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そもそも感情がないと幸せになるきっかけもないのでは?と思ってしまう

週末、高校時代の先輩の結婚式があります。結婚式フィーバーが起こっているけど私はこのイベント、ドキドキします。友人や後輩としての立場からの結婚式って勿論素敵な新郎新婦を祝うことが最大の喜びだけどそれだけじゃなくて、普段会える人だけじゃなくて、会えない人にも再開できるチャンスだから好きなイベント。

私は高校時代バスケ部の先輩達に良くしてもらっていて(私はバスケ全く出来ないしルールも分かっていない)、当時は試合を見に行ったり、お昼を渡り廊下で一緒に食べたり、カラオケ行ったり、大人になってからは飲みに連れて行ってもらって話を聞いてもらったり、可愛らしい先輩たちが今でも好きです。

正直遡っていくと当時の記憶ってぼんやりとしていて、場面は思い出せるけどエピソードは不明確なことが多いです。だから思い出話に花咲かせる自信は全くありません。でもそれって今回に限ったことじゃなくて、いつだって遠い記憶は薄れていくのがどうしてもの話でした。

「今、集中タイプ」の私は、”今ある時間”や”今いる人”のことが何より最優先で、それ以外はどんどん失うことはしょうがないと割り切ってきました。”今”の中でいかに満足してハッピーでいるかを重視してきたけど、それも少しずつ変化してるのも事実。ここ最近のあまりに色濃い時間が私の考え方が変わったようで、大切な記憶はやっぱり忘れたくないな、と。

確実に良い時間だったなっていうのはこれからの自身の選択の幅になると思いました。「あぁいうことがあったから今の私はこれを選択できる」と言ったように生かすことができるし、私の性格を形成してくれた人達に何か言われても「指摘されて直せてレベルアップできた」くらいに進化していきたい。そして自信が無くなった時、私の良いところを教えてくれた人の言葉を思い出すでしょう。

まぁ記憶に沼ってしまいすぎては、停滞してしまうだけだけど、バッサバッサと全て切ってしまうのではなく、「経験」という仕切りの中に過去を残すことには罪はないのかな、と。最近考えが善悪だけじゃなく、丸くなりました。


先輩達につい最近、上記のような話をしたら、「しいなは自分が良いと思った方向にストレートにしか進めないから、たまには人に流されてみてもいいんじゃない?」と言われたことを思い出しました。いつも自分の選択肢に自信がなくて、人に甘えたくてでも甘えられない私は、やたらと強くいようと「これをする!」と決めたら周囲に宣言までして後を断つ方法を取ってきました。善悪判断も「これが正しい」と思って離れるものは追わず思い出さずを貫いてきてしまいました。

直進でしか進めず結局苦しむことを繰り返してきたけど、人の流れに身を任せるという選択肢が、今は難しく捉えられる問題であっても5年後、10年後には良い選択だったって思える日が来るのでしょうか。例えば将来や安定だけを考えて結婚をすること、例えば何故か上から目線で妥協して人付き合いをしてしまうこと、まぁ結局悩みはそこなんです。そんなことしたくないと思っているのに、27歳というリアルな年齢は時間の焦りを感じます。それとも、やっぱり直進を続けて完璧に挫折するまで気持ちを大事にした方がいいのでしょうか。永遠にわからない課題だけど、今は後者の気持ちであり、決して手放してはいけないことだと思っています。

感情論だけでは幸せになれないことはもう分かっているけれど、そもそも感情がないと幸せになるきっかけもないのでは?というのが今の私の本音です。そんなこんなで、結婚式が続きますが「自分にとって最善の選択ってなんなんだろう」をもう少し考えヒントを得ながら、納得した選択ができるように、とりあえず結婚式楽しんできます!!


明日は少し早起きをして、ライセンスを取得できる場所をリサーチ予定。いよいよ私の新たなる趣味の幕開けの匂い。これもきっと良い思い出としていつか思い出せるようになるのでしょう。あぁ生きていて楽しいな、と思います。おやすみなさい


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