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ノートを使い終わる今、思うこと

去年の10月末、3泊4日で札幌へ行った時に購入したノートには、このnoteで書くメモを細々と残してきた。決して人に見せられるものではなく、家でも出先でもての届く場所に無意識に置いておくほど、無くてはならいものだ。紙の表紙は捲れ上がり、カラフルなイラストは少しだけ褪せて使い込んだ感じが出ている。そしてもう直ぐで最終ページへ辿り着くその様を見ると、1年間よく頑張ってくれたな、と感慨深い。

大体のことがハッピーな出来事ではないし、日によってその時々の私を写し出しているかのように文字のサイズも筆跡すらもバラバラだ。言葉使いも雑だし読み返すと苦しくなる内容も多い。

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子供の頃、夏休みの宿題として出されていた「日記」が大嫌いだった。大体1日楽しく過ごしたのに、夜にわざわざ振り返りながら、先生に漢字誤りが指摘されないように書くそれは最早ただの罰ゲームでしかなく、作業と化した行為だったように思う。「今日は外で遊んだ。暑かった。楽しかった」みたいな感情も何もない作業。

それが不思議なことにいつからか、自身を整える大切な時間に変化してしまうのだから大人になるって凄い。感覚としては一人二役。ネガティブを吐き出す私と、それをフラットに戻そうとする私の会話のような日記。それは本当は苦しい時に、誰かにかけて欲しかった言葉を自分で自分に言ってあげる場所でもある。そして自分のためだけに続けてきたこの習慣で得た考え方や言葉のチョイスを、いつからか誰かに伝えられるようになっていた。それが1番の収穫なのだろう。

勿論相手にとっては生温い言葉かもしれないし、心情ウザがられているかもしれない。世の中に溢れるたくさんの言葉は多くの人を癒し包み込むけれど、デバイスから得るものではなく、知り合い・リアルな人間からの言葉ほど、お節介で重苦しい愛情はないと思っているから、むしろウザがられたり何かを感じ取ってくれれば満足だ。


相変わらず語彙力が無く、不器用な角張った言葉ばかりだけど、どれも本音だ。

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さぁ次のノートを探しに行こう。


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