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歯医者には、無職になる前に(中国への道 ⑦/⓪)

2023年4月——
(働き先も決まったことだし)
中国渡航の前にと、私は軽い気持ちで歯医者を訪れた。
いかにも安心感のある初老の夫婦がそれぞれ先生で、女先生の方が歯の検診をおこなってくださった。私は中国での就職が決まったことや、どうにも歯医者が恐ろしくて約5年ぶりに訪れたことなどを軽薄なまでに軽い口調で伝えたが、しかしそれも歯医者の椅子に座ったリアルな恐怖をごまかすためだった。
女先生は穏やかに、
「5年前はどんな治療を?」
「左奥の下の歯を抜いてもらいました。手遅れの虫歯だということで」
「抜歯を…それはどこで」
「ベトナムです」
「ベトナム?」
「はい。当時はホーチミンで働いておりまして」
「へえ…それは外国で大変でしたね。でもホーチミンって都会ですよね。じゃあ日系のクリニックで——」
「いえ、『Indian British Viet-Nam』とかいう、わかるけどよくわからないクリニックでした」
「あらまあ……」
「よくわからないけど、まあ英語でやり取りできるだろうと踏みまして。さすがにベトナムローカルの歯医者さんは語学的に無理だろうと思ったんですが、それにしても日系は高いなあとも思っていましたので」

——私自身の英語の拙さもありひやひやしたが、鼻歌交じりに治療されたことと、助手だかは知らないが傍らの若い女性に術式を解説しながら私の口の中を覗き込ませたこと以外はいい先生だった。——

などとヨタを飛ばすうちに私はすっかりリラックスし、
(なんだか激烈に痛いが、まあ歯の痛みは独特だからな)
大口を開けてそんなことを思いつつ、女先生の検診が終わるのを耐えながらに待った。

【診断結果】
① 虫歯治療の必要アリ⇒9か所
② 歯周病が絶賛進行中。放置すれば歯が抜け落ちて終わる。 

心底から震えあがりながらも、ともかく私は健康保険の有効期間中に治療の予約を詰め倒した。無職は目前に迫っており、よって以降の私の歯医者通いは皆勤賞レベルの頻度となった。

結局、歯の治療に実費で3万円ほどかかることとなった(*無保険なら10万円超)。

正直きつい出費だったが、虫歯治療のみならず【正しい歯磨きの方法】も指導いただけたし、【歯間ブラシの重要性】も痛感レベルで理解できた——私の購入した歯間ブラシはドラッグストアで売られていたうちで最も太いMサイズであり、のちに口の悪い女友だちから「オメーの歯茎はとんだガバガバのビッチだよ!」と揶揄されるハメになった。

最終日。忘れもしない4月26日——
私は先生方に心からお礼を述べ、歯医者のみで購入可能な高品質・廉価な歯ブラシを2年分と、それに歯肉炎予防のコンクールをお守り代わりに購入した。
「おかげさまで、これで安心して中国に発つことができます」
「頑張ってくださいね」
「ありがとうございます! これからは3か月に1回は必ず歯の定期検診を受けるようにします」
晴れやかに宣言した私に、女先生はうなずいた。
「前も言いましたけど、中国から歯の定期検診を受けに来るお客さんが多いですから、あっちでは日系のクリニックに通うようにしてくださいね」
「はい! カネより歯を優先します。必ず7月に受けます」


そして今——
私は中国ではなく、なぜだか兵庫県は丹波篠山の奥深くでこの文章を書いている。
7月の定期検診も、日系でもなんでもない純然たる日本のクリニックにて受けることになるのだろう。
窓の外では雨がしとしとと降っている。
寺の鐘の音も聞こえてきた。
19時だ。
そろそろ夕食の準備をしよう。
無職である。

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