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雑感『悪は存在しない』

本作のラストは多くの含みを持ち、多様な解釈を生んでいるようだが、本稿ではそこに至る登場人物の造形に目を向けていきたい。

巧と花—喪失感を共有する父娘
巧の妻で花の母である女性はおそらく亡くなっており、安村家のピアノとキャビネットに置かれた家族写真のなかでのみ、その姿が確認できる。

二枚の写真は家の中で撮られている。一枚目は巧の妻と花がピアノの連弾をしているとおぼしき場面、二枚目は家族三人でじゃれあっている場面だ。花が劇中と変わらない姿で写っていることから、巧の妻が比較的最近まで日常生活を送れていたであろうことも写真から推測できる。とすると、長患いの末、衰弱していったとは考えにくく、何らかの事情で妻(母)は唐突に命を失った可能性が高いのではないか。たとえば、事故。心臓発作や脳卒中。あるいは自殺――。もちろん、本作内でその詳細が語られることはない。

開拓三世である巧は、グランピング場計画の説明に訪れた高橋と黛に「町の便利屋だ」と自称し、長老格の区長・駿河からは「巧はこのあたりのことはなんでも知っている」と太鼓判を押されている。だが、その生活実態は不明だ(少なくとも「暇人ではないし、金にも困っていない」)。彼の「仕事」として劇中で描かれるのは、薪割り(おそらく自宅用。ブルーシートがかけられた大量の木材が見える。また、薪ストーブを焚く場面が二度出てくる)と、うどん店の峯村夫妻が店で使う湧き水をくむのを手伝う場面くらいだ。

巧は基本的に無口だが、娘の花には樹木の種類やシカの水場について教えたりはする。ただ、家では酒も飲まず、妻の弾いていたピアノの鍵盤をじっと眺めるのみだ。
また、グランピングの説明会の日の夜、巧はノートに高橋と黛の顔と湧き水か沢の絵を鉛筆で描き、駿河が言った「水は高いところから低いところへ流れる」という言葉を書き込む。この間、花がぬいぐるみのうさぎを使ってちょっかいを出しても、巧はまともに反応しようとしない。まるで当日あったことをビジュアル・イメージで残し、記憶を定着させようとしているかのような没入感だ。
没入感といえば、日中、薪割りや水くみに没頭している巧は、一度として時間どおりに学童へ花の迎えに行くことはない。

こうしたことから、巧には健忘症か若年性の認知症を患っているか、ADHDの傾向が強いと想像ができなくもない。だが、説明会前々日の夜の会合、説明会当日などでは、基本的に「聴くこと」「話すこと」「場を調整すること(終始攻撃的な立樹を押さえ、双方の対話を促す)」ができていることから、社会的な言動、行動がとれているようにも見える。

一方で個々のコミュニケーションにおいては、やや不思議な点が見られる。
いちばん顕著なのが高橋とのやりとりだ。説明会の後、高橋と黛に連絡先を求められたとき、巧は「名刺はない」と告げ、高橋に「持ってる?」と聞く。高橋は名刺を出そうとするが、黛が察してスマホを取り出す。また、高橋と黛を連れて水くみをした後、巧は高橋に「たばこ吸う?」とだけ聞く。高橋は戸惑いつつも、一本欲しいのだと気づき、手渡して火をつけようとするが、巧は自分のライターを用いる。高橋の気の利かなさを表現する場面のようにもとれるが、二人のコミュニケーションが常にちぐはぐであり、それを黛が冷静に見ているという構図は劇中で揺らぐことはない。

巧のこういったコミュニケーション不全に、妻の死がどれほど影響しているのかはわからない。もともと「変人」なのか、妻を失った喪失感がいまだ生々しく心を蝕んでいる証左なのか。悲劇的なのは前者の場合だ。心の病や深い傷といったものがまわりから気づかれにくいからだ。

花にとっても、母を失ったショックが小さいはずはない。劇中では同年代の子どもたちと一緒にいる姿は描かれず、巧が学童に現れる場面は常にお迎えの時間を過ぎているので、花が集団に交じって遊んでいるのかはわからない。説明会の日、花は公民館の外からガラス戸を開けようとするが、中にいる住人にとがめられ、「原っぱ」に向かう(ここで鳥の羽根を採取し、駿河に手渡す)。

このように、花は大人たちといるとき以外、基本的に独りだ。だが、学童のスタッフは常態化する巧の遅刻をとがめもしないように、花のコミュニケーション不足に対する懸念を表したりもしない。だから、学童では花は子どもたちとふつうに遊んでいるのかもしれない。巧の健忘はしかたがないと諦めて、お迎えの時間が過ぎたら一人で帰路に着いているだけなのかもしれない。

だが一方、花がいなくなった学童は「だるまさんが転んだ」の擬似的なストップモーションや、スタッフが遊具を執拗に回転させ続ける固定ショットなど、映像がある種の異様さを放っているように思える。例えば駐車場の場面では、車をバックさせている巧の視点ではなく、車の後部に設置されたカメラの視点で描かれる。そのため、人物の視点では捨象されるべきカメラの揺れが画面に反映される。

もしかしたら、学童の場面は、巧が薪割りや水くみといった没我の時間から現実に引き戻されるという、時間差や時空のゆがみを描いているのかもしれない。結果、観客は奇妙な乖離の感覚を味わうことになる。

さて、その学童からの帰り道、花は巧とともに、ヤマバトかキジの羽根を拾う。その夜、彼女は夢を見る。シカの水場と原っぱ。巧が新たな羽根を拾い、花は彼と手をつないで歩く。以来、花は羽根を求めて森と原っぱをさまよう。失踪当日も、花は無人の(?)牧場で牛に飼葉を与え、森と原っぱの境界(?)のロングショットを上手から下手へ向かって走り、画面の端へと消えてゆく。

この花の消失と前後して描かれるのが、巧、高橋、黛が峯村のうどん店を訪れる場面である。細かいことを言えば、花は学校で給食を食べ、午後の授業を終えてから学童へ行くはずだから、この時系列のずれは、おそらく濱口監督の意図したところだろう。
おそらく濱口が強調したかったのは、うどん店の後に行った水くみのシーンで、この三人が時間を忘れるほどの没我に至っていたということだ。巧の抱える健忘に、高橋と黛が巻き込まれたとも言えるかもしれない。結果、花の失踪という事態が出来してしまう(音楽の石橋英子が三人の水くみの場面にメインテーマを用いていることについて「ああ濱口さんってやっぱり悪い人だなと安心しました」とパンフレットのインタビューで述べているのは、まさに慧眼である)。

黛と高橋—きれいごとのない世界の住人
元介護福祉士の黛は、前職で挫折あるいは行き詰まりを感じ、異業種の芸能プロダクションへ転職している。「わかりやすいクズ」に囲まれた労働環境は、きれいごとが存在しないからすっきりしているともうそぶく。

黛の上司に当たる高橋も、彼女にとっては「わかりやすいクズ」の一人だろう。実際に、説明会ではそのように描かれる。しかし後日、巧のもとへ向かう車中でのやり取りを通して、黛は高橋の抱える孤独(「さみしい」がゆえの婚活)と行き詰まり(かつて役者志望でありながら裏方となり、今は畑違いのグランピング企画をやらされている)を垣間見る。

一方で車中という密室で声を荒げられたり、「社内転職してグランピング場の管理人になる」という思いつきをうどん店で巧にぶつけるといった、高橋の軽率かつ軽薄な面にいささか閉口しているようにも見える。かと思えば、「黛、もう辞めたら?」の言葉の真摯さは彼女の心を動かしもし、「(このグランピング場の仕事が)最後の仕事になりますから」という言動につながる。

高橋という人物は、初登場の説明会の場面では、あからさまに不勉強でいいかげんな男として描かれる。その一方で、住民に対して強硬な態度に徹しきれない人間味を見せもする。
先述の巧とのやり取りの嚙み合わなさ、説明会での立樹との衝突と不器用な謝罪、うどん店で「体があったまりました」と言って峯村和夫に「それ、味じゃないですよね」と冷や水を浴びせられる場面など、美点ともいえなくもない率直さが「底の浅さ」や「おかしみ」へ変換されてしまうのが、この人物の抱える地獄であろう。

黛と高橋の車中の会話でキーとなるのは、「前職で病んでいたこと」(黛)と「コロナで病みそうになったこと」(高橋)をお互いに開示することだろう。ここでも濱口の脚本は冴え渡る。

黛、お前、うちに来る前に何してたんだっけ?」

「あれ、俺の過去、言ってなかったっけ?」

高橋の発言は、「以前に聞いてたよね? 話したよね? でもお互いに忘れているよね」という前提からなされているが、おそらくは初めてお互いの深い部分におそるおそる踏み込んでいる。そして、それを促したのは、説明会での巧の朴訥ながら真摯な、あるいは異様な迫力に満ちた発言や態度であった。

この二人にしたところで、常であれば「変人」と一線を引く巧の言動が響くはずもない。しかし、社長やコンサルのあまりにも理のない発言や態度が、高橋と黛を「こいつらとは違うんだ」という立ち位置に導く。高橋はオンライン・ミーティングを中座してモニターから姿を消し、そそくさと退出しようとするコンサルを一顧だにしない。「便利屋を管理人にしては?」という思いつきに盲目的に従わざるをえないながらも、彼らにくみしたくないという判断が働いてもいる。しかし、この時点では、それはあくまで相対的でうすっぺらな反抗心にすぎない。

本作の舞台である架空の町・水挽(みずびき)町は、説明会で発言した住人によると、住宅街と別荘地によって成り、観光地でもなく特筆すべき産業もない。また、巧が説明会で明かしたように、元々が戦後、国から開拓民に与えられた土地であり、巧自身が開拓三世という「よそ者」でもある。そこに住む者すべてが土着というほどのバックグラウンドを持たず、かといって過疎に苦しむといったそぶりも見えず、ひっそりと自己完結している。そのため、高橋が虚しく主張した「グランピング場は観光資源となり、地元にお金を落とす」という言葉は、その場にいた誰の胸にも届かない。

高橋と黛にとって非当事者である立場は、社長の命に従って「わかりやすいクズ」としてふるまうことの免罪符になっていた。しかし説明会で思いもかけず「この町でともに生きていこう」という逆提案が持ち込まれたことで、当事者としての想像力と現実感が強制的に立ち上げられてしまう。高橋が車中で言っていた「今マッチングした女性と所帯を持ち、グランピング場の管理人として生きていこう」という思いつきはあまりにも唐突だが、じつは「当事者となれ」という要請を受けた彼にとって最適解なのである。

高橋がうどん店でその思いつきを巧に吐露したとき、隣にいた黛は「え? さっき車の中で言ってたのって、冗談じゃなかったの?」としか思えなかっただろう。だが、巧にとってはどうだろうか。高橋がコミュニティーの一員となる。物理的に自分の「上流」に立つ者となる。自身は「アドバイザー」としてさまざまな局面で情報の開示やコミュニケーションを求められることになる。

説明会で巧は高橋と黛に向けて、「すべてはバランスだ」「もう一度(対話を)やろう」と言った。その発言自体は圧倒的に正しい。駿河がその後を継いで「巧の言ったことに尽きるんだが」と前置きしたくらい正しい。しかし、極度に緊張した人間関係において、「正しさ」は正しく機能するのだろうか。

上述のように、巧、花、高橋、黛の四人はそれぞれに緊張状態にあり、それぞれ個別の行き詰まりを感じている。たとえば黛の前職である介護の現場は、おそらく「正しさ」の原理の働きが強く、彼女を行き詰まりへと導いていったことは想像にたやすい。「正しさ」の裏返しが「わかりやすいクズ」の行いだとしたなら、社長やコンサルに盲従して事務的にプロジェクトを進めるのが、じつは「正解」だったのかもしれない。しかし、巧や駿河にほだされることで、黛も自らの意志で対話と協調へ一歩足を踏み出してしまう。

「時間の許すかぎりお話を聞かせてください」

結局、黛は前職と同じ「正しさ」にくみすることになる。

グランピング場はシカの通り道を侵犯する。それは「よそ者」と先住者のアナロジーだ。そして先住者である巧も、やはりよそ者でしかない。高橋と黛の二人が当事者になることで、巧は没我の時間を持てる生活を脅かされる。極度な緊張に満ちた巧と花の生活は、「バランスをとったり」「対話をしたり」するために他者の介入を許すことで、容易に崩壊の一途を辿ることになる。

花の失踪は事態を急展開させたが、たとえこの事件がなくても結果は同じである。徐々に「当事者」となっていく高橋を、巧は暴力的に排したであろう。
たしかに高橋の「管理人になりたい」とか、「薪割りがこの10年で一番気持ちよかった」とか、水くみを手伝ってそのまま町にしばらくとどまると言い出すだとかは、彼の「行き詰まり」に対しての、にわかな変革の試みにすぎない。しかし、高橋は底は浅くとも悪人ではない。シカを追いやる者も悪ではない。ただ同じ場を共有できないだけだ。野生のシカと人は触れ合うことはできない。よって、シカの居場所は人の居場所に置き換わる。ただそれだけのことだ。グランピング場に通り道を奪われ、どこか別の場所に移らざるをえないシカは、巧の姿そのものだ。そのことに、巧は静かに気づく。

本作では森を歩いたり、薪を割ったり、水をくんだりという静的なシーンと、説明会の前々夜、説明会当日、高橋と黛の会社および車中、うどん店での会食など、対話によって一気に時間が動き出すようなアクティブなシーンが折り重ねられている。

ふつう、我々はコミュニケーションを通して、自己を表現し、他者を理解する。主張が違えば妥協点を見出すことで問題を解決していく。コミュニケーションは基本的に「善」である。しかし、本当にそうなのだろうか。ある種の緊張状態にある者は、その人自身の本音に近いところにいる。コミュニケーションはその本音をねじ曲げもする。

多様な意見を表出したうえでバランスをとり、コンセンサスに至る−−。本作がいじわるなのは、コミュニケーションが有する自明な善性に対して価値の転倒を試みることだ。
妻あるいは母を失い、時が止まったような生活を送る巧と花。どう見ても理がないグランピング計画を言われるがままに推し進める高橋と黛。じつはここにこそ、四人にとって刹那的ではあるが心の平穏が確かに存在する。しかし「コミュニケーションは善」という一般論は、その表層的な心の平穏と奥底にある本音を脅かしてしまう。
悪は存在しない。なぜならコミュニケーションは善だからだ。会話や対話がもたらす静かな暴力の発露を、本作のラストシーンは美しく描いている。

追記(2024/07/02)
本作のレビューでは程度の大小はあるものの、「自然VS.人間(文明)」の対立軸が持ち込まれることが少なくなくないようだ。とくにグランピング場に居場所を追われるシカ、半矢(はんや。手負い)のシカが放つとされる暴力性を象徴としてとらえ、ラストでの巧の行動へ直結されている。
しかし、本作でそんな「もののけ姫」のような聖なる自然が描かれているだろうか。少なくともグランピング場計画に対する反発としては、わき水の汚染、山火事、都会のストレスを抱えた客の傍若無人なふるまい、くらいのものだ。それくらい、このグランピング場計画はしょぼい。

もう一度、グランピング計画の説明会場面に立ち戻ろう。
最初に浄化槽の排水による汚染に懸念を示したのは、うどん店の峯村和夫である。彼は浄化槽の処理能力について質問し、フル稼働したら汚染が生じるのでは? と髙橋に疑問を向ける。さらに、「おたくも商売なのだから、フル稼働を目指しますよね?」と2回(たしか)確認する。これに対し、髙橋は明確な回答をしない。なぜならば誰一人、本計画に真剣に取り組んでいる者がいないからだ。おそらくは芸能プロ社長がコンサルの「こうすればコロナの助成金が出ますよ」、という提案に乗せられただけだ。高橋、黛はその片棒を担わされており、すくなくとも説明会時点では本計画が抱えているずさんさに気づくだけの勉強もしていない。

コンサルも社長も、髙橋も黛も、無駄なことは一切しない。そんな彼らがグランピング場をつくって、そんなところに客が本当に来るのだろうか(「本当にわからないんだ」)。
何が言いたいかというと、グランピング場がフル稼働しなければ、排水も最低限に抑えられ、わき水の汚染の心配はないかもしれない、ということだ。

グランピング場計画が真剣なものなら、「自然VS.人間(文明)」の構図も成り立つだろう。しかし、計画や計画にたずさわる人間がいいかげんなら、自然はびくともしない。つまり本作はあくまで人間の「いいかげんさ」がトリガーとなってある種の緊張状態が破られることを描く、非常にヒューマンスケールな作品なのである。


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