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小説 | テセウスの歯 #2

第2話

 ハローワークのパソコンの前で、頬杖をついてモニターを眺めていた。モニターの向こうでは様々な情報が流れては消えていく。聳え立つ灰色の建物の中は全体的に薄暗く、煙草のヤニのような黄色いフィルターに覆われて見える。

 会社を辞めたのは、先輩社員が家を購入した直後に会社が単身赴任を言い渡したから。逃げられないタイミングを見計らって網に絡め取り、その穴を埋めるように遠方から独身の社員を異動させた。

 家を買おうにも会社が腰を落ち着かせてくれない。独身社員はいつまで経ってもひとところに身を置くことがない。結婚しても家のローンに縛られ、会社の言いなりになるしかない。先輩は家を建てたばかりなのに、奥さんが一人残されて別居生活を送っている。奥さんとの仲は冷え切っているらしい。せっかくの新婚生活なのにこの状況では、当然のことだと思う。

 会社は社員の事情を考慮してくれない。社員の人生の責任をとってくれない。特に契約社員は。会社は私の生活を保障してくれはしない。契約更新の話が来た時、私はそれを断った。正社員登用の話もあったが、その話を聞いてからもう八年も経つ。仮に正社員に登用されたとしても、今の会社ではこの体制はきっと変わることがない。

 私に残されたのは八年の非正規雇用の職歴と、唯一仲が良かった先輩と繋がっているSNSアカウント、ささやかな送別会で贈られた花束だけだった。

 契約が切れた後、しばらく休むことにした。会社勤めになってから、まとまった休みを取っていなかった。非正規雇用にとって、給料は時間に比例するものだ。休みなく働いてようやく手に入る平均程度の給料。だけど慎ましく暮らせば半年生きられるくらいの貯蓄はある。数年分働いた疲れを数ヶ月掛けて取り除くのだ。貯金を切り崩して、体勢を立て直すために。

 そう思って年金と健康保険の手続きを済ませ、新しい保険証が届いてやっと落ち着いて歯医者に行ったのに、提示された一本八万円。全て治療したらあっという間に貯蓄は尽きてしまう。早く就職、せめて失業保険を貰わないと休むこともままならない。

 転勤に伴い引っ越してから二年。落ち着いたら歯医者に行こうと思っているうちに二年の年月が経過していた。昔父が歯医者に通い出したら異動になると言っていたが、今なら理解できる。落ち着いたら歯医者に行く。それはつまり、会社にとってはそろそろ異動させるか、というタイミングと近しいのだろう。

 でももう、会社の人事異動に躍らされることはない。引越しの必要のない企業に再就職する、それが当面の目標だった。

 窓口に離職票と求職票を提出し、待機期間に入る。求職活動の実績を作るためには職業相談を受ける必要がある。相談する前に気になる企業を探そうとひたすらモニターに条件を入力していく。年間休日。給料。業務内容。いずれかが前職を越えればそれでいい、はずなのに。一つずつ条件を下げていっても表示は0件のままだった。

 職にありつけるだけ有難いと思えと言わんばかりの条件の企業ばかりが表示される。セーフティーネットであることが明記されていても、底辺、奴隷市場だと言われても仕方がないだろう。

 失業保険が給付されるまでには雇用保険受給説明会と失業保険認定日に出席する必要がある。今日はそのためにハローワークに来た。だが今後四ヶ月、毎月失業保険認定日に出なければならない。仕事が決まるまで、繰り返しずっと。どうせまたこの場所に来る必要がある。だったら、相談も別に今日じゃなくてもいい。私は席を立った。

 建物を出て駅を目指す。炎天下、首の後ろがジリジリと焼け焦げていく感覚がする。顎先から汗が滴り落ち、アスファルトに黒い染みが広がった。朝から何も食べていない。熱中症になる前に何かを口にしなければならない。下を向いて歩いていた私の目線に、突如としてランチメニューの看板が現れた。値段を確認し逡巡した後、歩いて探す手間を考え、たまの贅沢を楽しむことにした。

「いらっしゃいませ、空いてる席にどうぞ」

 ドアを開くと酒焼けした中年女性の明るい声が出迎えた。夜は酒類も提供しているらしかった。私は軽く頷き、案内されるがままカウンター席に座る。客はランチタイムが始まったばかりだったこともまばらだったが、すぐに席が埋まり始める。本当はテーブルの広い席が良かったが、致し方ない。

 ランチが届くまでの間と、鞄の中から履歴書を取り出す。年を調べながら学歴と職歴の欄を埋める。契約満了で辞めた場合、履歴書には契約期間満了退職と書くことになる。でも雇用主からの更新継続の打診を断った私の場合、ハローワークでは自己都合退職の扱いになる。

 自己都合による退職の場合は失業保険を受給するのに二ヶ月間の給付制限期間がある。つまり無収入の期間が発生する。この待機期間が自己都合でも七日間で受給できるようになるというニュースが少し前に流れたが、タイミングの悪いことに私はその恩恵に与れない。

 ウェイトレスと呼ぶには些か年嵩の増した女性がお冷を持って現れる。私は本日のオススメを頼む。単品で。

「オススメね。ドリンクは?」
「お冷で大丈夫です」

 少しでも節約しなければならない。仕事をしていた頃、ドリンクとサラダを別で付けていた。今にして思えば、どちらか片方だけにしておけば、そのお金が今残っていれば。積もり積もって、何の気兼ねもなく歯を治すことができただろう。冷たい水を口に含むと虫歯に染み、私は顔を顰めた。

 カウンターの奥の厨房では数名の男性が忙しなく料理を作っている。出来上がったそれらを女性が一人でキビキビと配膳していく。阿吽の呼吸でと言おうか、間を置かずに最短の道筋を辿って、最適なタイミングで。その動作は彼女の日常に溶け込んでいて、他の誰にも代替できないような仕事振りだった。

 そろそろ私の順番が巡ってくるだろうと、私は履歴書をしまい、転職サイトを検索する。様々な民間の転職サイトが検査画面を彩る。私は更に絞り込みをかける。

「転職 二十代後半 女性」

 結婚の予定があろうがあるまいが、退職の予見があろうがあるまいが、私はここにカテゴライズされる。

 休日重視で検索すると「未経験可」「休みやすい職場」「残業ほぼゼロ」の文字が並ぶ一方で、キャリアアップで検索するとそれらの表示は全て消える。月給が高く表示されている会社には、みなし残業代が含まれている。

 最低賃金は上がっていくのに、月給で働く社員の給料は上がらない。時給に換算すると正規雇用よりも非正規雇用の方が高い会社もゴロゴロしている。

 本来生きるために仕事をするべきで、仕事をするために生きている訳ではないのに。資格がある訳でもなく、潰しがきく仕事に就いていた訳でもない私が入れる会社なんてどこにもない気がした。

「お待たせしました。オススメです」

 カウンターに置かれた日替わりランチは値段の割にボリュームがあった。湯気の立つそれに多少の食欲は湧くが、全て食べ切れる自信がない。何ならタッパーに詰めて晩御飯として持って帰りたい。

 ランチを口に運びながら、私は画面をスクロールし続けた。ひょっとしたらどこかに私にしかできない仕事があるんじゃないかと一縷の望みを懸けて。だけど当然のことながらそんなものはどこにも存在しなかった。

 回転率を気にした店員がチラチラと目線を向ける。昼のピークタイム、入り口にはサラリーマンの列が並んでいる。申し訳なさが先立つが、中々箸は進まない。小学校の給食の時間を思い出す。最後の一口を食べ終わるまで外に出ることはできない。ただ漠然とした不安が喉元につっかえて、食事は喉を通らなかった。結局私は半分以上を残し、逃げるように店を出た。

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