけに「そのうちに意味はわかるよ」とお茶を濁すが、彼の復讐の対象は漠然と示唆されてもいる。

理屈や能書きや計算は、あるいは何とか主義やなんとか理論なんてものは、だいたいにおいて自分の目でものを見ることができない人間のためのものだよ。そして世の中の大抵の人間は、自分の目でものを見ることができない。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p309)

つまり、「世の中の大抵の人間」を白痴化させる能力を持つ者に、叔父は「復讐」している。そして、この「自分の目でものを見ることができない人間」こそが、綿谷ノボルが持てる力を行使できる対象である。
では、綿谷ノボルは衆愚と化した民衆をどこに導こうとしているのか。彼は政治に対して「はっきりしたヴィジョンを持っているし、それを人々に訴えかけるだけの力をも持っている」と自認している。

目標はとりあえずは十五年先にある。二十世紀のうちには自分は必ず、政治家としてこの日本という国家の明確なアイデンティティーの確立を押し進められる位置についているつもりである。(中略)自分が目指しているのは、日本を今あるような政治的な辺境状態から抜け出させ、ひとつの政治的・文化的モデルの位置にひっぱりあげることである。換言すれば、日本という国家の枠組みの作り替えである。偽善の放擲であり、論理と倫理の確立である。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p275-276)

綿谷ノボルが確立を目指す「国家の明確なアイデンティティー」は具体性に乏しく、内容空疎にも響く。しかし、メタ視点に立てば21世紀の日本は、「潮の流れのままに揺られ、運ばれる巨大なクラゲのような存在」に成り果てていると言えるかもしれない。「綿谷ノボル抜き」で世紀をまたいでしまったことで、彼の予言が成就してしまったのか。あるいは国家というものは常に「不明瞭な字句や、出口のないレトリック」と無縁ではいられないのか、それはわからない。ひとつ言えるのは、「自分の目でものを見ること」ができる者が一定数存在するかぎり、「国民的、国家的コンセンサスを打ち立てる」のは困難であるということだ。

結婚生活を中核とする僕とクミコの「近過去」の瓦解は、綿谷ノボルにとって好都合であるだけでなく、クミコの「暗黒の部屋(208号室。「闇の世界」)」を経由して積極的に働きかけることで引き起こされたことが、第2部の結末部分で明らかになる。そして、クミコがそのことで決定的に損なわれてしまった可能性を、加納クレタが示唆する。

ねえ、岡田様、岡田様がいつかクミコさんを取り戻すことができるかどうか、それは私にはわかりません。でももし岡田様が実際にクミコさんを取り戻すことができたとして、それによって岡田様が、あるいはクミコさんが、もとのように幸福になれるという保証はどこにもないのです。何もかもそっくりもとのまま、というわけにはいかないんじゃないでしょうか。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p332)

だから加納クレタは自分とともに、クレタ島へ脱出することを勧める。加納クレタは名前を失った「かつて加納クレタであった女」だ。そして「僕」は「かつて岡田トオルであった男」となる。そうなることを、ほとんど決心しかける。しかし、「僕」は思いとどまる。なぜなら、それこそが綿谷ノボルの思うつぼであるから。

もちろんクミコにも問題はあった。あの子にはまあいろんな事情があって、子供の頃から幾分屈折したところがあった。そういうところできっとあの子は、君に一時的に引かれたんだと思う。でももうそれも終わった。(中略)君はどこか別の場所で君に相応しい人生を始めた方がいい。

(『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』p51)

クレタ島行きは、綿谷ノボルが「僕」に勧めた流れに乗ってしまうことになる。なにより、「どこか別の場所で」自分に「相応しい人生を始め」るのは、クミコと行ったことの繰り返しにすぎない。
再獲得した「近過去」と「遠過去」の維持。それは「僕」ひとりで行っても意味がない。クミコを取り戻すことは必然であり、その先には綿谷ノボルとの対決が待っている。

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