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静かに、ずしんと胸にくる ~ネヴィル・シュート『渚にて 人類最後の日』

 確実に近づいてくる「その日」に向けて、ひとりひとりがどう生きるのか。その姿を淡々と、オーストラリアの美しい情景とともに描きながら、放射能によって地上の動物を死滅させる(ことができる科学力を持ってしまった)人類の罪を問う名作です。

ネヴィル・シュート『渚にて 人類最後の日』(佐藤龍雄・訳 東京創元社)

 1957年に書かれた作品で、1959年にはグレゴリー・ペック主演で映画化もされました。日本でも何度か翻訳が出版されてきましたが、私は2009年に新訳で出た、上記の【新版】ではじめて読みました。
 すごくいい作品でした。

 舞台は第3次世界大戦の終結後。核爆弾の使用によって、戦争は短期間で終わったものの、北半球の国々は放射能のせいで死滅してしまった。かろうじて難を逃れたアメリカの潜水艦〈スコーピオン〉は、まだ人類が生きのびているオーストラリアにたどりつく。しかし、北半球に満ちた放射能はじわじわと南下し、数か月後にはオーストラリア全土を覆うことがわかっている。地上に逃げ場はない。やがて、みんな死ぬ。その日まで、人びとはどう生きるのか――。
〈スコーピオン〉の艦長と、オーストラリア海軍の男、その家族と友人の女性を中心に、それぞれの日々と心情が丁寧に描かれていきます。

 終末もののSFですが、メルボルン周辺の牧歌的な風景や、海の青さ、光と緑の美しさが印象に残ります。スリルやパニックなどはさほど盛り込まれず、むしろ、淡々と生きる人々が描かれるからこそ、静かな日常に、目に見えない放射能が音もなく忍び寄ってくることのおそろしさが伝わってきます。

 物語の中盤で〈スコーピオン〉が北半球の調査へ出かけ、アメリカの沿岸に寄るシーンがあります。
 街は何も変わっていないのに、生きものだけがいない。人間だけでなく、鳥も獣も、みんな死んでいる。人間が起こした戦争で。
 その罪深さが胸に刺さりました。

 終盤では、ある人物から、次のような趣旨の疑問が提示されます。
 北半球の人たちが勝手にやった戦争で、どうして私たちまで?
 けれども、放射能に国境はありません。それを現代の問題に置き換えれば、環境汚染にも国境はないのだとあらためて思わされます。

 オゾン層の破壊、地球温暖化、海洋プラスチックなど、現代では核戦争以外にも地球の生命の存続をおびやかす問題が多々。
 SDGsへの関心が高まる今の時代にも、心に響く作品です。

 そして、ひとりの書き手として、私はこんなことも感じました。
 生物が存在できなくなった街の様子、つまり、人間が見ることができない光景を、ありありと読ませてくれる。これが小説の力だなあ、と。
 それは、小説というものが負う役割のひとつなのかもしれません。

◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、
scoop kawamuraさんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございます。

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