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アンティークコインマニアックス コインで辿るフランス革命史

今回は、フランス革命期を中心にその前後に発行されたアンティークコインを眺めていく。実際に使われていたフランス本土発行の大型銀貨を主軸に、当時のフランスの歴史背景を紐解いていく。

近代フランスにおいて何と言っても大きな出来事は、やはりフランス革命だろう。フランス革命はフランス国内のみならず、世界中に多大な影響を与えていった。現在、日本で使われているメートル法もフランス革命の時代にフランスで考案されたもので、私たち日本人も彼らの影響とその恩恵を多いに受けている。そう考えると、時代も場所も遠いフランス革命が急に身近に思えてくるのではないだろうか。

ところで、フランス革命とはいつからいつまでの時代のことを指すのだろうか。研究者によってもその意見は分かれるが、近年の研究では、1789年の革命勃発から1804年のナポレオン1世の即位までを指す場合が多い。ナポレオンが革命を一時的に終息させたことが、この区分方法の主張である。1794年のロベスピエールの死を革命の終焉とする古典的な区分の他、1799年までの10年間をフランス革命とする考えもある。

いずれも後代の人間が勝手に区分しているだけであり、歴史とは本来途切れることなく帯状に連綿と続いているものなので、これが絶対的に正しいという明確な答えはそもそもない。だが、研究者によって区分の意見が分かれるということは、ひとつ知っていてもいいかもしれない。とはいえ、実際はこの時代の後もフランスでは何度も革命が起き、王政と共和政が幾度も繰り返された。最終的にフランスが共和国として落ち着くのは、ナポレオン3世が退位して第二帝政が終わる1870年まで待つこととなる。

さて、近代のフランスを支えた王朝は、ブルボン朝、ボナパルト朝、オルレアン朝の大きく分けて3つである。ブルボン朝は、約250年間続いた王朝である。アンリ4世から始まり 、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世と7人の王が続いた。

この7名の中にルイ17世がいない疑問に思った人もいるだろう。だが、ルイ17世は実質上の欠番扱いとなっている。ルイ16世の息子ルイ=シャルルがルイ17世に該当するが、それは王党派の人間が勝手に主張していたことで、彼は正式には即位していないからである。そのため、一般的にはルイ17世をブルボン朝の君主とは数えない場合が多い。ルイ=シャルルは、フランス革命で1793年に父ルイ16世と母マリー=アントワネットが処刑された後も、そのままタンプル塔に幽閉され夭折した。獄中で監守から虐待を受け、トイレもない不衛生な部屋で糞尿にまみれになりながら、僅か10歳という若さで衰弱死した。何とも悲惨で、残酷な最期である。

革命によって共和政が敷かれたフランスだが、王党派の活動で再び王政が採用され、ルイ16世の弟ルイ18世が即位していた。だが、このフランス革命の動乱を機にナポレオンが一時台頭する。ナポレオンは戦いに明け暮れ、連勝を重ねる。そして、ついには自身が皇帝であることを宣言し、ナポレオン1世として即位した。ルイ18世はナポレオンを恐れ、フランスから亡命する。だが、ナポレオンも戦争の失敗で最終的には失脚に追い込まれてしまう。すると、再び亡命していたルイ18世が王位を手にした。

ルイ18世の死後、彼に直径の男児がいなかったため、王位は弟のシャルル10世に継承された。シャルル10世は時代に則さない絶対王政を唱え、激しい反感を買った。その結果、退位させられ、オルレアン家のルイ=フィリップ1世が推挙されて即位する。ルイ=フィリップはルイ14世の弟フィリップの末裔であり、ブルボン家とは袂を一緒とする。

ルイ=フィリップの失脚後、フランスは再び一時的な共和政期を経て、ナポレオン3世が即位する。ナポレオン3世は、ナポレオン1世の甥にあたる人物である。ナポレオン2世というナポレオン1世の直系の男児も存在したが、僅か2週間のみの在位で、若くして亡くなっている。若き頃から皇帝に憧れ、見事その夢を叶えたナポレオン3世。彼はパリの再建に着手し貢献した。だが、ビスマルク率いるプロイセンとの戦争(普仏戦争)で敗北を喫し、失脚に追い込まれてしまう。以後、フランスは二度と君主を戴くことはなく、共和国としての道を歩んでいくこととなる。

では、前置きはこれくらいにして、当時のフランスで実際に発行され、使用されていた貨幣を年代順に追って観ていこう。まずは、革命期に入る以前の近世のコインを歴史理解への導入として少しばかり紹介したい。



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図柄表:ルイ14世少年像
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国ルーアン造幣局
発行年:1648年
発行数:63,284枚
彫刻師:Jean Warin
銘文表:LVD XIIII D G FR ET NAV REX
銘文裏:SIT NOMEN DOMINI B BENEDICTUM
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:39 mm
重 量:27.34 g
分 類:DAV 3799; Grad 202; KM 155.2

太陽王ルイ14世(生没:1638年9月5日〜1715年9月1日)の10歳頃の少年像を描いたエキュ銀貨。裏側に記された「B」は、ルーアン造幣局製であることを示している。裏側の表面に見られる斜線は、量目調整のため当時意図的に削られた痕跡で、「アジャストマーク」と呼ぶ。

ルイ14世は「太陽王」という異名の通り、フランス王国の最盛期に生きた人物だった。古代ギリシアの光明神アポロンの装いをしていたことにも由来する。彼はヴェルサイユ宮殿を建設し、宮殿内では厳格な儀礼を設け、それはブルボン朝が途絶えるまで継承された。また、彼は父ルイ13世の崩御によって4歳で王位を継承した。72年間に亘って在位し、その在位期間はフランス史上最長でもある。結果、次の帝位を継承したのは息子でも孫でもなく、曾孫のルイ15世だった。

ルイ14世は、別名「官僚王」とも呼ばれており、勤勉で政務にも熱意を注いだ。戦争にも自ら参加し、兵士たちの指揮を高めた。だが、度重なる戦争によって国家財政は悪化し、その負債は末裔の時代まで引ずることとなる。ルイ14世は、趣味の狩猟や女性との恋愛など、何事にも熱心に打ち込む性格で、「暦と時計があれば、たとえ遠く離れていても王が何をしているか分かる」とサン=シモン公は著書『回想録』の中で述べている。


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図柄表:ルイ14世壮年像
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国アミアン造幣局
発行年:1701年
発行数:不明
彫刻師:Joseph Röettiers
銘文表:LVD XIIII D GFR ET NAV REX
銘文裏:SIT NOMEN DOMINI BENEDICTVM X
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:41 mm
重 量:27.1 g
分 類:DAV 1316; KM 329.21

1701年に発行されたエキュ銀貨。300年以上前のフランスの記憶を留めた至高の一枚である。また、直径41mmに及ぶ大型の銀貨で、その迫力は凄まじい。

本貨には、ルイ14世の壮年像が描かれている。カールした巻髪は、当時のフランス王侯貴族を象徴する高貴なヘアスタイルである。裏側には、白百合をシンボルとしたブルボン家の紋章が刻印されている。

ブルボン朝フランス王国の最盛期に君臨したルイ14世は太陽王の異名でも知られるが、本貨の銘文もそれを象徴する太陽のシンボルが打ち込まれている。裏側に記された「X」は、アミアン造幣局製を示すミントマークである。

本貨は、「リフォメーション」と呼ばれる再刻印が施された貨幣である。リフォメーションとは、流通して表面が摩耗した貨幣に新しい刻印を打ち込んで再流通させたもので、見分け方としては、前の刻印が薄らと透けて見えるので判別できる。貨幣の生産コストの削減を図ったもので、現在でいうところのエコなのかもしれない。


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図柄表:太陽王ルイ14世壮年像
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国
発行年:1704〜1709年
彫刻師:Joseph Röettiers
銘文表:.LUD. XIIII. D. G. FR. ET. NAV. REX.
銘文裏:SIT NOMEN DOMINI BENEDICTVM
銘文縁:DOMINE SALVVM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:40.0 mm
重 量:27.2 g
分 類:Dy 1551; Gad 224; KM 360

フランス王国の太陽王ルイ14世のエキュ銀貨。Reformationと呼ばれる流通して表面が摩耗した個体にもう一度刻印を打ち込んで再流通させたものである。以前の刻印が透けて見えるのがReformationの特徴である。生産コストの削減を図ったものだが、本貨のように銘文が潰れて年号が判読できないものも多い。

本貨の場合「170////」というところまでは判読できるが、それ以降が潰れている。文献に残る本貨が生産されていた期間の記録から1704〜1709年の間までとは何とか絞り込むことができるが、ピンポイントの年号までは分からないのが実にもどかしいところである。とはいえ、Reformationは資料として面白い。

ルイ14世はルイ13世が狩りの休息地として建設した館を増築し、ヴェルサイユ宮殿を造った。この建物は、正にフランスの栄華の象徴だろう。ネーデルラント継承戦争、オランダ戦争を始めとして立て続けに勝利を重ねた彼は繁栄を極めていく。だが、そうした快進撃も長くは続かず、後半は財政難に苦しんだ。

図柄表:太陽王ルイ14世
図柄裏:王冠と白百合紋章
発行地:フランス王国リヨン造幣局
発行年:1710年
彫刻師:Norbert Röettiers
銘文表:LVD.XIIII.D.G. FR.ET.NA.REBD
銘文裏:SIT.NOMEN.DOMINI+BENEDICTVM.1710 D
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:40.0 mm
分 類:Dy 1568

太陽王ルイ14世(生没:1638年9月5日〜1715年9月1日)を描いたエキュ銀貨。裏側の中央に記されたDは、リヨン造幣局製であることを示すミントマークである。エキュ銀貨は直径40mmを超える大型銀貨であり、所有者を楽しませてくれる。

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図柄表:ルイ15世幼年像
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国アミアン造幣局
発行年:1716年
発行数:129,990枚
彫刻師:N. Röettiers
銘文表:LVD XV D G FR ET NAV REX
銘文裏:SIT NOMEN DOMINI X BENEDICTVM
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:41.0 mm
重 量:30.59 g
分 類:Dy 1651; Gad R317

ルイ15世(生没:1710年2月15日〜1774年5月10日)の6歳頃の幼年像を描いたエキュ銀貨。ルイ15世は、ルイ14世の崩御によって5歳の若さで王位を継承した。幼年のため、実権はオルレアン公フィリップ2世が握った。成人後は、ブルボン公ルイ・アンリ、その後はフルーリー枢機卿が実務を担った。

ルイ15世は非常に女性を愛する人物で、多くの女性と関係を持った。そのため、「最愛王」の名でも知られる。だが、政務や軍事の才能には欠け、彼の治世に行われた戦争の敗北により、インドと北アメリカという有力な海峡植民地を失うに至った。

ルイ15世は、当時流行していた疫病「天然痘」で亡くなった。この病は顔に痘痕が残るもので、生き延びれても女性たちの美を損なう恐怖の病として酷く恐れられた。実際、フランスの王族の間でも、天然痘によって顔に痘痕ができてしまったため、縁談が破棄になった哀れな貴女たちもいた。天然痘によるルイ15世の死によって、まだ10代のルイ16世が即位し、マリー=アントワネットは王妃となった。フランスの頂点に君するには、まだ二人とも若過ぎる年齢で、夫婦は大きな不安に苛まれた。

本貨は、二重打ちと呼ばれる刻印がズレたエラー貨のひとつである。当時のフランスでは造幣技術がまだ発展途上の段階にあり、このようなエラー品が数多くに存在し、市場にも出回った。

また、ここで銘文にどんな内容が記されているのかを紹介していこう。銘文の内容は定型文であり、時代が異なっても君主の名前の部分だけが異なり、あとは同一である場合も多い。

銘文表
「LVD XV D G FR ET NAV REX」
ラテン語の省略形で記されている。原文は下記の通りである。
「LVDOVICVS XIII DEI GRATIA FRANCIAE ET NAVARRAE REX」
和訳の試訳を下記に示す。
「ルイ15世 神の恩寵による フランスとナバラの王」
ナバラとは、現在のスペイン領に位置する地域である。ここがかつてはフランス領だった。

銘文裏
「SIT NOMEN DOMINI BENEDICTVM X」
「主の御名に栄光あれ アミアン造幣局」

銘文縁
「DOMINE SALVUM FAC REGEM」
「神は偉大な王を守護する」

銘文が分かるようになると、収集や歴史の楽しみがまたひとつ増えるかもしれない。

ちなみに、本貨の単位はエキュだが、当時のフランスにはいくつかの貨幣単位が存在した。換算レートを下記に示す。

1エキュ(Ecu)=70ソル(Sols)=7/2ポンド・トゥール(Pound Tournois)。


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図柄表:ルイ15世少年像
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国エクス=アン=プロヴァンス造幣局
発行年:1719年
発行数:233,000枚
彫刻師:N. Röettiers
銘文表:LVD XV D G FR ET NAV REX
銘文裏:SIT NOMEN DOMINI & BENEDICTVM 1719
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:38.0 mm
重 量:24.5 g
分 類: Dy 1657; Gad R 318

フランス王国エクス=アン=プロヴァンス造幣局で、1719年に発行されたエキュ銀貨。裏側に記された「&」がエクス=アン=プロヴァンス造幣局製を示すミントマークである。前述した時より成長した10歳頃のルイ15世の少年像とブルボン王家の紋章が描かれている。

太陽王ルイ14世の崩御により、わずか5歳で王位を継承したルイ15世は美男の王として知られ、正妻とは別に愛人も数多くいた。そのため、「最愛王」とも呼ばれている。中でも、ポンパドゥール夫人とデュ・バリー夫人は彼の最もお気に入りの存在であり、彼女たち宮廷内で権威を奮った。ルイ15世は、オーストリアから来たルイ16世の王妃マリー=アントワネットを非常に気に入っていた。だが、宮廷内の多くの人間は、彼女を「オーストリア女(オーストリシェンヌ)」と呼んで侮蔑した。

女性関係にうつつを抜かし、政治に全く興味を持たなかったルイ16世の時代にフランスの借金は、さらにかさむこととなった。もとよりルイ14世による数多くの戦争でフランスは貧窮状態にあったが、さらにそれを助長することとなった。彼の時代までは何とか国王は安泰を維持したが、その後の子孫たちは散々だった。


図柄表:ルイ16世
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国ラ・ロシェル造幣局
発行年:1782年
彫刻師:Pierre-Benjamin Duvivier
銘文表:LUDOV XVI D GRATIA
銘文裏:FRANCIÆ ET NAV REX 1782 H
額 面:1/2ソル
材 質:銅
直 径:25.0 mm
重 量:6.1 g
分 類:KM 586.6

フランス革命が勃発する以前に発行された1/2ソル銅貨。ソルはスーとも表記される。革命以降、1795年にフランスの貨幣単位は10進法のフランで統一された。この際、メートルなどの十進法の長さを示す単位も導入された。メートルは日本では馴染みの深い単位だろう。日本もフランス革命の影響、恩恵を実は多大に受けているのである。

図柄表:ルイ16世
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国バイヨンヌ造幣局
発行年:1786年
発行数:2,314,000枚
彫刻師:Pierre-Benjamin Duvivier
銘文表:LUD XVI D G FR  ET NAV REX
銘文裏:NOMEN DOMINI BENEDICTUM L
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:エキュ
材 質:銀(.917)
直 径:41.0 mm
重 量:29.4 g
分 類:KM 564.9

フランス王国バイヨンヌ造幣局で、1786年に発行されたエキュ銀貨。ルイ16世とブルボン家紋章が描かれている。マリー=アントワネットを妃とするルイ16世はフランス革命の動乱に巻き込まれ、断頭台の上で散った。皮肉なことに彼はギロチン開発者の一人で、三日月状の刃を斜めに改良することを助言した。

本貨は未使用品だが、この時代のフランスの貨幣は造りが粗雑であり、元々打ちが悪いことから彫刻が明瞭に表れていない部分がある。裏側のブルボン家紋章の上には、アジャストマークが見受けられる。これは量目を基準値に合わせるため製造時の段階で意図的に付けられた調整痕で、流通による傷ではない。

本貨にはラテン語による銘文が刻印されている。原文と和試訳は下記の通りである。

表側
LUD XVI D G FR  ET NAV REX(神の恩寵を受けしルイ16世。フランスとナバラの王)

裏側
SIT NOMEN DOMINI BENEDICTUM L(神の御名に栄光あれ。*Lの刻印はBayonneを示すミントマーク)

エッジ
DOMINE SALVUM FAC REGEM(神は偉大なる王を守護する)。

本貨は、フランス革命が起きる数年前に発行された一枚である。この時のルイ16世は、まさか自分が断頭台の上で命を落とすことになるとは、露ほどにも思っていなかっただろう。

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図柄表:ルイ16世
図柄裏:ファスケスに被せられたリバティキャップ
発行地:フランス王国パリ造幣局
発行年:1791年
発行数:不明
彫刻師:Pierre-Benjamin Duvivier
銘文表:LOUIS XVI ROI DES FRANÇOIS 1791 A
銘文裏:LA NATION LA LOI LE ROI 2S L'AN 3 DE LA LIBERTE
額 面:2ソル
材 質:銅
直 径:36.0 mm
重 量:24.0 g
分 類:Gad 25; KM 603.1

1792年にフランスで発行された2ソル銅貨。大型の銅貨で重厚感があり、強い存在感を放っている。フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世(生没:1754年8月23日〜1793年1月21日)の肖像が描かれている。

裏側に表されたリバティキャップは、ローマ帝国の解放奴隷を象徴する自由の帽子「フリギア帽」である。ファスケスも同様に古代ローマの執政官の権限を守護する象徴物である。本貨は1789年に勃発したフランス革命の後に発行されたものであり、ブルボン家の紋章ではなく、民衆に気を遣ったモティーフが採用されている。

ルイ16世には兄がおり、彼は優秀で周囲から望ましい次期王として期待されていた。だが、王位継承前に若くして他界。ルイ16世に王位が回ってくることになったが、内向的な彼はその重責に思い悩んだ。オーストリアとの友好関係強化のため、彼にはハプスブルク家のマリー=アントワネットがあてがわれた。マリー=アントワネットはフランス語読みで、彼女の本来の名はマリア=アントーニアである。

マリー=アントワネットは、神聖ローマ帝国のフランツ1世とマリア=テレジアの末娘である。末っ子ゆえ甘やかされて育ち、フランスに嫁ぐ際はその教養のなさにマリア=テレジアは溜め息を付き、即座に家庭教師を呼んで花嫁修行を仕込んだという。この時代の王侯貴族は自分で子どもの面倒を見ないため、成長過程を知らず、こうした現象が起こる。マリー=アントワネットは、当時のフランスとオーストリアが長らく敵対関係にあったため、融和のために政略婚でフランスのルイ16世に嫁いだ。マリア=テレジアは、子どもたちを全て政略婚に利用した。それはハプスブルク家のお家芸と言える。唯一、奇跡的に恋愛結婚を果たしたのは、マリア=テレジアが「ミミ」という愛称で呼んでいたクリスティーナのみである。マリア=テレジアは彼女を偏愛しており、他の子どもたちより明らかに優遇した。それは、彼女がミミに与えた持参金の額が他の子どもより桁が違うことからも分かる。

ルイ16世とマリー=アントワネットの当初の夫婦仲は最悪なもので、婚約から7年も懐妊に至らなかった。世継ぎをつくることが第一とされた当時の価値観おいて、これはあり得ないことだった。世継ぎが産まれないことは、すなわち王朝の崩壊であり、国家情勢の不安定を招く大ごとにまで発展する可能性があったからである。マリー=アントワネットが懐妊しなかった原因は、ルイ16世の性器に問題があった言われているが、それをはっきりと証明する根拠はない。確かにマリー=アントワネットは母マリア=テレジアに宛てた手紙の中で、フランスのメディアが王の性器の不能性についてあれこれと書いており、それがとても不快であると述べている。だが、オーストリアからマリー=アントワネットの兄ヨーゼフがお忍びで訪れ、ルイ16世と二人で話した時のことを綴ったヨーゼフの日記の内容から察するに、王に身体的な問題はなかったと思われる。身体的というよりは、精神的な問題が強く、王は王妃をどこか恐れていたのかもしれない。とはいえ、兄ヨーゼフの介入と助言により、二人の間には念願の第一子マリー=テレーズが誕生する。この名は、母マリア=テレジアから取られたもので、そのフランス語読みである。

マリー=アントワネットは全く好みでないルイ16世を当初は避けていたが、子どもが産まれてからは彼を必要とし頼るようになっていく。ちなみに「マリー・アントワネット」と記されることが一般的だが、マリーもアントワネットも、どちらも彼女のファーストネームであり、中黒で区切るのは本来であれば不適切であり、「-」ないし「=」で繋ぐのが望ましい。

ルイ16世は錠前造りが趣味で、頭脳明晰な人物だった。ギロチンの刃を斜めにすることで、死者の苦しみを軽減する仕組みを考案した者としても知られる。皮肉にも、そのギロチンよって自身も処刑されるに至った。フランス革命の動乱に巻き込まれ、民衆の前で公開処刑される悲惨な最期を送ったのである。これまでルイ16世は暗君として見下されてきたが、近年ではその評価が見直されてきている。

政治的は評価さておき、ルイ16世がとても心優しい王だったことは確かである。彼は王妃マリー=アントワネットとフェルセンの浮気を知りながらも黙認していた。結婚は契約、純愛は愛人と、という当時のヨーロッパ貴族の暗黙の了解をルイ16世はきちんと理解していた。だが、ルイ16世は生涯愛人を一人も持たず、マリー=アントワネット一筋だった。これは彼が熱心なキリスト教信奉者だったことにも由来するが、性格的な部分も大きい。または、マリー=アントワネット愛し過ぎていたのかもしれない。歴代のフランス国王は、必ず多くの愛人と関係を持っていた。「最愛王」と呼ばれたルイ15世が、その典型例だろう。そう言った意味でルイ16世は極めて稀有な国王であり、彼ほど誠実で粋な男はいない。

ルイ16世は敬虔なキリスト教徒であり、熱心な信仰姿勢を普段から見せていた。それゆえ、断頭台の上に登った時も冷静な態度だったと伝承されている。一方、マリー=アントワネットは宗教的には形式的な信仰に過ぎなかった。とはいえ、彼女も断頭台では王家らしく取り乱さない態度に徹したという。

ルイ16世の最期は比較的詳細に記録されている。彼の断頭台での最期は、以下のような内容である。ルイ16世が断頭台に上がると、処刑人サンソンにまず上着を脱ぐように指示された。だが、ルイ16世は最初それを断った。王がいつまでも上着を脱ごうとしなかったので、サンソンが涙目で懇願すると、とうとう上着を脱いで彼に渡した。処刑人のサンソンも顔面蒼白だった。代々国王の代理として処刑を執行してきただけに、その国王を処刑するなど彼にとってはあり得ないことだった。次に、サンソンは手を縛るので、後ろに回すように指示した。だが、これにルイ16世は「その必要はない」と猛烈に反発した。これは国王のルイ16世にとっては許せない恥辱だった。いくら言っても聞かなかったため、サンソンはお付きの神父に「これでは刑が執行できない」と説得を仰いだ。神父はルイ16世に「これが国王としての最後の試練あり、これを乗り越えれば神に近づく」と諭した。ルイ16世は諦めの表情を浮かべ、神父が持つイエスの神像に口付けしながら両手を紐で結ばせた。そして、斬首の際に邪魔になる理由から、ルイ16世はサンソンによって髪を短く削ぎ落とされた。そうして、とうとう腹這いの状態でギロチン台に固定された。ギロチンの刃が振り下ろされ、サンソンは落ちた首の髪の毛を持ち、民衆にその首を見せた。処刑人が罪人の首を持って民衆の見せるのは恨みからではなく、それは身分に関係なく、処刑の習わしである。人を楽に死なせるための人道的な思想から生まれたギロチンが、簡単に処刑を行う道具として多くの人間の命を奪うことになってしまったのは何とも皮肉である。斬首を人が行う場合、凄まじい集中力が必要とされた。また、失敗も多く、何度もやり直して死刑囚を苦しめることも多かった。特に体調が悪かったり、気に迷いがあると斬首は失敗した。また、相手側の協力も必要で、喚かれたり、動かれたりすると、失敗してしまう高度な技だった。剣の消耗も激しく、一人切った後はよく研ぎ直す必要があった。こうした難しさが処刑される人数を自然と抑えていたのが、それがギロチンによってほぼ無制限となった。サンソン自身、処刑の数が多過ぎて手に負えないので負担を減らして欲しいとの要請を出してもいる。それほど、人力での処刑は難しいものだった。

また、処刑人サンソンとは、世襲で処刑を担っていたフランスの死刑執行人である。どんな死刑囚も最期は彼に身を委ねた。その職業柄、サンソンは人々から忌み嫌われていたが、不動産ビジネスと医師業で成功しており、かなり豊かな生活を送っていた。処刑人と聞くと残忍な人間そのものと思われるかもしれないが、サンソンは心優しい人物だった上、ルイ16世のことを慕っており、それゆえ、彼にとって王の処刑という運命を受け入れることは非常に困難なものだった。サンソンは王党派による介入で、処刑が邪魔されることさえ期待していた。実際、父を誤って殺害してしまった青年の処刑を民衆が暴動を起こし、邪魔して解放するという前例があったからである。だが、王党派は誰も助けには来なかった。サンソンはルイ16世の処刑後、隠れて元国王のためにミサを行った。償い切れない罪を犯してしまったという自責の念に駆られたからだ。これが知られれば、今度は彼が反逆罪として死刑に処されるが、そのリスクを冒してまでも懺悔のミサを執り行ったという。そこに彼の人柄が現れていると言えるだろう。


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図柄表:ルイ16世
図柄裏:法の天使
発行地:フランス王国ルーアン造幣局
発行年:1792年
彫刻師:Pierre-Benjamin Duvivier, Augustin Dupré
銘文表:LOUIS XVI ROI DES FRANÇOIS 1792
銘文裏:REGNE DE LA LOI 30 SOLS B DUPRE L'AN 4 DE LA LIBERTÉ
額 面:30ソル
材 質:銀(.666)
直 径:29.5*2.0 mm
重 量:10.15 g
分 類:Dy 1720; Gad 39; KM 606

フランス王国ルーアン造幣局で、1792年に発行された30ソル銀貨。ルイ16世と法の天使が描かれている。法の天使の図像は、絶対王政から立憲君主制への転換を象徴している。30ソルは1/4エキュにあたる。フランス革命の動乱と財政不良で銀品位が.666まで低下しており、貨幣の色味からもそれが見て取れる。

ルイ16世は創作によるイメージ像が邪魔していて、その真の姿が見えづらい王である。優柔不断な愚帝としてのイメージが現在でも払拭され切れていないが、実際は多言語を操り、科学にも精通した教養高い王だった。敬虔な信徒で心優しく、パリの市民が暴動を起こした際も衛兵に発砲しないよう命じていた。

当初のフランスは全員が王党派であり、立憲君主制による王政を望んでいた。だが、1791年に起こったヴァレンヌ逃亡事件で事態は一変する。この出来事は王妃マリー=アントワネットの祖国オーストリアに家族で亡命するというものだったが、あまりに豪華な彼らの装いからヴァレンヌで計画が見破られた。

この逃亡事件の未遂により、王に対する国民の信頼は失墜した。国民は王が自分たちを見捨てて外国に逃げようとしたことに失望したのである。焦ったフランス政府はこの逃亡事件は王による意志ではなく、誘拐事件だったと公式には発表したが、そうしたでっち上げは誰一人として信用しようとはしなかった。

こうした不信感から王政の廃止が説かれるようになった。その後、ロベスピエールら率いる山岳派(モンターニュ)が勢力を増していき、1793年にルイ16世と王妃マリー=アントワネットが処刑、1794年にルイ16世の妹エリザベートも処刑された。1795年にルイ16世の息子ルイ=シャルルも幽閉先で衰弱死した。

ルイ16世の娘マリー=テレーズは幽閉先のタンプル塔から唯一生還し、開放後は母の祖国オーストリアで過ごした。ルイ16世の弟プロヴァンス伯とアルトワ伯は革命が起こった早い段階で既に亡命しており、処刑されずに済んだ。後にプロヴァンス伯はルイ18世、アルトワ伯はシャルル10世として即位する。


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図柄表:リバティ女神像
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1795年
発行数:515 ,899枚
彫刻師:Augustin Dupré
銘文表:RÉPUBLIQUE FRANÇAISE Dupré
銘文裏:CINQ CENTIMES L'AN 5. A
額 面:5サンチーム
材 質:銅
直 径:28.0 mm
重 量:10.0 g
分 類:Gad 125; KM 642

フランス共和国パリ造幣局で、第一共和政期の1795年に発行された5サンチーム銅貨。ルイ16世とマリー=アントワネット夫妻が処刑されたのが1793年、山岳派(モンターニュ派)の指導者マクシミリアン・ロベスピエールが処刑されたのが1794年のことで、本貨はそうした大事件がようやく終息した1795年に発行された。

この頃のフランスは共和国であり、それゆえ、王の肖像は刻まれていない。新しく描かれるようになったのは、自由の女神リバティだった。これは、国民が王族から自由を勝ち取ったことを象徴している。とはいえ、王が不在となったフランスは、共和国としての仕組みがまだ整っておらず、不安定な情勢が続いて迷走していた。結局、そうした不安を埋めるかのような形で、ナポレオン・ボナパルトというコルシカ島出身の青年が台頭し、彼にフランスの未来を託すことになっていく。


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図柄表:ナポレオン1世
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス帝国トゥールーズ造幣局
発行年:1803年
発行数:1,199,306枚
彫刻師:Pierre-Joseph Tiolier
銘文表:BONAPARTE PREMIER CONSUL Tiolier
銘文裏:RÉPUBLIQUE FRANÇAISE 5 FRANCS AN 12 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分類:Gad  577; KM  659

フランス共和国トゥールーズ造幣局で、1803年に発行された5フラン銀貨。AN12とは共和暦を指し、王政廃止された1792年を1年目するため、共和暦12年目は換算すると西暦1803年にあたる。翌年1804年にナポレオンが皇帝に即位し、フランス帝国が成立する。ブルボン朝と差別化するため、王国でなく帝国、王ではなく皇帝の名称を使用した。

ナポレオン・ボナパルトは(1769年8月15日〜1821年5月5日)は、イタリア語圏のコルシカ島の出身で、彼が生まれる少し前までこの地域はジェノヴァ共和国の支配下にあった。それゆえ、ナポレオンが士官学校の入学でパリに来た当初は、フランス語がほとんど話せない状態だった。ナポレオンのイタリア鈍りのフランス語は、最後まで治らなかったという。

ナポレオンは下級貴族の出身で、本来であれば将軍の地位は上級貴族の者が就くはずだが、革命の流れに運良く乗って抜擢された。士官学校の成績はイマイチだったが、実戦では天才的な働きぶりを見せた。というのも、彼は数学などの理工系の科目は得意だったが、古典や歴史にはあまり興味を見せなかった。学校の成績は文系科目が占める割合も高かったため、校内の成績はあまり良くなかったという背景がある。

未亡人貴族で総裁バラスの愛人だったジョゼフィーヌ(ナポレオンは彼女をローズという渾名で呼んでいた)と結婚する前はイタリア読みの名前ナポレオーネ・ブオナパルテを頑なに突き通したが、結婚後はナポレオン・ボナパルトというフランス読みで名乗るようになった。妻のジョゼフィーヌ一筋で、戦場から一日に何通ものラブレターを送っていた。ジョゼフィーヌの浮気が発覚するまでは、浮気を一度もしなかった。

ジョゼフィーヌにとってナポレオンはとりあえずキープしている男性の一人であり、家柄も微妙で容姿も全く好みでなかった。それゆえ、突然の結婚の申し出に彼女はひどく困惑した。八方美人でいたら予想外のものが釣れたという感じである。だが、彼があまりにも熱心だったため、それに折れて申し出を受け入れた。

ジョゼフィーヌにとってナポレオンとの結婚は、自分の年齢と前夫との間の子どものことを考慮すれば、悪い話でもないという打算的なものだった。結婚当初は彼が世界の覇者に君臨する当たりくじとは全く思っておらず、彼の出世ぶりにはジョゼフィーヌ自身が最も驚いた。

当時の貴族は夫との政略婚と愛人とのガチ恋を明確に区別していたので、ジョゼフィーヌは平気で浮気した。下級貴族のナポレオンの考え方は庶民的で、こうした区別ができない純な男ゆえに妻の浮気にひどく傷付き号泣した。そして、遠征地のエジプトで彼は初めて浮気する。

遠征後に夫婦が久しぶりに再会すると、妻は夫の才能を再認識した。それ以降、彼女は彼のためだけに人生を捧げるようになる。ジョゼフィーヌは助言の天才だった。社交的な性格から幅広い人間関係と情報筋を持ち、これによってナポレオンは大いに助けられた。ジョゼフィーヌなくしてナポレオンなしというわけである。

ジョゼフィーヌというのはナポレオンが自分が呼ぶためだけにつけた妻の名であり、彼女の本名はジョゼフ・ローズという。特に親しい者は、彼女をローズと呼んだ。ハンサムな軍人イッポリト・シャルルとローズの浮気は離婚騒動に発展し、最終的に夫婦は別れるが、二人は離婚後も善き話し相手同士だった。


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図柄表:ナポレオン1世
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス帝国パリ造幣局
発行年:1809年
発行数:3,253,308枚
彫刻師:Nicolas-Antoine Brenet
銘文表:NAPOLEON EMPEREUR
銘文裏:EMPIRE FRANÇAIS 5 FRANCS 1809 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad 584; KM  694

フランス帝国パリ造幣局で1809年に発行された5フラン銀貨。ナポレオン1世の有冠肖像が描かれている。その凛々しく優美な肖像は、まさしくアンティークコインの頂点と言えるものだろう。古代ギリシアの美男神アポロンをモデルにして描かれた。本貨は、ナポレオンが発行した貨幣の肖像の中で最も著名なものだろう。

ナポレオンは天才的な砲兵として、若き頃から頭角を表した。在学中の成績はイマイチだが、古典に興味を持たなかったため総合すると成績が悪く見える。兵士養成校は古典学習が割合の多くを占め、ナポレオンは数学でトップクラスの成績だったものの、総合点で評価すると成績は下から数えた方が早かった。

ナポレオンは貴族家庭の生まれだが貧乏貴族であり、本来であればパリの軍事学校には入学できないほどの貧しさだった。だが、ブルボン朝が設立した奨学金制度によって入学を果たす。入学したものの、拙いフランス語、ボロボロの衣服を級友にいじられ、読書に耽る青春とは程遠い孤独な学校生活を送った。

ナポレオンはフランス革命の混乱を収拾し、軍事独裁政権を掌握した。その後、自らが皇帝に君臨する。ルイ16世が処刑されたことを考慮し、前の君主とは異なるという意味合いも兼ねて、敢えて「王」ではなく「皇帝」という称号を用いた。皇帝は王を束ねる大王という意味合いを持つことからも、こちらの名称を好んだ。

また、エジプト遠征の際、彼の部下がロゼッタ・ストーンを発見したことは有名である。だが、惜しくも英国に敗北し没収される。それゆえ、ロゼッタ・ストーンは現在、大英博物館に収蔵されている。

ナポレオンがピラミッドの中で泊まり、恐ろしい夢を見たという話があるがこれは創作である。彼は共に連れて来た学者の希望でギザに訪れており、ピラミッドには2時間ほどしか滞在していない。実際の彼は内部を這いつくばって進むのを嫌い、中には入らず、手前で待機していた。彼の部下は内部に入り、落書きを残している。

本貨が発行された1809年はオーストリア戦役が勃発した年であり、敗北したオーストリアのフランツ2世は娘のマリー=ルイーズをナポレオンに差し出し、政略婚させるに至った。マリー=ルイーズは敵国フランスのナポレオンと結婚することを絶望的に感じていたが、最終的には彼を愛するようになっていく。二人の間には待望の男児ナポレオン2世が誕生する。次期皇帝として期待され、若き頃からナポリ王の王位を与えられていた彼だが、21歳という若さで他界した。


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図柄表:ナポレオン2世
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス帝パリ造幣局
発行年:1816年
発行数:不明
銘文表:NAPOLEON II EMPEREUR
銘文裏:3 CENTIMES ESSAI 1816 EMPIRE FRANCAIS
額 面:3サンチーム
材 質:青銅
直 径:23.3 mm
重 量:7.27 g
分 類:Maz 644; Gad 144

ナポレオン2世(生没:1811年3月20日〜1832年7月22日)はナポレオン1世の直系の男児だが若くして他界したため、その存在はほとんど知られていない。また、ナポレオン1世が戦死したという誤報が流れた際、彼はナポリ王の地位にあったが、誰も彼を次の帝位継承者として即位させる準備を進めなかった。ナポレオンはこのことを知ると激しく怒った。同時に彼は、帝位継承が上手くいかない可能性に気付かされた。

ナポレオン2世はハプスブルク家の皇女で母のマリー・ルイーズとは生前ほとんど会うことができず、寂しい思いをしながらこの世を去った。著名すぎるナポレオン1世とナポレオン3世の影に隠れた存在で、ほとんど認知されていないが、僅かながらコインが残されている。

本貨はフランス語で「ESSAI(エッセイ)」と呼ばれる試鋳貨であり、流通の前段階に実験的に造られたトライアル品である。トライアルコインのため、発行枚数は不明だが、現存数は僅かと見積もられている。試鋳貨及び献上用の貨幣は、プレーンエッジにされる傾向にある。流通用ではないため、防犯上のギザやレタリングを入れる必要がないからである。


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図柄表:ルイ18世
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国リヨン造幣局
発行年:1824年
発行数:2,446,469枚
彫刻師: Auguste-François Michaut
銘文表:LOUIS XVIII ROI DE FRANCE
銘文裏:5 F 1824 D
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad  614; KM 711.4

ノアの方舟が描かれている。これは「D」と共に描かれるミントマークである。フランス王国リヨン造幣局で、1824年に発行された5フラン銀貨。ルイ18世とブルボン家紋章が描かれている。

ルイ18世(生没:1755年11月17日〜1824年9月16日)は、フランス革命で処刑されたルイ16世の弟である。革命時はフランスから脱出し、亡命貴族の拠点コブレンツで仲間と合流した。ルイ15世が崩御し、孫のルイ16世が王位を継承したが、彼は革命によって断頭台の露と消えた。その後、ナポレオンが台頭するも彼も失脚し、王位は紆余曲折を経てルイ16世の弟ルイ18世に継承された。

ルイ16世、ルイ18世、シャルル10世の三兄弟の中で、ルイ18世が最も記憶力に優れ、その能力には家庭教師が舌を巻くほどだった(他にも男児はいたが夭折しており、生き残ったのが彼らだけだった)。狡猾なルイ18世は王位を密かに狙っていたが、ナポレオンとの抗争でその実現までには大変な苦労を要した。


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図柄表:シャルル10世
図柄裏:ブルボン家紋章
発行地:フランス王国パリ造幣局
発行年:1829年
発行数:4,826,072枚
彫刻師:Auguste-François Michaut
銘文表:CHARLES X ROI DE FRANCE MICHAUT
銘文裏:5 F 1829 A
銘文縁:DOMINE SALVUM FAC REGEM
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad  644; KM 728

シャルル10世(1757年10月9日〜1836年11月6日)は、ブルボン家の王でフランス王ルイ16世とルイ18世を兄に持つ。兄弟の中では最もハンサムで兄嫁マリー=アントワネットが従えた遊び集団の一人であり、スキャンダルにもなった。ナポレオンの失脚、兄の死の後に王位を継承した。だが、七月革命で英国に亡命し、王位はルイ=フィリップに奪取された。

フランス王国パリ造幣局で、1829年に発行された5フラン銀貨。フィールドの光沢や艶が美しい一枚。ブルボン家最後の君主シャルル10世の肖像を刻んでいる。シャルル10世は、ブルボン家の王でフランス王ルイ16世とルイ18世を兄に持つ。兄弟の中では最もハンサムで兄嫁マリー=アントワネットが従えた遊び集団の一人であり、スキャンダルにもなった。

シャルル10世はフランス革命やナポレオンとの対立など、その人生は波乱万丈に尽きた。ナポレオンの失脚、兄の死の後に王位を継承したが、1830年には七月革命が勃発し、王位はオルレアン家ルイ・フィリップに奪取された。


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図柄表:ルイ=フィリップ1世
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス王国ナント造幣局
発行年:1831年
発行数:124,860枚
彫刻師:Nicolas-Pierre Tiolier
銘文表:LOUIS PHILIPPE I ROI DES FRANÇAIS
銘文裏:5 FRANCS 1831 T
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad 676; KM  735

フランス王国ナント造幣局で1831年に発行された5フラン銀貨。ルイ=フィリップ1世(1773年10月6日 〜1850年8月26日)とリースが描かれている。ルイ18世失脚後、その弟シャルル10世が即位した。だが、時代に逆行した彼の王権強化政策は不評を招き、オルレアン公ルイ=フィリップが擁立された。オルレアン家は、ルイ14世の弟の末裔あたる。

シャルル10世を失脚させ、自身が王位を継承することを密かに狙っていたルイ=フィリップ1世。彼の父は、ルイ16世の処刑に賛成票を投じてもいた。袂を一緒とするブルボン家とオルレアン家の関係は複雑なものだった。ちなみに、オルレアン家はブルボン家を凌ぐ経済力を持つフランス屈指の大富豪である。

王党派に担ぎ上げられ王位を継承したルイ=フィリップだが、その政策の中身は富裕層のブルジョワ階級を優遇するものであり、民衆の期待を裏切って強制的に退位させられた。ルイ=フィリップの政治方針を皮肉り、洋梨のような顔をした彼が民衆から税を吸い上げてたらふく太る姿を描いた風刺画が残されている。ルイ・フィリップ1世は顔の輪郭が洋梨に似ていたことから、フランス国民から洋梨王と渾名されていた。


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図柄表:ルイ・フィリップ1世
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス王国ストラスブール造幣局
発行年:1840年
発行数:1,200,538枚
彫刻師:Joseph François Domard
銘文表:LOUIS PHILIPPE I ROI DES FRANCAIS DOMARD F
銘文裏:5 FRANCS 1840 BB
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀(.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad 678; KM 749

フランス王国ストラスブール造幣局で、1840年に発行された5フラン銀貨。ルイ=フィリップ1世の有冠肖像とリースが描かれている。王権が肥大化し過ぎないよう制限のかかった立憲君主制の王として即位したはずだった。だが、その政策はブルジョワ階級を優遇するもので、国民の願いとはかけ離れたものだった。結果、民衆の王政廃止運動によって亡命を余儀なくされ、英国に渡り、ヴィクトリア女王の庇護下で隠居生活を送り、以来フランスに戻ることはなかった。

あまり知られていないが、ルイ=フィリップは考古学に強い関心を持つ人物だった。当時の高貴な者は歴史や芸術に関心を持ち、知見を持つことがステータスとされていた。彼はアジア協会の創立会員で、即位前のオルレアン公時代には、古代エジプト語の解読者シャンポリオンの研究を高く評価し、フランス人の誇りと賛美した。

本貨の銘文に注目すると、「ROI "DE" FRANCAIS(フランス王)」でなく、「ROI "DES" FRANCAIS(フランス人の王)」という称号が使用されているのが本貨のポイントのひとつである。これは、当時のフランス王国の情勢を如実に反映している。

フランスではブルボン朝がその絶対的な権力で長らくフランスを支配していた。王に圧倒的な力が集中する圧政に民衆はひどく苦しんだ。そうした不満から、王政への反発心が徐々に人々の間に芽生え、1789年にはフランス革命が勃発するに至った。革命後、フランスは共和政と王政が入れ替わる混乱期に入り、ルイ・フィリップはその最中に即位した王だった。それゆえ、従来の王政を強く想像させる「ROI DE FRANCAIS」ではなく「ROI DES FRANCAIS」の称号を敢えて採用したのである。

共に打たれている「DOMARD F」という刻印は、本貨の彫刻師の名を示しいる。本名はJoseph François Domard(生没:1792〜1858年)。フランスを代表する貨幣・メダル彫刻師の一人である。また、本貨はエッジにも下記の銘文がレタリングされている。「DIEU PROTEGE LA FRANCE(神はフランスを守る)」。フランスが神の加護を受ける偉大なる国家であることを主張している。


図柄表:リバティ女神
図柄裏:額面・年号・造幣局表記
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1848年
彫刻師:Augustin Dupré
銘文表:RÉPUBLIQUE FRANÇAISE Dupré
銘文裏:UN CENTIME 1848 A
額 面:1サンチーム
材 質:青銅
直 径:18 mm
重 量:2 g
分 類:KM 754; Gad 84

フランスで1848年に発行された1サンチーム青銅貨。1フラン=100サンチームの価値を持った。

フランスは1792年に王政を廃止して共和政を敷き、翌年には国王一家を処刑した。その結果、貨幣のデザインが一新された。

従来は、王の肖像とブルボン家の紋章というデザインが採られていたが、国民が自由を勝ち取った象徴としてリバティ女神、マリアンヌ女神、英雄ヘラクレスなどの図案に変更された。

第一共和政期に採用されたそうしたデザインは、ナポレオンの登場により一時的に姿を消したが、彼の失脚後の第二共和政では再び同デザインが採用された。

この時期のフランスには、エッセイと呼ばれる試鋳貨(正式採用される前の段階)が幾つも存在する。本採用のデザインを決めるための貨幣図案コンテも行われ、ヴァラエティに富んだエッセイが見受けられる。


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図柄表:英雄ヘラクレスと女神たち
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1849年
発行数:29,130,599枚
彫刻師:Augustin Dupré
銘文表:LIBERTÉ ÉGALITÉ FRATERNITÉ
銘文裏:RÉPUBLIQUE FRANÇAISE 5 FRANCS 1849 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad 683; KM  756

フランス共和国パリ造幣局で、第二共和政期の1849年に発行された5フラン銀貨。英雄ヘラクレスと女神たちが描かれている。ヘラクレスのモティーフは革命によって王制を廃止し、共和制を実現した国民の力強さを示している。大変人気のあるデザインで現代でもリストライクされているが、本貨はそのオリジナルとなる。

革命によって共和国となったフランスだが、ナポレオン1世の甥ナポレオン3世が大統領選挙に立候補し、その地位を見事勝ち取った。まさかのできごとだったが、英雄ナポレオンの風を再び期待する者も実は多かった。大統領就任後、彼は真の目的であった帝政の復活を実現し、フランス第二帝政が開始される。


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図柄表:ケレス女神像
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1850年
発行数:14,542,699枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E A OUDINÉ F
銘文裏:LIBERTE EGALITE FRATERNITE 5 FRANCS 1850 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad  719; KM 761

フランス共和国パリ造幣局で、第二共和政き1850年に発行された5フラン銀貨。美しいケレス女神を描いている。裏側にはフランスのスローガン「LIBERTE EGALITE FRATERNITE(自由・平等・友愛)」の銘文が刻印されている。王が排除され、共和国となったフランスはこれまでの王の肖像を刻んだコインを当然ながら廃止した。そこでモティーフになったのが、農業国フランスでは馴染み深い、豊穣と収穫の女神ケレスだった。女神の美しい肖像は、王政からの解放を暗示することに加え、豊作への祈りも込められている。


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図柄表:ケレス女神
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1850年
発行数:6,173,221枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E.A. OUDINÉ F.
銘文裏:LIBERTE EGALITE FRATERNITE 20 CENT. 1850 A
額 面:20サンチーム
材 質:銀(.900)
直 径:15.0 mm
重 量:1.0 g
分 類:Gad 303; KM 758

オルレアン家のルイ=フィリップ1世が失脚した後の第二共和政期に発行。貨幣から王像を廃し、フランスの象徴物を描くことで共和国化をアピールしている。

パリ(A)、ストラスブール(BB)、ボルドー(K)の3カ所で生産された。1850年のパリミントが最も数が多く、発行数は6,173,221枚にのぼる。KM 758.1に分類される1849年のパリミントは特年あたり、4,871枚のみ。

フランスの共和国化にあたって貨幣のデザインも一新されたが、その際にデザインコンテストが行われた。様々なデザイナーが自身の作品が国家の貨幣として採用される誇りを狙って応募した。多種多様なデザインは、エッセイと呼ばれる試作打ちの形で今でも見ることができる。最終的にこの激戦を勝ち抜いたデザイナーはEugène-André Oudinéで、彼のデザインが正式採用された。


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図柄表:ケレス女神像
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1851年
発行数:1,001,108枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E A OUDINÉ F
銘文裏:LIBERTE EGALITE FRATERNITE 5 FRANCS 1850 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:1フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:23.0 mm
重 量: 5.0 g
分 類:Gad  457; KM 759

フランス共和国パリ造幣局で、第二共和政期の1851年に発行された1フラン銀貨。小さい額面のコインほど、使われて摩耗した結果、回収されて溶かされているため、意外にも現存数が少ない傾向にある。フランスの1フラン銀貨もその例に漏れず、大型の5フラン銀貨の方が市場では目にすることが圧倒的に多い。

こうした美麗なトーンが付くことは珍しく、欧州の気候ならではのトーンの付き方である。日本では気候の関係上、トーンの発生が難しいと言われている。1フラン銀貨は小さなコインだが、虹色に輝くその姿は雄大な世界を奥底に秘めている。


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図柄表:ナポレオン3世無冠肖像
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス帝国パリ造幣局
発行年:1852年
発行数:16,096,228枚
彫刻師:Jean-Jacques Barre
銘文表:LOUIS-NAPOLEON BONAPARTE BARRE
銘文裏:REPUBLIQUE FRANÇAISE. 5 FRANCS 1852 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀(.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad 726; KM 773

フランス帝国パリ造幣局で、第二帝政期の1852年に発行された5フラン銀貨。ナポレオン3世(在位:1852-1870年)が即位した年に発行された。ナポレオン3世の無冠肖像とナポレオン3世紋章が描かれている。同デザインで、彫刻師名が「BARRE」でなく、「J J BARRE」と記されたものも存在し、そちらは発行数3,769枚の稀少貨幣である。

ナポレオン3世は普仏戦争で敗北した上、捕虜なって退位させられたため、愚帝としての見方が多い。確かにそれだけ聞くと愚帝のように聞こえるが、普仏戦争は国民の意志であり、当のナポレオン3世は開戦に反対の考えを持っていた。また、勝てる見込みがないと察した戦いで、兵士を戦場に送り込んで無駄死にさせる権利は私にはないとして、自分から捕虜になりにいったのであって、敗走中に捕らえられたわけではない。こうした誤解が彼の評価を著しく落とす要因となっている。ナポレオン3世が「貧困の根絶」をスローガンに都市の改造計画に着手した恩恵は、実はパリにとってナポレオン1世よりも遥かに大きいものだった。普仏戦争がなければ、彼はフランスを代表する賢帝として評価されていたのかもしれない。

ナポレオン3世は、ナポレオンの弟ルイとナポレオンの元妻ジョゼフィーヌの娘オルタンスの間に生まれた。ナポレオンの甥にあたり、幼少期から母オルタンスに叔父ナポレオンのような偉大な人間になるようにと教育された。ナポレオンの弟ルイは、兄ナポレオンと不仲だったが、その妻のオルタンスの方は熱狂的なナポレオン支持者という複雑な関係性にあった。

ナポレオン3世は、両親が不仲で別々に暮らしていたため、母側についてスイスで少年時代を過ごした。彼が住んでいた地域はドイツ語圏だったため、彼の母国語はドイツ語で、ドイツ語訛りのフランス語を話したという。この点は、ナポレオン1世の母国語はイタリア語のコルシカ方言で、イタリア語訛りのフランス語を話していたことに似ている。母からの教育もあり、ナポレオン3世は伯父ナポレオンの後継者として意識が強く、青年時代に2度クーデター起こして投獄されている。1回目は15名の仲間と共にストラスブールでクーデター起こしたが、2時間で制圧されて連行された。1回目は青年の若気の至りとして大目に見られ釈放された。だが、ナポレオン3世はこれに懲りず、2度目は54人の支持者と共にブローニュでクーデターを起こし、再び街を行進した。2度目のクーデターも失敗したが、仲間が銃弾で死亡し、ナポレオン3世自身も負傷する大事件となった。連行されたナポレオン3世はアム要塞に投獄された。2度目のクーデターは流石に重大と見られ、反省の色もないことから彼は終身刑を言い渡された。このようにナポレオン3世は、若き頃からかなりエネルギッシュな人物だった。

投獄と言っても、その生活は比較的快適なもので、一般的に想像される牢屋暮らしとはかけ離れていた。その点は流石に王族の末裔である。牢獄特有の湿った環境ではあったものの、それ以外は本を読んだり、資産を自由に使って買い物もできた。彼はこのアム要塞のことをアヌ大学と呼ぶほど、ここで本を読み漁り、勉学に励んだ。ここで彼はナポレオンのように皇帝の座を手に入れる野望をより一層強く抱くようになった。フランスを変えるためには、自身が皇帝に即位し、国家を再建するしかないと考えていたのである。
ある日、彼は牢獄内の自身の部屋が老朽化しているので、私費で修復工事を行いたいと願い出た。彼の申し出に許可が出て、作業員によって資材が運び込まれた。だが、この時の作業員たちがナポレオン3世の仲間たちであり、彼は同志が届けた作業員服に着替え、作業員の変装して脱獄したのである。脱獄後、彼は大統領選挙に立候補し、見事その地位を得た。国民の中には、かつてのナポレオンの風を懐かしみ、期待する者も意外に多かった。

また、投票権が与えられていても政治に無知な人々は、ナポレオンという誰もが知るネームバリューに惹かれ、さして何も考えずに投票していたという背景もある。単なる人気投票に近い選挙でもあったが、ナポレオン3世の投票率は圧倒的なものだった。運良く他の候補者が無能だったというタイミングの良さも相まった。だが、大統領には任期があるため、ナポレオン3世は就任後、その延長に画策した。そして、この法案を通した後、自ら皇帝を名乗り、帝政を敷くことを宣言する。これがいわゆる、フランス第二帝政始まりである。この点は古代ローマのカエサルが半年間という任期付きの独裁官の職を、終身制にする終身独裁官の法案を通したことに似ている。ナポレオンがカエサルやアレクサンドロスに強く憧れ、その書物を読み漁っていたことから、ナポレオン3世も同じくこれらの書物に目は通していたことだろう。


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図柄表:ナポレオン3世有冠肖像
図柄裏:ナポレオン3世紋章
発行地:フランス帝国ストラスブール造幣局
発行年:1869年
発行数:11,390,447枚
彫刻師:Jean-Jacques Barre
銘文表:NAPOLEON III EMPEREUR A BARRE
銘文裏:EMPIRE FRANÇAIS 5 F 1869
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀(.900)
直 径:37×2.6mm
重 量:25.0g
分 類:Gad 739; KM 799

アンティークコイン収集の代名詞とも言えるナポレオン3世の有冠5フラン銀貨。フランス帝国ストラスブール造幣局で、第二帝政期の1868年に発行された。

ナポレオン3世は普仏戦争で敗北し、捕虜となった愚帝のイメージが強いが、貧困の根絶を掲げ、パリの開発を進めた功績はナポレオン1世を遥かに超える。因みに兵を無駄死にさせないため自ら捕虜になったのであり、不名誉な敗走捕虜ではない。

ナポレオン3世は父がアンチ・ナポレオン、母が熱烈なボナパルティスト(ナポレオン支持者)という複雑な家庭に生まれた。政治的立場の相違も相まって両親は離婚、ナポレオン3世は母に引き取られ、スイスで幼少時代を過ごした。そのため、母国語はドイツ語であり、ドイツ鈍りのフランス語を話した。

若き頃に自分こそがナポレオンの後継者と名乗り、クーデターを二度起こしている。一度目は大目に見られたが、二度目は死者が出る惨事となり終身刑が言い渡された。アム監獄に投獄されたが、同志の協力を得て内装工事の作業員に変装し脱獄。その後大統領に当選、皇帝にまで登り詰めた異例の経歴を持つ。

当時のフランスの有力者らは、ナポレオン3世はスイス人のバカと見下していた。ドイツ語鈍りのフランス語を話し、何を考えているか分からない姿がバカそうだと映った。有力者らはこのバカをトップに敢えて置けば自分たちの言いなりにできそうと考えたが、ナポレオン3世の方が何枚もうわてで狡猾だった。

考古学上の功績と進展で言えば、ナポレオン3世は発掘に強い興味持っていたため、その調査活動の支援に捻出を惜しまなかった。結果、古代ローマの貨幣研究は進歩を遂げた。フランスは古代ローマのガリア属州に位置し、ナポレオン3世の発掘活動で共和政末期の貨幣が発掘され、年代推定の研究が前進した。

ナポレオン3世のコインは、その端正な顔立ちから人気が高く、特に日本では高く評価されている。ナポレオン3世は、女性から非常にモテる人物だったと記録されている。彼のためなら立ち上がり協力してくれる女性たちもおり、幾度も彼女たちによって窮地を脱している。母性本能をくすぐる秘めた魅力を持つ男性だったと言われている。

本貨は、下記の3つの造幣局で生産された。

造幣局一覧(Mint List)

A:パリ造幣局(Paris, France)

BB:ストラスブール造幣局(Strasbourg, France)

K:ボルドー造幣局(Bordeaux, France)

銘文の試訳を下記に示す。
NAPOLEON III EMPEREUR A BARRE

ナポレオン3世 皇帝 パリ造幣局 彫刻師BARRE

EMPIRE FRANÇAIS 5 F 1868

フランス帝国 5フラン 1868年

DIEU PROTEGE LA FRANCE

神はフランス守護する


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図柄表:ケレス女神像
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1870年
発行数:1,185,100枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné, Joseph-François Domard
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E A OUDINÉ F
銘文裏:LIBERTE EGALITE FRATERNITE 5 FRANCS 1870 A
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad  743; KM 819

フランス共和国パリ造幣局で、第三共和政の1870年に発行された5フラン銀貨。第二共和政期の頃のケレスの5フラン銀貨が復刻されている。本貨は、1870年から1871年の間、僅か2年間のみ発行された。直径37ミリの大型銀貨であり、その存在感は観る者を圧巻させる。また、渋いトーンも味わい深い。



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図柄表:ケレス女神
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国ボルドー造幣局
発行年:1870年
発行数:569,662枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné, Joseph-François Domard
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E A OUDINÉ F
銘文裏:5 FRANCS 1870 K
銘文縁:DIEU PROTEGE LA FRANCE
額 面:5フラン
材 質:銀 (.900)
直 径:37.0 mm
重 量:25.0 g
分 類:Gad  742; KM 818

フランス共和国ボルドー造幣局で、第三共和政期の1870年に発行された5フラン銀貨。美しいケレス女神の肖像は、フランスを代表する彫刻師Jean-Auguste Barreの傑作である。ケレスはイタリアのシチリア島に起源を持つ古代ローマの豊穣と収穫の女神だった。

本貨は「ノーモットー」と呼ばれる裏側にフランスのスローガン「LIBERTE EGALITE  FRATERNITE(自由・平等・友愛)」という文言が刻まれていない稀少タイプである。前述したモデルには、このモットーが刻印されているので、是非見比べてみて欲しい。


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図柄表:ケレス女神
図柄裏:植物装飾
発行地:フランス共和国パリ造幣局
発行年:1887年
発行数:1 865,694枚
彫刻師:Eugène-André Oudiné
銘文表:REPUBLIQUE FRANÇAISE E.A. OUDINÉ F.
銘文裏:LIBERTE EGALITE FRATERNITE 50 CENT. 1887 A
額 面:50サンチーム
材 質:銀(.835)
直 径:18.0 mm
重 量:2.5 g
分 類:Gad 419; KM 834.1

第三共和政期の発行。ナポレオン3世が退き、第二帝政が終焉を迎えた時代のフランスで発行されている。図柄は第二共和政時に人気の高かった穀物の女神ケレスの肖像をリバイバルしている。本貨は、パリ(A)とボルドー(K)の2箇所で生産された。

フランスの有名なスローガン「LIBERTE EGALITE FRATERNITE(自由・平等・友愛)」が記されている。「FRATERNITE」を「博愛」と訳す著者もいるが、これは厳密に言えば正しくない。フランス語のニュアンスに従うなら「友愛」と訳すべきだろう。博愛と友愛では、対象の範囲が異なる。「FRATERNITE」が意味するニュアンスは、博愛より範囲が狭い友愛を指している。

こうした小額面のコインは頻繁に使用されたため、発行数こそ多いものの優れたコンディションで現存するものは意外にも少ない。また、トーンがヨーロッパ特有の付き方で、日本では気候環境からこのようなトーンがなかなか現れない。時代の流れとフランスの地という悠久の浪漫が感じられる一枚。



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下記、フランスのミントマーク一覧である。これを見れば、誰でも手軽に造幣局を判別することができるので、収集・分類の際の手助けとなれば幸いである。

A:パリ(Paris)
AA:メッツ(Metz)
B:ルーアン(Rouen)
BB:ストラスブール(Strasbourg)
C:カーン(Caen)
CC:ブザンソン(Besancon)
D:リヨン(Lyon)
E:ツール(Tours)
G:ポアティエ(Poitiers)
H:ラ・ロシェル(La Rochelle)
I:リモージュ(Limoges)
K:ボルドー(Bordeaux)
L:バイヨンヌ(Bayonne)
M:トゥールーズ(Toulouse)
MA: マルセイユ(Marseille)
N:モンペリエ(Montpellier)
O:リオン(Riom)
P:ディジョン(Dijon)
Q:ペルピニャン(Perpignan)
R:オルレアン(Orléans)
S:ランス(Reims)
T:ナント(Nantes)
V:トロア(Troyes)
W:リール(Lille)
X:アミアン(Amiens)
Y:ブルージュ(Bourges)
Z:グルノーブル(Grenoble)
9:レンヌ(Rennes)
&:エクス=アン=プロヴァンス(Aix)
Cow:ポー(Pau)



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〜フランス革命をもっと詳しく〜

フランス革命
1789年の民衆によるバスティーユ牢獄襲撃から、1804年のナポレオン1世が皇帝に即位のして動乱を収束した約15年間を指す(革命の終焉を別の時代とする研究者もいる)。第三身分の民衆が王侯貴族対して反旗を翻した身分闘争で、王政と共和政を幾度も繰り返した後にフランスは共和国の道を選んだ。

ヴァレンヌ逃亡事件
ルイ16世とマリー=アントワネットがパリの民衆による革命を恐れてフランスからの亡命を図ったが失敗した事件。夫妻及びその家族は、マリー=アントワネットの祖国であるオーストリアに亡命予定だった。強力な軍を持つオーストリアのフランツ1世の加護の下、身の安全を確保するはずだった。当初は順調に行っていたものの、駅馬車の乗り合わせが上手く行かず、国境付近のヴァレンヌで立ち往生していたところで民衆に逃亡を悟られて宮殿に強制送還された。以降、民衆は王族に対してより一層強い不信感を抱くようになり、フランス革命の引き金のひとつとなった。

ギロチン
ギロチンの開発によって簡単に処刑が行えるようになったことも、マクシミリアン・ロベスピエールらによって魔女狩りのような処刑が繰り返された要因のひとつとして挙げられる。それまで処刑は複数存在していたが、どれも手間がかかるもので失敗も多かった。処刑人は失敗すれば不信感を買うことになったし、見物人に暴行されることもあった。斬首はとても難しい技で、プロの処刑人でも体調不良や気持ちの乱れで失敗することが多かった。加えて、処刑される側の協力も必要で、暴れられると後頭部などに刃が当って失敗した。斬首刑はもともと高貴な人物に行われるもので、それゆえにそうしたものは潔くその身を差し出すケースが多かった。斬首は剣に与える負担も多く、数回で刃こぼれした。それゆえ、次の者を処刑する際は研ぎ直す必要があった。フランスでは、斬首は人道的な処刑方法と考えられていた。それゆえ、全ての罪人にできるだけ苦しみを与えない斬首にするという道徳感からこのように定められた。だが、この決定に処刑人のサンソンたちは困惑した。というのも、斬首は前述したようにとても難しい処刑方法であるため、革命期に死刑判決を受けた帯びただしい数の人間を捌くのはあまりにも非現実的だったからである。そこで、ギロチンの開発に至った。ギロチンは医師ギヨタンを始め、処刑人サンソン、国王ルイ16世らによって勧められた。ルイ16世は人道的な処刑を望む国王であり、ギロチンの開発には好意的だった。ルイ16世はお忍びで開発の参加していたが、サンソンは給料未払の件でヴェルサイユ宮殿に直訴しに行った際、ルイ16世に一度会っていたので、すぐに目の前の人物が国王だと分かった。一方、国王の方は、サンソンを覚えていなかった。テュイルリー宮殿で行われたこのギロチン開発会議の際、ルイ16世は開発中のギロチンの図面を見て、人の首の形状は多様であるから、当初の三日月型の刃では上手くいかないことを見抜いた。そして、刃を斜めにしてはどうかと提案した。刃がなぜ斜めなのかというと、刃物というのは真っ直ぐな状態だと切れ味を発揮しないからである。その後、実験の結果、三人の遺骸で試したところ、斜めの刃で2回行って成功し、三日月型の刃は失敗する結果となった。ルイ16世の推測が見事に的中していたのである。暗君として歪曲された形で現在に伝えられている彼だが、実はどれだけ博識な国王だったかが分かる一面である。

断頭台
コンコルド広場に設けられたギロチンを設置したステージ。医師ギヨタンが開発したギロチンによって処刑が簡単に行えるようになったことも、ロベスぺエールが引き起こした惨事に関係している。それ以前は一人処刑するのに時間がかかったため、一日に処刑できる人数が限られていた。当初、ギロチンは被告に苦しみが伴いわないようにという人道的な思想から誕生した。ギヨタンを筆頭に、世襲の処刑人サンソン、そして国王ルイ16世らの下で開発が進められた。ルイ16世は教養が極めて高い知的な王で、初期のギロチンの刃が丸いことに目を付けた。これでは上手く機能しないと見抜き、刃を斜めにしてはどうかと提案した。ルイ16世の仮説通り、ギロチンの刃を斜めにすることで、斬首時の成功率が格段に上がった。

タンプル塔
フランス語ではタンプル、英語ではテンプルと呼ぶ。テンプル塔とは、テンプル騎士団によって建設された要塞である。要塞ゆえに防衛と幽閉者の管理がしやすかったため、ルイ16世やマリー=アントワネットらはここで監禁された。

アメリカ独立戦争
イギリスの植民地だったアメリカが、その独立を目指して奮起し、勃発した戦争。この戦争でフランス及びその他ヨーロッパ諸国はアメリカ側に着き、フランスのラファイエット将軍やスウェーデンのフェルセンも参戦した。アメリカは見事独立に成功するが、フランスは莫大な戦費を被り、更なる貧窮に陥った。フランスは独立戦争を手助けすることで、アメリカとの貿易優遇を狙っていたが、思惑は大きく外れ有利な貿易の立場は獲得できず、ただ戦費を投じるだけとなった。

王妃の暗号書簡
フランス王妃マリー=アントワネットとその恋人フェルセンの間では幾度も書簡のやり取りが交わされた。最も印象的な書簡は、やはりマリー=アントワネットがフェルセンに宛てた最期のメッセージだろう。彼女からの最期のメッセージは「さようなら、私の心はあなたのものです」だった。あまりに直球過ぎる一文が胸を打つ。37歳、パリのコンコルド広場にて彼女は激動の生涯を閉じた。

マリー=アントワネットの最期のメッセージが綴られた書簡の紙片は、フェルセンの日記の1795年3月19日のページに貼り付けられていた。二人の往復書簡はフェルセンによって意図的に隠蔽された部分もあり、判読できない箇所が幾つかある。文字の上からインクで塗り潰されているが、ルーペを使えば読める部分もある。

マリー=アントワネットとフェルセンの往復書簡には暗号が用いられている。二人は自分たちが所持する共通の書籍に登場する単語を暗号を解く鍵とした。書籍の版が異なると指定されたページ数の該当単語がずれるため、同一の版である必要があった。暗号キーの書籍のひとつにモンテスキューによる『ローマ人盛衰原因論』が使用された。

マリー=アントワネットとフェルセンは、薬剤師に特別に調合させた薬やレモン汁を使用して文字を浮かび上がらせる手法も使用した。特別な薬は調合が手間な上、夫のルイ16世もその薬を所持していたため使用が中止された。雑誌やパンフレットの活字の隙間に文字を書き込む暗号法など、二人の間で様々な暗号手法が試された痕跡が窺える。

二人の書簡の文章は暗号化されている上、人名が偽装されており、コードネームも使用されている。例えば、暗号書簡に登場する「ジョゼフィーヌ」や「ブラウン夫人」という名がマリー-アントワネットに該当する。政治の話題には特に細心の注意が支払われた。それゆえ、政治の要人にはアルファベット一文字のコードネームが用いられた。

ローマ人盛衰原因論
1734年出版。原題は "Considérations sur les causesde la grandeur des Romains et de leur décadence"。モンテスキュー(生没:1689〜1755年)による書籍で、古代ローマが滅亡した理由についての考察書。本書でモンテスキューはローマの滅亡原因が共和政を廃し、帝政に移行したことにあると言及している。これはフランスの絶対君主制を否定するものであり、当時のルイ14世の政治方針を批判する挑戦作だった。マリー=アントワネットとフェルセンは、実際に本書からの単語を暗号の鍵として使用していた。他者からの解読を防ぐ意図で鍵は定期的に変えられていたため、本書以外にも複数の書籍が鍵として使用された。

マクシミリアン・ロベスピエール
フランス革命指導者の一人。優秀な人物で、弁護士となった後、国民議会の代議士として頭角表し始めた。高潔、潔白、真っ直ぐな人物で、国民のための共和国を目指したが、次第に逆らう者は全て断頭台に送るテルル(恐怖政治)を実施する。このテルルという言葉は、現在のテロリズムの語源になっている。ロベスピエールは当初、死刑には反対の意見を持つ人物でその廃止を強く訴えていたが、いつの間にか気に食わぬものは手当たり次第、処刑を下す恐ろしい人物になっていた。弟にオーギュタン・ロベスピエールという人物があり、彼も兄同様に革命家だった。ナポレオン・ボナパルトの出世の道を切り開いたのは、実は弟のオーギュタンだった。オーギュタンはテルミドールの反動で兄と共に逮捕された後、断頭台に送られて処刑された。

マリー=テレーズ
ルイ16世とマリー=アントワネットの長女。偉大なるオーストリアの女帝である祖母マリア=テレジアから取られた名である。マリア=テレジアのフランス語発音がマリー=テリーズである。マリー=テレーズはルイ16世の子でフランス革命を生き抜いた唯一の王女だった。タンプル塔の幽閉生活から解放されてウィーンに引き取られたものの、幽閉時の過酷な環境から精神を崩しており、失語症を患っていた。それはタンプル塔での生活が、どれほど悲惨なものだったかを物語っている。その後、後、シャルル10世の長男アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚し、母マリー=アントワネットの祖国オーストリアに亡命し、隠居生活を送った。

ルイ=シャルル(ルイ17世)
ルイ16世とマリー=アントワネットの間に生まれた男児。ルイ16世が断頭台の露と消えた後にルイ17世として即位した。だが、幽閉状態での即位であり、実質上統治権は何もない名目上の王に過ぎなかった。タンプル城の護衛たちから虐待を受け続け、トイレもない牢獄で糞尿に塗れた不衛生な生活を送り、僅か10歳で衰弱死した。



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最後にひとつ、フランスのコインを取り扱ったカタログを紹介して締め括りたい。その名も「ガドリー・カタログ」である。「Gad」という略式名称で前述されているのが本書である。フランスカタログの王者で、初心者から上級者まで、あらゆる人々がこのカタログを使用している。通販の他、一部のコインショップでも取り扱われている比較的手に入りやすいカタログゆえ、大変お勧めである。





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以上、フランス革命期及びその前後に発行されたアンティークコインを年代順で紹介した。フランス王国の最盛期ルイ14世の治世から陰りが見え始めたルイ15世の治世、そして、フランス革命が勃発したルイ16世の治世を経て、革命の動乱に紛れてナポレオンが頭角を表し、彼がブルボン家を差し置いて自身の王朝を築き上げる。

だが、戦争の失敗で失脚し、再びブルボン家の時代が花開き、ルイ18世、シャルル10世の治世が訪れる。しかしながら、シャルル10世の時代と逆光した絶対王政の動きを見せる政策に民衆は怒りを募らせ、ルイ14世の弟フィリップの末裔オルレアン家のルイ=フィリップ1世が王位を手にする。オルレアン家はブルボン家と親戚であるものの、革命派に加わり、ルイ16世の処刑を支持したことからブルボン家からは疎まれていた背景を持つ。ルイ=フィリップはオルレアン家の時代の幕開けを喜ぶも、ブルジョワを優遇した彼の政策は民衆の期待を裏切るもので、強制的に退位させられる運命を追う。

そうして一時的に共和国となったフランスだが、ナポレオン伝説を懐かしむ民衆も多く、ナポレオン3世が登場する。だが、彼もプロイセンとの普仏戦争の失敗で退位を余儀なくされる。以降、フランスが君主を戴くことはなく、現在にまで至る。

ちなみに、ナポレオン3世の息子でナポレオン4世(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト)と呼ばれた人物がいる。彼は正式には即位しておらず、ボナパルティスト(熱烈なナポレオン支持者)が勝手にそう敬称していただけである。ナポレオン4世は軍隊に入団したが、戦地の原住民に襲われ若くして亡くなった。

このように近代フランスの歴史は、複雑怪奇と言わざるを得ない。最も激しく国が変容した時代とも言えるだろう。

【主要参考文献】
ルネ・セディヨ著、山崎耕一訳『フランス革命の代償』草思社文庫、2023
柴田三千雄『フランス革命』岩波書店、2007
安達正勝『マラーを殺した女』中央文庫、1996
メルシエ著、原宏訳『十八世紀パリ生活誌 上』岩波文庫、1989
メルシエ著、原宏訳『十八世紀パリ生活誌 下』岩波文庫、1989
オクターヴ・オブリ編、大塚幸男『ナポレオン言行録』岩波文庫、1983
エドマンド・バーク著、佐藤健志訳『新訳 フランス革命の省察』PHP、2011
中野京子『名画で読み解くブルボン王朝 12の物語』光文社新書、2010
柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006
遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』岩波ジュニア新書、1997
安達正勝『死刑執行人サンソン』集英社新書、2003
安達正勝『マリー・アントワネット』中公新書、2014
佐藤賢一『ブルボン朝 フランス王朝史3』講談社現代新書、2019
佐藤賢一『フランス革命の肖像』集英社新書、2010
安達正勝『物語 フランス革命』中公新書、2008
野崎歓『フランス文学と愛』講談社現代新書、2013
池上俊一『お菓子でたどるフランス史』岩波ジュニア新書、2013
八幡和郎『愛と欲望のフランス王列伝』集英社新書、2010
的場昭弘『マルクスで読み解く世界史』教育評論社、2022
中野京子『マリー・アントワネット 運命の24時間』朝日新聞出版、2012
ミシェル・ビアール著、小井髙志訳『自決と粛清』藤原書店、2023
飯塚信雄『デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット』文化出版局、1985
エレーヌ・ドラレクス著、ダコスタ吉村花子訳『麗しのマリー・アントワネット』グラフィック社、2016
ダニエル・ステルン著、志賀亮一・杉村和子訳『女がみた一八四八年革命 上』2022
ダニエル・ステルン著、志賀亮一・杉村和子訳『女がみた一八四八年革命 下』2023
ウィル・バショア著、阿部寿美代訳『マリー・アントワネットの髪結い』原書房、2017
アンタール・セルプ著、リンツビヒラ裕美訳『マリー・アントワネットの首飾り事件』彩流社、2008
新人物往来社編『王妃マリー・アントワネット』新人物往来社、2010
岩井淳・山崎耕一編『比較革命史の新地平』山川出版社、2022
神野正史『世界史劇場 フランス革命の激流』ベレ出版、2015
池田理代子『フランス革命の女たち』新潮社、1985
長谷川輝夫『図説 ブルボン王朝』河出書房新社、2014
芝生瑞和『図説 フランス革命』河出書房新社、1989
竹中幸史『図説 フランス革命史』河出書房新社、2013
佐々木真『図説 フランスの歴史』河出書房新社、2011
松浦義弘『ロベスピエール』山川出版、2018
松浦義弘『フランス革命の社社会史』山川出版、1997
エヴリーヌ・ルヴェ著、遠藤ゆかり訳『王妃マリー・アントワネット』創元社、2001
バーバラ・レヴィ著、喜多迅鷹・喜多元子訳『パリの断灯台』法政大学出版局、1987
エヴリン・ファー著、ダコスタ吉村花子訳『マリー・アントワネットの暗号』河出書房新社、2018
パウル・クリストフ著、藤川芳郎訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』岩波書店、2015
福井憲彦『教養としてのフランス史の読み方』PHP、2019
ピエール=イヴ・ボルペール『マリー・アントワネットは何を食べていたか』原書房、2019
惚領冬美・塚田有那『マリー・アントワネットの嘘』講談社、2016
ロバート・ダーントン著、近藤朱蔵訳『革命前のフランス人は何を読んでいたのか 禁じられたベストセラー』新曜社、2005
五十嵐武士・福井憲彦『アメリカとフランスの革命』中央公論社、1998
ジュール・ミシュレ著、瓜生純久訳『抄訳 フランス革命史』本の泉社、2018
ピーター・マクフィー著、高橋暁生訳『ロベスピエール』白水社、2017
ウィリアム・リッチー・ニュートン著、北浦春香訳『ヴェルサイユ宮殿に暮らす』白水社、2010
ジャック・ルヴロン著、ダコスタ吉村花子訳『ヴェルサイ宮殿 影の主役たち』河出書房新社、2019
ピーター・マクフィー著、永見瑞木・安藤裕介訳『フランス革命史 自由か死か』白水社、2022
イネス・ド・ケルタンギ著、ダコスタ吉村花子訳『カンパン夫人』白水社、2016
エマニュエル・ド・ヴァレスキエル著、土居佳代子訳『マリー・アントワネットの最後の日々 上』原書房、2018
エマニュエル・ド・ヴァレスキエル著、土居佳代子訳『マリー・アントワネットの最後の日々 下』原書房、2018
石井美樹子『マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女』河出書房新社、2014
クリスティーヌ・ル・ボゼック著、藤原翔太訳『女性たちのフランス革命』慶應義塾大学出版会、2022
エマニュエル・ド・ヴァリクール著、ダコスタ吉村花子訳『マリー・アントワネットと5人の男 上』原書房、2020
エマニュエル・ド・ヴァリクール著、ダコスタ吉村花子訳『マリー・アントワネットと5人の男 下』原書房、2020
T.C.W.ブラニング著、天野知恵子訳『フランス革命』岩波書店、2005
山崎耕一『フランス革命』刀水書房、2018
福井憲彦『一冊でわかるフランス史』河出書房新社、2020
安達正勝『フランス革命の志士たち』筑摩書房、2012
柴田三千雄『パリのフランス革命』東京大学出版会、1988
鈴木杜幾子『画家たちのフランス革命』角川選書、2020
藤本ひとみ『マリー・アントワネットの生涯』中央公論社、1998
ジャン=クリスティアン・プティフィス著、土居佳代子訳『12の場所からたどるマリー・アントワネット 上』原書房、2020
ジャン=クリスティアン・プティフィス著、土居佳代子訳『12の場所からたどるマリー・アントワネット 下』原書房、2020
シュテファン・ツワイク著、高橋禎二・秋山英夫訳『マリー・アントワネット(上)』岩波文庫、1980
シュテファン・ツワイク著、高橋禎二・秋山英夫訳『マリー・アントワネット(下)』岩波文庫、1980
ドミニク・フゥフェル著、ダコスタ吉村花子訳『ちいさな手のひら辞典マリー・アントワネット』グラフィック社、2021
F・クライン=ルヴール著、北澤真木訳『パリ職業づくし』論創社、2015
千葉治男『ルイ14世 フランス絶対王政の虚実』清水書院、2018
佐々木真『ルイ14世 太陽王とフランス絶対王政』河出書房新社、2018
江村洋『マリア・テレジアとその時代』東京書籍、1992
エリザベート・バダンテール著、ダコスタ吉村花子訳『女帝そして母、マリア・テレジア』原書房、2022
小倉孝誠『19世紀フランス 愛・恐怖・群衆』人文書院、1997
小倉孝誠『19世紀フランス 光と闇の空間』人文書院、1996
アレクサンドル・パラン=デュシャトレ著、小杉隆芳訳『十九世紀パリの売春』法政大学出版局、1992
塚本哲也『マリー・ルイーゼ』文藝春秋、2006
ローラン・ジョフラン著、渡辺格訳『ナポレオンの戦役』中央公論社、2011
前川清『ドゴールとナポレオン』PHP研究所、1989
上垣豊『ナポレオン』山川出版社、2013
ティエリー・レンツ著、福井憲彦訳『ナポレオンの生涯』創元社、1999
フローラ・フレイザー著、中山ゆかり訳『ナポレオンの妹』白水社、2010
ジョン・ストローソン著、城山三郎訳『ウェリントン公爵と皇帝ナポレオン』新潮社、1998
マイク・ラポート著、楠田悠貴訳『ナポレオン戦争』白水社、2020
エナ・バーリー著、竹内和世訳『ナポレオンのエジプト』白揚社、2011
草場安子『ナポレオン 愛の書簡集』大修館書店、2012
神野正史『世界史劇場 駆け抜けるナポレオン』ベレ出版、2015
松嶌明男『図説 ナポレオン』河出書房新社、2016
松村劭『ナポレオン戦争全史』原書房、2006
鹿島茂『怪帝ナポレオンIII世』講談社、2004
窪田般彌『皇妃ウージェニー』白水ブックス、2005
アリステア・ホーン著、大久保庸子訳『ナポレオン時代』中公新書、2017
野村啓介『ナポレオン四代』中公新書、2019
アンリ・カルヴェ著、井上幸治『ナポレオン』白水社、1996
ティエリー・ランツ著、幸田礼雅訳『ナポレオン三世』白水社、2010
杉本淑彦『ナポレオン』岩波新書、2018
高村忠成『ナポレオン入門』第三文明社、2008
池内紀、南川三治郎『ハプスブルク物語』新潮社、1993
加藤雅彦『図説 ハプスブルク帝国』河出書房新社、1995
稲野強『マリア・テレジアとヨーゼフ2世』山川出版社、2014
弓削尚子『啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004
新人往来社編『ハプスブルク 恋の物語』新人往来社、2012
倉田稔『ハプスブルク歴史物語』日本放送出版協会、1994
中野京子『ハプスブルク家 12の物語』光文社新書、2008
関田淳子『花と緑が語るハプスブルク家の意外な歴史』朝日新聞出版、2018
菊池良生『ウィーン包囲』河出書房新社、2019
池谷文夫『神聖ローマ帝国』刀水書房、2019
A.J.P.テイラー著、倉田稔訳『ハプスブルク帝国』筑摩書房、1987
永田智成、久木正雄『一冊でわかるスペイン史』河出書房新社、2021
立石博高、黒田祐我『図説 スペインの歴史』河出書房新社、2022
立石博高編『スペインの歴史』昭和堂、1998
マリア・ピラール・ケラルト・デル・イエロ著、青砥直子・吉田恵訳『スペイン王家の歴史』原書房、2016
Victor Gadoury “MONNAIES ROYALES FRANÇAISES 1610-1792” 2018
Victor Gadoury “MONNAIES FRANÇAISES 1789-2021” 2021

*通称ガドリー・カタログ。Gadという略称で前述されているのが本書。フランスカタログの王者で、初心者から上級者まで、あらゆる人々がこのカタログを使用している。通販の他、一部のコインショップでも取り扱われている比較的手に入りやすいカタログゆえ、大変お勧めである。


*掲載画像はコイン及びカタログ共に筆者私物を撮影し掲載した。



Shelk 🦋


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