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誰かの言葉なのか、自分の考えなのか。

あまり「苦手な人」ができない性格だ。それでも「大切」と言えるほどの関係を一緒に築き上げられる人も多くはない。つまり私は好き嫌いがないというわけではなく、好きとも嫌いとも自分の中のレーダーが鈍く反応しづらい、ただの鈍感野郎だいうこと。

それでも知り合い仲良くなりたい!と思う人達には共通点がある。それは何かに対して真面目な人だ。仕事でも趣味でも恋愛でも家庭でも、複数欲張らなくていい。1つだけでいいから全力で動ける人、曖昧な形ではなく全力で走り全力で呼吸を整え全力でまた走れる人。振り返るとそんな人達に私は魅力を感じ、自分から声をかけにいくことが多かったような気がする。


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彼らから話を聞くと、自分の幼さや足りない物がはっきりと明示される。彼らはオブラートに包んだ優しい物言いはしないし、遠回りせず最短距離で私の弱点を教えてくれるからそれは時として、正直すぎて残酷なものだけれど、誰も今まで言ってくれなかった言葉を言ってくれる人ほど絶対的に優しく格好良いのだ。だからこそ信頼もしている。ちなみに一番興味があるのは全力でまた走るための過程だ。どうしてそこで諦めなかったのか、何がモチベーションなのか、そう言ったものを聞くのが大好きだ。


そんな彼らのエピソードをたくさん吸収し、彼らの感覚を少しづつ盗んできた私はたまに、自分の考えが本当に自分のものなのかが分からなくなる瞬間がある。「あれ?この言葉は前に誰かから聞いた言葉?それとも私の感情?」と何がなんなのか分からない。そんな言葉は決まって手帳に記録している。

このnoteでも述べたように、私はありきたりなエッセイ本が得意ではない。読んだことがあるような言葉ばかりを、さも自分が考え抜き吐き出したものだと主張されているような気がして退屈と思ってしまう。でもそれは自分の中でも十分起こりうることで。自分の考えのようで、でもそれは人の言葉にも感じる。それに気がついた時「まだまだ弱いな」と感じる。自分の考え方を強くしたいために、多くの人から学びを得ているけれど、それに流されてしまうようならその意味はきっとない。だから弱さを感じた時はとにかく自分だけの手帳に記録する。そして記憶を掘り起こし、どういうタイミングでそのことを思ったのか考え直す。


多分これは中学生くらいからの癖。私はお人好しではない。疑い深い人間で、それは自分に対してが一番顕著だから昔からこの不思議な感覚の中で考えて過ごしてきた。とても生活しにくい性格だけどそれと向き合っていくことがこの先も変わらず大きな課題なのだと思っている。

人の考えそのものなのか、人に共感して得た考えなのか、それとも自分が本当に感じたことなのか。見極めることは難しい。でもきっと簡単だったらつまらないことなのだろう。



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