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小説 | テセウスの歯 #1

全12話(43,519字)

あらすじ

斉藤千鶴さいとうちづるは非正規雇用で八年勤めた会社を退職した。
数年分働いた疲れを数ヶ月掛けて取り除く。貯金を切り崩して、体勢を立て直すために。
そう思って行った先の歯医者で提示されたのは一本八万円の素材の歯だった。
失業保険を受給するための申請をする中、千鶴は転職活動を始めた。誰かのいた場所に収まるために。
全ての歯がセラミックに入れ替わった時、果たして私の歯であると言えるのか。
全ての人が入れ替わった時、果たしてその会社は同じままだと言えるのだろうか。

非正規雇用からの転職活動。
長いようで短い夏休みが始まる。
千鶴は無事ブラック企業ループから抜け出すことができるのか。
雇用形態の是非を問う社会派小説。

第1話

「型を取る治療ならこちらがお勧めです」

 指し示されたのは一本八万円もする素材の歯だった。それは私の生活を脅かすのに、十分すぎる値段だった。

「一本の、お値段なんですよね?」

 喉元で言葉がつっかえる。全部でだったらいいのに、なんて淡い期待は呆気なく打ち崩される。

「はい、そうです。こちらは完全にセラミックでできていて、変色も起こらず、丈夫な素材です。斉藤さいとうさんの場合だと、古い詰め物が変色してしまっていて、黒くなっている状態の歯が八本。虫歯はそのうちの五本ですね」
「こちらの三万円台のは?」
「そちらはセラミックとプラスチックでできたもので、今の詰め物と同じ素材です。なので数年で変色してしまうのと、先程のものと比べると耐久度が下がってしまうので、やはりまた虫歯になっちゃう可能性があります」

 歯科衛生士は明るい声でハキハキと、自信を持って八万円の歯をお勧めしてくる。

「……ちょっと、お金が入り用なので考えさせてください」
「はい、承知しました。それでは今日は前歯の施術を始めますね。こちらは型取りが必要ないので、お安く済みます」

 私の口の中に、純粋な私の歯が何本残っているか分からないが、詰め物が入っていない歯はほとんどない。母は二十年歯医者に行っていないというのが自慢で、確かに歯が綺麗に保たれていた。私は父親譲りなのか、虫歯になりやすい。

 父は四人兄弟の三番目、長男として育った。下に妹が生まれたためにあまり手を掛けられず、乳歯は全て虫歯で埋め尽くされていたらしい。

 歯の耐久年数が短いのは神様の設計ミスだと思う。虫歯を放置すると虫歯菌が脳や心臓に回り、脳梗塞や心筋梗塞、敗血症を起こすという。歯医者がなかった時代には、死因の上位を占めていたとも。つまり歯医者の台頭が人類の寿命を延ばしたと言っても過言ではない。

 神様の設計ミスがなかったら、必要とされなかった仕事。そのために私は月給の何倍もの金額を払わなければならない。ならちょっとぐらい恨んだっていいでしょう、神様?

「椅子を倒すので、背もたれにもたれてください」

 歯科衛生士の言葉に従い、椅子に身を委ねる。

「お口いててくださいね」

 この人たちにとって私には「口」であることの役割しか求められていないんだろう。まるで排水口のぬめりを落とすように、高圧洗浄機で汚れを落とすように、汚いものを綺麗にすることこそが彼女たちの使命であり、与えられた任務であった。

「斉藤さん、お待たせしました。本日の施術を担当する新川あらかわです。よろしくお願いします」

 身なりが整えられた壮年の男性が現れる。年の頃は近いだろうか。施術を受けるために化粧もせずに来た私とは正反対だ。無防備な状態を晒しながら、私は軽く会釈をする。

「麻酔打ちますね。チクッとしますよ」

 上唇を限界まで捲り上げて、細い針が皮膚を突き破りそうなくらい奥まで差し込まれる。次第に感覚が麻痺してくる。

 麻酔の効能は凄まじく、水に打たれ風に煽られ、穴を穿たれ削り取られているのに、何も感じなくさせられている。まるで今の私のようだと思う。

 置かれた場所で咲きなさいと、人は言う。誰が好きで口の中なんかに生えてきたいだろう。生まれた時から次々に押し込まれた食べ物を処理して、ろくに掃除もされず、悪くなれば削り取られる。

 不完全な社会構造の中で、私の持ち場が決まってしまっただけ。非正規雇用に身を置きたい訳がない。置かれた場所が歪で整備されていないのは、本当に私のせいだろうか。ただ身を置くだけで傷み削られるこの場所が、完全なものだとは思えなかった。

 医師は私の歯をゴリゴリと削り取り、歯によく似た色の何かを詰め込む。それは見分けがつかないほど歯に馴染み、元の歯との区別が付かなくなった。もしも私の歯が全てセラミックに入れ替わっても、誰も気付かないだろう。果たしてそれは私の歯と言えるのだろうか。

 まるでテセウスの船だ。朽ちた木材を徐々に新しい木材に置き換え、その全ての部品が置き換えられた時、果たしてその船は元の船と同じものだと言えるのだろうか。

 横に控えた歯科衛生士が恭しく鏡を差し出す。仕上がりを確認する。白く滑らかな歯には、どこにも境目がないように見えた。

 私の歯はまだ、私の歯のままなのだろうか。

「今日の治療はここまでです。今後のお話ですが、恥ずかしながら私がオールセラミック以外の施術をした経験がなくて。もちろん斉藤さんが選ばれたなら、最善を尽くします。ただせっかくお金を掛けていただくので、永久保証の効くものの方がお勧めではあります。次回までに考えてきてもらえますか」

 歯科医師は人の良さそうな笑顔で言う。歯を治すほどのお金もないなんて惨めな思いをせずにいられるのは、神様の設計ミスのお陰なのに。神様の設計ミスがなければ、医者の肩書きも得られなかったと言うのに。どこか憐れむような視線が、癇に障った。

 生まれ変わったら路傍の石になりたい。同じ風雨に抉られるなら、薬剤の香りではなく、草の匂いがする草原に生えたい。削り取られようと穴が穿たれようと、私が私のままでいられる場所で。

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