1−2 蠱惑
『睡蓮』モネと言えば誰もが思い浮かべるこの絵画。駄作だ。『日傘をさした女』これも駄作。モネの手腕が真に冴え渡るのは赤だ。シヴェルニー並木道、ひなげしのアルジャントゥイユ、日本の橋……学生時代、美術館で体感した何とも言えぬ高揚感、セクシュアルなインパスト、震える足取り、釘付けの眼……私はまだ知らなかった。その感覚は欲情だ。
「お母さん、残念だったね」
「いえ、ご心配おかけしました」
禿散らかした上司の頭皮、塗りたくってやりたくなる。赤を、ドロリとした蠱惑的な赤を。眼鏡越しの乾いた下瞼、良いカンバスになりそうだ、そんな想いの帆先、男は申し訳なさそうに言った。
「悪いね、代わり賄えなくて」
「いえ、もう大丈夫です。ありがとうございました」
私はその足で電車を乗り継ぎ……東京郊外、小さなアートスペースに向かった。人気の無い駅を降りて簡素な住宅街を抜け、バスを乗り継ぐこと20分、森林の残光に佇む真っ白な正方形。入り口で私を出迎えたのは、恐らく眼鏡の似合う30代半ばの女性……恐らくというのは、およそ彼女が容姿に不釣り合いな黒いツナギ姿をしていたから。自己紹介は私から。
「はじめまして、ノーヴス・アーフの柿崎です」
「どうも、黒瀬花春です」
「柿崎早苗です。田代がお世話になっております」
田代、というのが禿の名前だ。フルネームで名乗るのが彼女の礼儀らしい。花春、それが彼女の強固なアイデンティティの証明ということか。少し頑固で、融通が利かなそう、それでいて表面的な態度は柔らかだ。馬鹿な男はコレにコロコロやられてるんだろう。彼女はまるで酒焼けしたような、濁りがある声でゆったり語った。
「業者が遅れてるみたいなんです。先に内装の説明よろしいですか」
「はい、間取りは入ってますので、簡潔にどうぞ」
私の仕事は主に編集業、時に限り美術館の設営、それが今日。金銭的な問題から大手業者に委託できない個人、アートチームが催す中小規模の展覧会の内装を設営する。美術を扱うには繊細さと正確さが同時に求められる。割と力仕事でもあるので、多少の筋力も。職場の割合は大半が男、女性は私一人。なので仕事は必然と回ってくる。助平な男が多いのは勿論だが、美術家の中には極端に男性を嫌う女性も少なくない。黒瀬花春、彼女もその一人だ。
私たちは歩き出す。欲情の足取りは軽快だ。真っ赤な欲望は狂騒を孕んだ摩擦の中で恍惚に爆ぜる、何故だろう、私はそんな未来を知っている気がした。
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