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アンティークコインの世界 〜研究テーマを設けよう〜

アンティークコインを手に入れたら眺めているだけでも十分だが、自分なりの研究テーマを設けると面白いかもしれない。投資に利用するにしても、知識があると説得力につながるから、結果それが顧客の購買意欲を促進する。コインについてよく知っておくことに損はないだろう。

私の研究テーマはローマ帝国下のエジプト属州貨である。個々の意匠がなぜ採用されたのか、そもそも描かれているものは何なのかを追求している。例として、私が現在研究しているコインを挙げよう。

どちらもハドリアヌスの治世にエジプトで発行されたもので、図像がとても興味深い。1枚目は聖牛アピス、2枚目は英雄トリプトレモスを表している。どちらも研究者によって分類番号が付けられているが、図像や発行の経緯については述べられていない。


まずはアピスの方から。そもそもどうしてアピスを刻んだのか?アピスは複数の身体的特徴を持った特別な牛で、古代エジプト人はそうした牛を「へプゥ」と呼んで神聖視していた。アピスというのはギリシア人による呼称だが、現在ではこの名で呼ばれることが定着している。

アピスは黒い体毛の牡牛だが、頭部に3つの白い斑点があり、背中には翼のような模様があったそうだ。そして、舌の裏側にはスカラベに似た模様があり、尾っぽは2本にわかれていたという。こうした牛を聖牛として崇め、神殿で大事に飼育していた痕跡が確認されている。

ちょうどハドリアヌスの治世に長らく不在だったこのアピスが発見された。それでエジプト中が大騒ぎ。おめでたいことではあったのだが、いざ誰が飼育するのかで揉めごとが起きた。誰しもがアピスの恩恵を受けたいので、自らが飼育すると言い張った。

アピス登場のビックニュースとこのコインの発行時期はちょうど重なっている。だから私はこのコインがアピスの久しぶりの誕生を祝ってデザインされたものではないかと推測している。エジプトはこの時代ローマの支配下にあったが、属州のコインのデザインは、地元の人間の裁量に任されていたと考えられる。ローマは大帝国だから属州の数が多く、コインのデザインにまでいちいち政府が介入していられなかった。表面に皇帝の肖像を刻むというルールさえ守れば、デザインは概ね許可が通ったのかもしれない。このコインを発行させた人物は、エジプトの時事に敏感で、アピス登場の喜びをコインによって民衆に伝えようとしたのではないか。


そして、2枚目がトリプトレモスが描かれた4ドラクマ貨。銀含有率が50%を下回る低品位銀貨でビヨンとも呼ばれる。

このコインに描かれた意匠はトリプトレモスと研究者らに紹介されているが、違うものを表しているように思える。確かにトリプトレモスは豊穣の女神デメテルから蛇の戦車を授かったという神話があるので、蛇の戦車とともに表現されることが多い。その神話と他の考古資料を参考に、このコインの意匠はトリプトレモスと判断されたのだろう。だが、この蛇が頭部に戴く太陽の冠に注目してほしい。トリプトレモスが表された考古資料はくまなくチェックしたが、そうした表現がされた例は他にひとつも存在しなかった。そして、この太陽冠をかぶる蛇は、古代エジプトの伝統的な宗教表現のひとつである。「ウラエウス」と呼ばれるファラオを守護する蛇は、太陽の冠を戴く姿で太古から表現されてきた。ウラエウスと似たレネヌテトと呼ばれる豊穣の女神も同様の表現がなされる。

本貨では残念ながら戦車の搭乗者の頭部が見切れているが、類品を観察すると搭乗者は蛇の飾りを模した冠を戴いている。この蛇型記章を飾った冠もまた古代エジプトの伝統的な表現のひとつで、ファラオを象徴する冠である。こうしてアトリビュートを丁寧に洗い出していくと、トリプトレモスというよりはファラオを表現しているのではないか。

トラヤヌスなどのローマ皇帝をファラオの姿で表した壁画も遺されている。だからこのコインが治世中のハドリアヌスをファラオの姿で表現していたとしても何らおかしくはない。エジプトを征服したローマ皇帝はファラオの地位も兼任していることになっていた。ローマ皇帝はエジプトの伝統的な宗教の長でもあったわけだ。

クレオパトラの死を機にエジプトからファラオは消えた。だが、ファラオこそが世界の秩序と均衡を保つと古くから信じてきたエジプト人にとって、それはひどく受け入れ難いことだった。そうした民族的思想の配慮からローマ皇帝がファラオを兼任する形が採られた。エジプトは複雑な思想を持つことから皇帝領という特別枠に編入され、皇帝の許可なしに官人が立ち入り及び制度の変更ができないようになっていた。


以上、2枚のエジプト属州貨を紹介した。エジプト属州貨の裏面の意匠は、なぜかハドリアヌスの治世がヴァリエーションに富む。表面は皇帝の肖像を刻んだスタンダードなものだが、裏面にエジプトの伝統的デザインが採用されることが多い。ハドリアヌスに続くアントニヌス・ピウスの時代でも、エジプトらしい意匠が採られる。エジプト好きだったハドリアヌスとその思想をアントニヌス・ピウスの意向が反映されているのかもしれないが、属州のコインのデザインまで皇帝が監修していたとも考えにくい。この点もひとつの謎である。

コインをめぐる謎は無限にある。この記事を読んだあなたとともにコイン探偵ができたらと思う。一人では解決できないことも、みんなで力を合わせれば解決できる。コインの謎だって一緒ではないだろうか。謎を解き明かした後の世界が私は見てみたい。きっと世界は今と何も変わらず、日常が繰り返されるだけなのだろうが、それでも私たちの心はほんの少し前進しているのではないだろうか。

*表紙のコインはハドリアヌスの治世に発行された青銅貨で、ナイル川を神格化したネイロスを表している。ネイロスは古代エジプトから存在した伝統的なナイルの神ハピをローマ風にアレンジした神。膨よかな腹や花冠など、ハピの特徴を継承している。

To Be Continued...

Shelk 詩瑠久

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