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交通事故がきっかけで死を考えた

昨日、人生で初めて骨折をしまして。

軽い交通事故でしたが、左手首と親指付け根をポッキリと。幸い利き手ではないので、大きすぎる苦労はなく生活出来そうですが、なんだか程度の大小関わらず良くないことが続いていて、久しぶりに心も折れそうな夜を過ごしました。

今回、怪我をして分かったことが二つあります。

①人間よきせぬ事で、5秒後ですらどうなるか分からない、ということ。
②自分のことを本当に心配してくれる人がいる、ということ。

まず一つ目について。最近、ひすいこたろう著「あした死ぬかもよ? 人生最後の日に笑って死ねる27の質問」にて自分の中でワーケーションを行っていました。結構ズバリと、衝撃的な言葉でストレートに突き刺してくる物言いは、時には考えることが苦しくなって、もう読むのが嫌になって何度も本を閉じたけど、その作業のおかげで自身の「死」についても考えていたところで今回の事故に遭いました。自分は信号機通り、言えば常識の行動をしていても、勝手に巻き込まれたという経験は、大きな恐怖を私に植え付けました。

生まれた感情は恐怖だけではなく。恐怖と無念さと欲でした。

「あ、こうして人って死ぬことってあるんだ」、それは時間の現実味を理解した瞬間でもあり、自分がしたいことを出来ないまま死ぬ事への残念さ、そして大切な人に「さようなら」も「ありがとう」ももっと伝えたいという欲。当然のことながら時間は有限だということ、そして自分の思い通りでは幕を引けないということを、体感しました。

痛みと同時に思い浮かべた後悔は何かというと、色々なことに挑戦していくら「満足」を口にしていても、実は挑戦する前から諦めていることや見て見ぬ振りしていることがあり、それが心残りとして頭にすぐに浮かんだのです。「できるはずの努力を怠ってきたこと」、私にとってそれがきっと何より嫌いで未練になるんだと思いました。


もう一つ。LINEで「骨折った」の一言、それだけで血相変えて電話をかけてきてくれるような、大切に思ってくれる人がいるということの心強さでした。自分が大切にしたいと思っている人に同じようなことが起きたら、私もきっと同じような行動をとってしまうと思います。心配だし声聞きたいし慰めてあげたいし、できることがあればしてあげたいし、まず会いたい。その行動を私にしてくれる人の存在の温かさに気がつきました。その人はアップルウォッチをしていて常に連絡が目に見える状態の人で、放置することなく、私の「恐怖」を察知し、物理的ではないけど心が近い距離にすぐにきてくれました。大型犬、泣いて電話かけてくれてありがとう。

気がついているのに放置されることや、どこか鈍感なところ、普段どれだけ愛の言葉を注がれても次にまわされること。それは私を傷つけました。今まで自分が「大切にしたい!ラブ!」な人を追いかけ続けていましたが、自分が追いかけられる立場と気が付いてようやく、人として大切なことを知った気がします。

側から見れば泥臭いかもしれないけど、人として格好良い人でいたい。

私はやっぱり、曲がった事をして生きていきたくない。自分の都合だけで人を選別するような事はしたくないし、そんな神様みたいなことをするなら別に後で自分が傷つく方がマシだと思う。そもそも傷つくことを恐れてないのがきっと自分の強みであって、目の前にいる人を信じていたいし、笑い合える努力をしたい。苦しそうな時はそばで力になりたい。言葉よりも行動で伝えられる人になりたい。こうして大切にしてくれる人を大切にしなくちゃいけない。


今回、確かに心と体が傷ついてしまったけど、改めて自分の軸を作る時間を得て、譲りたくないことを固められたことは、今の私には良いことだったと言い聞かせて、完治まで約3ヶ月間、初めての骨折生活を、骨折してても楽しく過ごそうとおもいます。


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