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小説 | テセウスの歯 #3

第3話

 翌朝、何度目かの目覚ましのスヌーズの音で目を覚ますと、予定していた時刻から四十分が経過していた。服を着替えたらすぐにでも家を出なければならない。二回目の歯医者の予約の日だった。毎日のルーティンがなくなった体内時計に身を任せていたら、いつの間にかギリギリの時間になっていた。申し訳程度に歯を磨き日焼け止めを腕に塗り、玄関先に置きっぱなしにしていた鞄を手に掴んだ。

 玄関の扉を開けると、コツンと何かが当たる音がした。それを目にした瞬間反射的に飛びのく。蝉の死骸だった。生きていたら飛び上がって部屋の中に入ったかもしれない。生きていなくて良かったと、心の奥底から安堵した。

 命の価値は平等だと口では言いながら、死を願っている。人間は愚かだと思う。虫ならいい。人間なら良くない。それは理性の線引きであり、本当はもっと深いところで本能的に線を引いている。例えば快不快の指数によって、ルッキズムに特化した美醜の区別によって、時には人間よりも哺乳類の命に傾く天秤がある。本当は命の価値は不偏ではなく、主観によって格付けがされている。

 そっと扉を閉め、足早に歩き出す。歯医者まで十分ほど歩く必要がある。遮光の日傘を開きながらアパートの階段を駆け降りる。陽射しの弱い午前のうちにと予約を入れたが、朝でも十分暑い。外気に触れただけでじわりと汗が滲む。いつもより歩幅を大きく広げ先を急ぐ。

 頭上から蝉の鳴き声が降り注ぐ。道路脇の桜並木は夏になると蝉の声がうるさく、死骸がよく落ちている。たまに生きているから、目にした瞬間反射的に飛び上がってしまう。

 何年か前に、蝉の寿命は一週間よりも長いという研究成果が発表され、高校生が何かの賞を獲ったという。小学一年生からの長きにわたる自由研究により、蝉の寿命は一週間という定説は覆された。

 一週間の命なら仕方ないかという同情的な視線は取り払われ、ただ交尾をしたいと鳴く声に、死してなおその死骸の処理に、煩わされる市民感情が膨れ上がる。

 このまま独居老人になったら、やはり蝉と同じような扱いになるのだろう。存在を許してやっているだけで、勝手に死ぬことは許されない。誰かに後始末を押し付けてから死ね。それが婚姻制度であり、子を成すことの意味なのだろう。

 今時実績のある婚活サイトに登録するにも先立つものがいる。無料のサイトで成功する人たちは結局のところ出会いの場がただオンラインになっただけで、リアルで出会っていたとしても順当にカップリングが成立していた人たちにすぎない。取り立ててセールスポイントをアピールできない女は結局、金の力に頼らないと市民権を得ることができない。

 もちろんそれが個の幸福に繋がるのであれば問題ない。好きにすればいい。だがこの国の婚姻制度は経済的に優遇されるための、他者からの追求を逃れるための手段と化している。契約結婚などという言葉が蔓延る世の中だ。今あるこの経済的な不安を消し去るための逃避。十分な公助を受けられない女の自助努力を婚活と呼ぶ。

 人は活動が報われることを願っている。今ある不安と将来への理想を天秤に掛けて、両者が釣り合う場所で妥協する。理想のパートナーを得ること。理想の仕事を見つけること。そのどちらを求める活動も、報われるかどうか分からない。だから人は自らの選択を最良だったと信じたい。他人と比較して自らは恵まれていると自分を納得させ、幸福だと言い聞かせている。

 一人でいるより二人の方がいい。そうして確保したはずの金銭的安全性を投げ出して一人二人と子を設け、忙しさを言い訳に自らの息苦しさに蓋をしている。

 血縁とは最も逃れがたい呪縛である。自らが末代とならないように、先々の子孫に負債を遺し、そのツケを払わせる行為を連綿と続けている。
 果たしてそこまでして私が、人類が生き延びる意味はあるのだろうか。勝手に死んではならない。ただそれだけのために無為に生き永らえている。

 早足で歩くサンダルのソールに蝉の死骸が当たり蹴り上げた。軽い体は宙に浮き、やがて音を立てて落ちた。転がった蝉の死骸をジッと見つめる。滴り落ちた汗は地面に広がり、まるで血痕のように見えた。

 自動ドアが開くと冷気が溢れてくる。外が地獄だとしたら、ここは極楽なのだろう。人工的に冷やされた建物から高みの見物をして、まるで対岸の火事だ。火の車に乗せられる熱さなど知らずに生きているに違いない。

「斉藤さん。斉藤千鶴ちづるさん」

 受付を済ませ診察室に通される。ここまで来ると外の熱気は微塵も感じられない。まるで別世界だった。

「治療の方針ですが、どうされますか?」
「虫歯のある歯だけ治療してください」
「かしこまりました。種類はどうします? ハイブリットにされますか?」
「どれのことですか?」

 聞き覚えのない単語に、反射的に質問を返す。セラミックという素材と金額しか覚えていなかった。

「ハイブリットはセラミックとプラスチックが混ざったものですね。前回お話しに上がった三万円のものです。そちらでよろしいですか?」
「セラミックにするつもりで来たんですが……」
「そうなんですね。例えば本日施術する二本のうち一本をセラミック、もう一本をハイブリットにすることも可能です。先生をお呼びしますので、詳しい内容は先生とご相談ください」

 そう言って歯科衛生士は引っ込んでいった。入れ替わって扉の奥から歯科医師が現れる。日に焼けた腕が白衣に映える。休みの間にどこかに行ったのだろうか。高級取りで休みも多い。どちらも望むべくもない私は羨望の眼差しで見つめる。その視線が妬ましいものに変わらないうちに目を逸らす。

「こんにちは、斉藤さん。よろしくお願いします。セラミックとハイブリットで迷われていると聞いています。奥の方の歯はすり潰す歯なのでセラミックがオススメです。手前の歯はハイブリットで良いと思います。ですがやっぱり劣化は出てしまうので、そこだけはご承知おきください」
「分かりました。では奥の歯だけセラミックでお願いします」
「かしこまりました。では今日は二本ですね。お値段ですが、治療した日に半額、その次のご来院で半額頂戴いたします。クレジットカードでの支払いも可能です」

 クレジットカードが使える上に半額でよかったと胸を撫で下ろす。だけどよくよく考えるとそれは初回だけの話で、二回目以降は結局全額払わなければならない。カード支払いにして翌月に持ち越して、その猶予の間に単発のバイトを入れて凌ぐ生活が待っている。

 椅子が倒される。倒された椅子の上で手を組んで待つ。まるで俎上の鯉。されるがままに待っている。

「まずは今の詰め物を外して虫歯の部分を染め上げて削ります。今日は型を取って、仮詰めします。一週間後に工場から届きますので、来週詰めますね」

 はい、と相槌を打つ。逆光の中、スタイリング剤で撫でつけられた髪がLEDライトに照らされ艶やかに光った。

「お口いててくださいね〜」

 開けた口の中に綿を詰められ、歯茎に麻酔を塗られる。施術を受けている間、私は常に指を組んでいる。まるで祈るように。痛みを覚えた時にだけ、込める力は強くなる。だけど今日はその後に注射されたか分からないほどに痛みを伴わなかった。

「開いてください」
「閉じてください」

 交互に繰り返される指示に従う。まるで機械にでもなったようだ。今日も歯は抉られ削られ、風を当てられ雨に穿たれる。歯に当たった水が跳ね返り顔に掛かる。

 将来的に虫歯のリスクが抑えられるなら、一時的な出費は痛くてもトータルで見れば安く上がるはずだ。そう言い聞かせた。本当は見栄のためだった。歯を治すこともできないなんて思われたくなかった。最早意地だった。

 会社側はセラミックの歯を求めている。丈夫で周りに虫歯を作らず、本物の歯と変わらない見た目の歯をいかに安く買い叩くか。だから会社は新卒採用に重きを置く。混ぜ物の入った歯は結局周囲に悪影響を及ぼす。だからセラミックより安くないと買ってもらえない。セラミックを買える財力を持つ会社は、きっと全てをセラミックで置き換えるだろう。

 セラミックではない私は、必然的にそこそこの企業に収まることになる。セラミックまでは買えないけど、あからさまな保険適応の色の歯は買わない程度の、そこそこの企業に。少なくとも保険適応の歯ではないはずだ。周りに溶け込む努力はする。それでも周りが傷んだら……それは果たして私だけのせいなのだろうか。

 生まれたての子供の口の中に虫歯菌は存在しない。乳歯が生え揃う三歳頃まで気を付ければ、親からの感染は避けられるという。もしも元から虫歯菌のない口に所属できたら。その時はこんな悩みを抱くこともなくなるのだろう。

 私はドロドロとした感情ごと、うがい台に吐き出した。

 歯医者を後にして郵便局に向かう。もうすぐ未記入の履歴が三十行になってしまう。データを連携させた家計簿アプリでも残高は確認できるが、アナログでデータを残しておく癖は消えない。これまでの給与明細や源泉徴収票のデータも、退職前に印刷して残してあった。

 まるで成績表のようだった。優良可で表すなら、大抵可で、時折良がある程度だった。優を取ったことなど一度もない。同じように不可を取ったこともない。だからこそ契約は続いたのだろう。正社員登用には至らなかったが。

 ATMが通帳に記帳する音は、どこか歯を削る音と似ている気がした。ページには無数の出金履歴が残されている。入金履歴は前の会社の有給消化分だけだ。生きている以上出金ばかりが増えていく。来月には歯の請求もこの行列に仲間入りするだろう。やがて機械は記帳を終えて通帳を吐き出す。私はそれを鞄の中に仕舞い込んだ。自動ドアを出たはずなのに、私自身を削り取っていく音が耳にこだまして消えなかった。

 時刻はまだ午前十一時を過ぎたばかりだった。歯医者に行くために何も食べずに家を出た。この暑さでは調理をする気にもなれない。空腹を満たして早く横になりたい。

 郵便局を出てすぐ目に付いたつけ麺屋に入った。初めて入る店だ。いらっしゃいませ、と人の良さそうな店主と券売機が出迎える。メニューを一瞥し、女性向けだという魚介つけ麺のボタンを押す。

 店内には私一人しかいない。開店したてなのだろう。店主に案内されるがまま厨房から様子が伺いやすい正面の席に座り、勧められるがままにほとんど稼働していないSNSを開き、店のアカウントをフォローした。渡されたトッピング無料券をそのまま店主に渡す。テーブルにはIHコンロが置かれていた。セットで付いてくるライスを入れて〆にするようだ。

 しばらくして注文の品がテーブルに置かれた。温かいうちにと口に運ぶ。麺を細く噛みちぎり、レンゲでスープを流し込む。口の端から汁が零れ落ちた。

「よかったらこれ、使ってください」

 店主が白い不織布を差し出した。礼を言ってテーブルに散った汚れを拭く。

「あの……エプロンです」

 困ったような笑顔で店主が指摘する。軽く会釈をしてそれを身に纏う。もう店主の顔を見ることができない。羞恥心が身体を支配し、私は頭をもたげる。

 不意に痛みはないのに噛んだ感覚がして、麻酔がまだ効いていることに気付いた。通りでいつもより食べづらい訳だ。どうしてあと何時間は食事をしないでと言ってくれなかったのだろう。

 口元を押さえながら咀嚼を続ける。味付けが薄いのか、舌にも麻酔が効いているのか分からない。厨房の奥から店主が注ぐ視線が私の一挙手一投足を射抜いて、より味を分からなくさせる。

 最早麺はゴムのような食感がするのみで、何の味もしない。ガムを噛むように咀嚼を続ける。時々犬歯が唇の内側に穴を穿つ。上手く閉じられずに汁が飛び散る。口元を押さえながら皿が空になるのを待つ。その間にもいくつもの穴が穿たれた。

 扉から音が鳴り、客の来店を告げる。いらっしゃいませと言いながら店主が入り口へと向かっていく。視線が外れてようやく息を吐く。正常時であればありがたく受け止められる高い接客レベルの気配りが、今は素直に受け止められない。受け止める側が穿っているだけで、店主に落ち度は何一つないのに。

 空になった器をわきによけ、スープをIHコンロに掛ける。その間に席を立ちお手洗いへと向かう。鏡で歯を確認する。穴を穿たれた二本の歯に跨って、白いゴムのようなものが詰められている。工場から新しい歯が届くまでの一週間、仮の詰め物を付けたまま生活をしなければならない。

 歯の内側、舌に当たる部分がザラつく。液体を流し込むタイプの風呂場のパッキンに似ている。十分に流し込まれたそれの表面は滑らかだが、僅かに飛び散ったそれに気を取られ、無意識のうちに舌を這わせている。舌の先がザラついた詰め物に晒され赤く腫れ上がっている。それでも舌先で舐めるのを止められない。

 唇を捲ると、左側に無数の穴が空いていた。麻酔で口内の感覚が鈍り、食べ物と一緒に噛んだ痕だった。今は痛まないが、麻酔が切れたら痛み出す予感がした。麻酔をかけて麻痺をさせ悪いところを削り取ったつもりが、自身が穿たれる結果になる。まるで社会構造のようだ。政策を間違ったツケが労働者に、巡り巡って経済に打撃を与えていることに気付きもしない。いつか麻酔が切れて、その痛みを知る日が来るのだろう。私は鏡に踵を返し、席へと戻った。

 席を立っている間に沸騰したコンロを店主が止めてくれたようだ。器に米と卵を入れて混ぜる。既に空腹ではなくなっている。小ライスにしておいてよかった。温まったそれを口に運ぶ。熱いそれが傷口に触れたが、今は痛みを感じなかった。一口二口とレンゲを口に運ぶが、やがて来る痛みに怯え完食することができないまま席を立った。

 店主は皿の中身を見る素振りも見せずに、見送るためにいそいそと厨房の外へ出る。労働に対する対価を支払えずに申し訳ない気持ちになる。働く上で必要な対価は金銭だけではない。自らが提供した物によって価値を生み出すことへの喜びが伴って然るべきだ。飲食店で働く人は客の美味しそうに食べる顔であったりごちそうさまという言葉を求めているはずだ。私は前者を提供できていない。

 単調な事務の仕事であってもやりがいがなければ続けられない。私がやっている仕事は社会の役に立っているのだろうか。給料に見合うのだろうか。いや給料はもっと高くて然るべきだ。金銭を支払ったら何をしてもいい訳ではない。食事を残すことへの罪悪感も、金銭と引き換えに得た糧であれば全て腹に収めたい浅ましさも、今の私の許容範囲を超えている。

「ありがとうございました。またお待ちしています」
「ごちそうさまでした」

 深く頭を下げる店主を尻目に、そそくさと店を出て家路を急いだ。耳鳴りのように繰り返されるATMの音が、蝉の声と一緒になって頭の中で鳴り続けた。

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