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小説 | テセウスの歯 #4

第4話

「また新人が辞めた。最悪」

 辞めた会社の人のSNSをチェックしていると、そんな一文が飛び込んできた。私自身は見る専門でほとんど投稿をしないが、唯一IDを交換した先輩の関連か表示された「知り合いかも?」アカウントのアイコン。オフィスのデスクに置かれた鞄とぬいぐるみの写真に見覚えがあった。我ながら不健康なことをしていると思う。

 写真と内容を加味し確信する。私が辞める遠因にもなった後輩だ。新卒正社員として私の数年後に入社し——その時点で私より初任給が高かった。良くも悪くも自分に正直で、裏表がないが故に無神経だった。彼女は人によって話題を変えるということをしない。関西育ちだという彼女のもっぱらの関心はお金のことにあり、契約社員の私がいる場でも、ボーナスの話をしたりする。

「少ないですよねぇ?」

 その言葉に曖昧に微笑む私のことを気にかけることもなく、彼女はフリマアプリで買ったお陰で三万円も浮いたと言うブランド物のバッグをピッタリと横につけ、家賃が高い、給料が低い、ボーナスが低い、待遇が悪いと愚痴を言い続ける。

 関西は商人、関東は武士と言う。関西ではいいものをいかに安く買ったかが誇るべき事柄である。一方、関東はいいものを買うだけの収入があることがステータスとされる。つまりいいものを安く買い叩いたと吹聴する彼女は、関東圏にある会社では異質なものとして扱われていた。

 この人は私の給料も知らなければ、契約社員にはボーナスが出ないことも知らないんだろう。私はずっと契約社員で働いていて、人生で一度もボーナスをもらったことがない。彼女の話を聞いていると契約社員でいることが惨めになってくる。だから正社員になりたい。だけどこの会社で正社員になったとして年下の彼女より給料は低いままで、結局既婚社員のフォローにまわされ、結婚しても家を買ったら単身赴任させられる。金銭面では契約社員よりは安定しているかもしれないが、それは正社員の立場を担保にして社命の遂行を絶対にするもので、結局会社にとって都合よく動ける人材を確保するための行為だ。要するに足元を見られている。

 辞めた会社の求人を見る。私の時よりも条件が上がっていた。それでも人が定着しない理由を、あの人たちは未だに理解していないのだろう。格差があるのは仕方がないとしても、せめてそれを自覚させないでいてくれたら。社会は変えられなくても、会社なら変えられるかもしれないのに。我慢を強いる役員の報酬は一体いくらくらいなんだろう。

 定年退職まで勤め上げるなんて今や少数派だ。置かれた場所が悪ければ河岸を変えればいい。提示された条件にノーを突きつけていけば、使い捨ての人員の相場だって上がっていくはずだ。だけど底値でも職を求めないと生きていけない人が後を絶たない社会だから。私たちは自らの相場を下げて、切り詰めて生きていくしかない。

 ノーを突きつけなければ社会は変わらない。だけどそれを続ける度に自分の経歴に傷がついていく。自身の経歴を傷付けてまで社会全体を思いやれるような余裕は、もうない。

 次こそはホワイト企業を、と願って求人を探す。今度こそは正社員で、と願うけど、書類が通るのは派遣ばかりだ。少しでも粘ろうと土日には単発のバイトを入れて、平日は転職活動に励む。辞めた直後の解放感なんて、もうどこにもない。すり減っていく通帳の残高が、そのまま心の余裕を示していた。

 ユートピアを探すけれど、この世界そのものがディストピアだ。どこに行っても変わりはしないのかもしれない。三十代を目前にした未婚の女に、社会は冷たかった。

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