見出し画像

1−4 鮮血


個展『始まりに帰る終わりに告げる』黒瀬花春の作品は、基本的に絵画、彫刻、文章、この三点に絞られる。寸分単位で刻まれた所定位置に、最新の注意を払って作品を拵えていく。この作業が最も精神を疲弊する、一点何十万何百万するか分からない、このプレッシャーに耐えかねてリタイアする若手は多い。私の取り柄は汗を掻かないこと、信頼に足る体幹を兼ね備えてることにある。

作業はものの五時間で終了した。馴染み無い人間には途方も無い時間に感じられるかもしれないが、この小屋の規模でこの速度は中々に無い。作業を終え外に出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

「早苗さん、よかったら夕食でもどうです?」
「喜んで」

個展の開催は明日から、その前夜気ままに飲み食いする余裕は無いはずだ。でも彼女から言い出したのだ、甘えて問題ないだろう。ほの暗い森を走るバスに揺られながら、私達二人は肩を並べ、静かな沈黙を味わっていた。黒瀬花春も疲れは溜まっていたのだろう、少し眠りこくっている。私は基本、家の外で眠る人間じゃ無い。窓の外を駆ける暗澹な木々の数々にシューベルトを感じながら、私は回想に耽る。

あの日、見知らぬ男が滴らせた赤はアスファルトが飢えていたのだろう、一分も経たない内に凝固してしまった。見上げると男はまるでモルモットを見るような目で私を見下ろしていた。この男は一体何者だろう、何故私が求めてるものが分かったのだ?何が目的で、私の何を知っている?尋ねる間もなく、男は歩み去ってしまった。

「ピカソは言った。日常の中、魂に堆積した塵を払ってくれるものがアートだと。その理論に則ると、今の貴女にとってこの血はアートなんだろう。原始的で元素的、無垢で普遍なアート……赤色ね、なるほど」

そんな訳の分からない言葉を残して。私の欲望は少し満たされていた。誰とも知らない男の垂らした唯一滴の赤によって……右肩に熱を感じる。気付けば黒瀬花春の頭が私の肩に凭れていた。凭れた瞬間に気付けなかったなんて、私は夢中になるといつもその他全てがシャットアウトされる。彼女は少し震えてもいたので、私は膝元に置いたストールを、彼女の身体に覆い被せた。……まるで子供のような寝顔だな、思った矢先だった。

一閃、伝った。赤黒い鮮血が、彼女の鼻からゆっくりと。右の鼻からだ、何故今、眠りこけながら、何の違和も無く溢れ出したのだろう。私はポッケに忍ばせたハンカチに手を伸ばす。そしてそのハンカチを右手に移し彼女の顎の下に添え、空いた左手でゆっくりと、静かに、赤子の腹を撫でるように、彼女の赤を拭った。

人差し指と中指に濡れた赤、親指でなぞると少しの粘度がある、そして温かい……。私は魂が震えるのを感じた。美しい。黒瀬花春、あなたの赤は美しい。この時私は生まれて初めての一目惚れ、というものを体験したのだ。欲情を覆い被す、無垢で真っ直ぐな純情な想い。黒瀬花春の赤に、私は恋をした。



前話          次話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?