日本の古代の近さと祖先の身近さ
漢文の素読
明治期では教育の現場で漢文の素読は必須だった、と言われていて、福沢諭吉や夏目漱石等は素読教育を受けていたそうですが、芥川龍之介はこれを経験していないので、この時期に教育とリテラシーの乖離、格差が生じたといわれています。
個人的にも、古本屋で昭和初期に翻訳されたベルクソンなどが100円くらいで売られているのをみかけて買ってきたものの、漢字が読めず、放置したまま、という経験もあって、どんどん識字能力を落とされているなあと思います。
ヨーロッパの古代の遠さ
かなり前からヨーロッパでもラテン語が必須ではなくなり、リテラシーの低下を危ぶむ声があがっていましたが、研究者になるのでなければ「古語」は必要ない、と考える人は増えていると思います。それでも古典を知っていることの意義を認識している人は多く、教養といえば「古典」を学んでいること、という共通認識がなくなることもないだろうと思います。
福田和也はラテン語を含めて「言語の骨格から違っている」と言いますが、イタリア語、スペイン語そしてフランス語もラテン語系の言葉ですので他の言語と比較するとその近似は明らかで、特にイタリア語、スペイン語はラテン語とかなり近いです。
ただし、ここでは「古典が教育の眼目とされてきた」点にフォーカスして古典を学ぶ意義をみていきたいと思います。
この認識が正しいとしたら、日本とは少し異なる状況ではないかと感じます。たしかに日本でも古典は必須ではなくなり、識字率を落とされる教育がすすめられていますが、遠く、無縁なものという認識はないのではないでしょうか。日本で古代、中世を遠く、無縁なものとは感じていない、ということを福田和也も述べています。
先祖のおまつりと神話
私たちの古代からつながっている、この一貫性はどのようにして生まれ現在までつづいているのでしょう。
私たちはなくなった自分たちの祖先を身近に感じて生活しています。
お盆やお彼岸など、祖先を家に迎えてともに過ごす機会が何度もあります。
このような生活を私たちたずっとつづけていて、いつも「子孫を見守ってくれている」という感覚は「祖霊」という言葉の意味にも残されています。
またお祭りについては次のような話もあります。
神社の日々のお祭りは
"神話の再現"と言っていい。
例えば、
宮中の新嘗祭では
御神霊のこもった新穀を、
采女が神前に供えます。
これはアマテラス大神が
ニニギの命に斎庭の稲穂を
授けられた場面を再現しているのでしょう。松浦光修
神話は歴史と区別するような”教育”が一般化していますが、クレタ島の王ミノスや、トロイ戦争のアガメムノン王は、ギリシア神詰のゼウスの子孫とされていますし、また古代ゲルマンでも王の家系は神様とつながっていたとされています。このように神話が現在の実在する王家につながっている状況は日本だけではないのです。
日常において、いつも祖先とともに暮らしている感覚は、私たちに祖先の感性や想いといったものを変わらず、同じものである、という認識を醸成し続けているのではないでしょうか。
万葉集の率直と寛容
さて、教養脳 『万葉集』で福田和也が万葉集から取り上げている歌がいくつかあるのですが、その中の一首に次のようなものがあります。
遠妻と手枕交へて寝たる夜は鶏がねな鳴き明けば明けぬとも
なかなか会えない妻、というのはどういう状況なのかとちょっと考えてしまいますが、地方へ赴任した官吏とかなのでしょうか。
追記:画像は以下のWikipediaのものを使用しています。
追記2:万葉集ナビ
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