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マークの大冒険 常闇の冥界編 | 遅すぎた真実

前回までのあらすじ
俺はマークと共に冥界の最上階まで来ていた。案内人の英雄アキレウスが言うには、目の前の巨大な扉の向こうには、冥界王ハデスと怪獣ケルベロスが待ち受けているという。ここでの戦いに敗れれば、俺たちは本当の意味で死ぬことになる。緊張と恐怖が入り混じった感情に俺は押し潰されそうだった。だが、この感情は前にもどこかで俺は味わったことがある。そう遠くない日の出来事だったような気がするが、上手く思い出せない_____。



赤煉瓦のキャンパス、旧校舎の教室にて_____。



教室の窓は、小さく開けられていた。その隙間から入るそよ風がカーテンを静かに揺らしている。この時間帯の陽光はカーテンを黄金色に輝かせ、教室の中を優しく包み込む。宙に舞う埃さえ、宝石のように煌めき、全てが愛おしく見えた。そんな日の放課後、俺たちは先ほどまで考古学の授業が行われていた教室で、互いの夢を語り合っていたんだ。



「これ、読み終わったから貸すよ」

マークは、鞄から分厚い洋書を取り出した。

「A Dictionary of Late Egyptian?」

A Dictionary of Late Egyptian Vol.1 & Vol.2


「世界で唯一の新エジプト語を取り扱った辞書なんだ。上下巻でワンセット。ファーストより、こちらのセカンド・エディションの方が入手が難しくてね。もともと部数が少ない上、ほとんどが海外の大学図書館に入るか、欧米の研究者に渡ってしまって国内での入手は難しいのだけれど、作者夫妻の手持ち在庫から分けてもらったんだ。作者が一度は手に取っていたことを考えると、ボクのような古書マニアはそっちにもワクワクするね」

「凄く高価なんじゃないか?」

「高価だが、それを上回る価値が十分ある。それで、新エジプト語はグループ・ライティングと呼ばれる綴りと発音が一致しない厄介な局面が訪れるからね。そうした時に役立ってもくれるから、読んで損はないよ。いつでも好きな時に返してくれれば良いさ」

Leonard H. Lesko & Barbara Switalski Lesko
A Dictionary of Late Egyptian Volume 1 & 2. 2nd edition.
現状、世界で唯一の新エジプト語を取り扱った辞書。レスコー夫妻によって著された。本書は出版から20年以上経過しており、掲載情報の安定性に一部問題が見られるとも指摘されるが、その点を理解した上で使用すれば極めて心強いパートナーなる。文法書ではなく辞書であるため、必ずしも現場の碑文がこれで読解できるようになるわけではないが、それでも所有者の強力な武器のひとつになることは間違いない。新エジプト語の文法書は、J. Cerny, S. Israelit-Groll, C. Eyre, A Late Egyptian Grammar 4th edition, Biblical Institute Rome, 1984を参照せよ。

新エジプト語
古代エジプトの語の発展段階のひとつ。古代エジプト語は大きく分けて、初期エジプト語、古エジプト語、中エジプト語、新エジプト語、デモティック・エジプト語、コプト・エジプト語の6段階に分類されている。

グループ・ライティング
新エジプト語に顕著に現れる外来語綴りの音節表記法。Gardiner 1957; 60, Hoch 1994; 497ff, Allen 2014; 261を参照せよ。

「本当に良いのか?」

「もちろん。天才マーク様は、頭の中に既にインプット済みだからね。それと、これも。バッジのエジプト・ヒエログリフ辞書は安定性に賛否両論あるが、結局は使い手の力量だと思う。使える部分も多くある。知識ある人が、それを理解した上で扱えば有用ってわけさ。これも上下巻でワンセットだけど、家にもうワンセット持ってるから、キミにあげるよ。父さんがボクがまだ持ってないと思って、間違って買ってしまったんだ」

An Egyptian Hieroglyphic Dictionary Vol.1 & Vol.2

E. A. Wallis Badge
An Egyptian Hieroglyphic Dictionary Vol.1 & Vol.2
ウォーリス・バッジによって著されたエジプト・ヒエログリフ辞書。研究者からは内容が古いとして嫌厭されている。だが、コプト・エジプト語の単語、死者の書に登場する単語などの掲載が充実しており、実はかなり有益な書。使いこなせるかは、所有者の実力次第というわけである。

ウォーリス・バッジ
20世紀英国で活躍した古代エジプト語の研究者。辞典製作の他、『死者の書』を分類した功績を持つ古代エジプト学のレジェンドの一人 。

「さすがに悪いよ」

「良いんだ。ボクがダブって持っているより、キミが持っていた方が本のためにもなる。それに、キミならきっと使いこなせると思う」

「本当に助かるよ。持つべき者はやっぱ友人だな」

「ああ、間違いない。ボクの夢は、自分に関わった人全てを幸せにすることだ。だからボクに関わったキミは、ラッキーだな」

「最後の一言がなければ、完璧なのにな」

「ミロのヴィーナスのように不完全だからこそ美しい!」



🦋🦋🦋



冥界の扉


「ハデスとケルベロスを倒す必要はない。ボクらは地上に繋がる扉を開けて脱出さえすればいい。ボクが時間を稼ぐから、キミが扉を開けるんだ。文献によれば、扉は巨大で重く、開くのは困難かもしれない。だが、かつて一人だけ脱出に成功したオルフェウスという人物がいる。望みは決してゼロじゃない。可能性はある」

オルフェウス
ギリシア神話に登場する吟遊詩人。亡くなった妻エウリュディケを取り戻すために冥界に乗り込み、天才的な竪琴の腕前でハデスとペルセポネを感動させ、エウリュディケを連れて冥界から地上に上がることを許可された。オルフェウスはハデスから、冥界から地上に行く際に決して振り返ってはならないとの条件を出された。だが、冥界の出口の寸前でエウリュディケが着いて来ているか不安になって振り返ってしまい、彼女を現世に連れ戻すことに失敗し、悲嘆に暮れた。

「でも、それじゃお前が危険すぎる。俺が囮になった方が」

「橘......。やっぱりハデスと戦う前に話しておかないといけないことがある。ここで言わなければ、何だか後悔する気がする」

「タチバナ?」

「それがキミの名だ。ボクも気づかぬうちに記憶を失っていたみたいだ。途中までキミの顔を忘れていたよ」

「は?」

「ボクとキミは友人だった。エジプトの発掘調査に一緒に行ったじゃないか?サッカラ未盗掘の墓の発見前夜、ボクらは夜空の下で共に研究者の道に進むことを誓ったんだ。キミは優秀だった。なぜだ、橘。なのにどうして自らここに赴くようなことを」

「......!!」

「......思い出したみたいだね」

「マーク、俺はお前が羨ましかった。裕福で才能もあって、何でも持ち合わせていた。お前がいつも高価で稀少な研究書を読み終わったら貸してくれるのが嬉しかった。だけど、同時に凄く虚しくもなった。俺は何も返せなかったし、心底自分の立場にウンザリした」

「ボクはキミの感想が聞けるだけで良かったんだ。見返りも何も求めてはいなかった」

「マーク、持たざる者は何も望んではいけないんだ。どうせ叶わないのだから、望めば望むほど虚しくなる。

「そんなことはない。情熱さえあれば、遠回りしても夢はきっと叶う!」

「ドラマみたいに人生はそう上手くいかないよ。何とか卒業はできたけど、資金面で俺は完全にショートしていた。卒業した瞬間に奨学金の返済で借金まみれ。研究者志望で就活は出遅れていたし、母さんが倒れてからは介護で全ての時間が溶けていった。最初は何とかバイトで食い繋いで、研究者の道を目指したさ。煮えたぎるような情熱があった。でも、ある日もう無理だと思った。心が突然ポッキリと折れたんだ。心が軋んで砕ける音が聞こえるようだった。それから身体に力が入らなくなった。力の入れ方が急に分からなくなって、しばらく白い天井だけを見ていたよ。起き方も、歩き方も、何もかも忘れてしまった。呼吸するだけでも精一杯だった。このまま一生この生活から抜けられないなら、もういっそ消えたいと思った」

「どうしてボクに話してくれなかったんだ。卒業してから連絡しても全く連絡がつかなかった。何度もキミに会おうとした」

「ライバルだと思ってたから。お前に頼るのが辛かった。自分が惨めに思えて」

「友達が頼り合うのは、いけないのか?」

「何でも持ってるお前は、いつも無邪気で、嫉妬心のかけらさえなかった。でも俺は、毎日妬みと嫉みしかなかったよ。お前と接する度に自分の醜さに胸がはち切れそうだった。だから、もう会わない方が良いと思った。お前ほど良い奴はいない。それは断言できる。でも、俺のような濁った心の人間には、それが綺麗すぎて辛かったんだ」

「橘......。いろいろと気づけなくて申し訳なかった。ボクはただ、共感する相手が欲しかっただけなんだ。それが知らぬうちにキミを傷つけているとは思いもしなかった_____」


Shelk 🦋

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