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もしも「スクール・カースト」が間違っていないとしたら(中国への道⑨)

以前、川崎大助という方の記事を興味深く読んだ。https://gendai.media/articles/-/58023?page=1&imp=0

この記事で、氏はアメリカの学校における生徒間の力関係の構造図について、こう書かれていた。

「ヒエラルキー」の上位には、フットボール・チームの男子とチアリーダーの女子がいる(ちなみに「スクール・カースト」という言葉も日本人が考えた悪質なカタカナ語だ。「カースト」のように先天的に固定化した序列がアメリカの学校内にあるわけがない。流動的な「ヒエラルキー」があるだけだ)。

実に正論であり、だから私も(悪質かはともかく、間違ったカタカナ語なんだろうなあ)と思っていた。

しかし——大根やキャベツなどで膨らんだリュックを背負い、自転車をこいで坂道を上っていた私は改めて思った。

(日本でも「ヒエラルキー」という言葉はそこまでマイナーなわけではない。では、もしかしたら「スクール・カースト」という言葉は、日本では字義通りに使われているのではないか)

川崎氏のご指摘通り、ヒエラルキーは「流動的」であるからかろうじて下剋上の可能性もあるが、カーストにはない。カーストとは同様に氏のご指摘通り「先天的に固定化した序列」——つまり、生まれながらに上とされる連中が生まれながらに下とされる連中を支配し、一方的に絶望と犠牲を強いるものだ。

(インドでカーストを成立せしめている核にはヒンズー教があるのだろうが、日本の学校では何を核にすればスクール・カーストを成立せしめることができるか)

買い物帰りの山道、延々と続く上り坂を進みながら、
(「スクール・カースト」は何によって可能になるか)
私は現実逃避がてら論考をつづけた。
そして、資本主義の宗教を思い出した。
(——拝金教だ)
といっても、圧倒的多数の生徒は親がかりなわけで、だからその生徒のいわゆる「家」が金持ちか貧乏かということで、学校におけるカーストが決定されるのではないか(*この説にしても、いきなり裕福な家が零落する、あるいは貧乏な家が一発逆転を果たす可能性はあるため、「カースト」のように絶対的なものとすることはできないが…まあ、それは置いておこう)。

その生徒本人がどうかではなく、その「家」の貧富で階層が固定されると考えると、これは確かに「スクール・カースト」だ。このカースト内においては、ヒエラルキー内のような下剋上の可能性——もっと簡単に言えば「何らかの能力などを発揮することにより得られるかもしれない上がり目」は無い。あえて強調のために漢字で表記し、また繰り返すが、無い。

たとえば、
「あいつ、足速いな」「でもあいつの家、貧乏だからな」
「あいつ、頭いいな」「でもあいつの家、貧乏だからな」
「あいつ、歌うまいな」「でもあいつの家、貧乏だからな」
という具合に、何ができても優れていても「でもあいつの家、貧乏だからな」で終わる(*ただし「見てくれの良さ」に関してはファックの対象としてカースト優遇を受けるかもしれないが、その扱いはかつての「名誉白人」みたいなものと考えることができるだろう)。

これがクソ狭い「学校」という空間の外でなら、
(見てろよ、このクソ野郎どもが)
と怒ることによって道を切り開くこともできるかもしれないが、学校にいる限りそのようなカーストに縛り付けられなければならないとしたら、これはもう下位カーストにとっては地獄以外のなにものでもない。

年々悪化の一途をたどる世相からしても(ありえるぞ、これは)と思われてならないが、どうか「日本人が考えた悪質なカタカナ語」か、あるいは間違いではあるが語感がいいから「スクール・カースト」という言葉が使われているというだけであってほしい。

まあ「(スクール・)ヒエラルキー」でもじゅうぶんにアレなのだが、それにしても「カースト」では、救いが、無い。

と、記してから気づいたのだが、
(もしや、今の日本のそれは「(スクール・)ヒエラルキー」と「スクール・カースト」のハイブリッド・ピラミッドなのでは——)
そうだとすれば、救いが無いよりさらにひどいということになる。

……中国ではどうなのだろう。

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