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小説 | テセウスの歯 #5

第5話

 野外で働かなくてはならない日に限って空は晴れ渡っている。ここのところ土日にイベントスタッフの単発バイトを入れている。土日休みの企業を選んで受けているため、転職活動は平日で完結する。仮に土日に面接する会社があったとしても、休日出勤もあり得る企業だと言うことだ。その時点で志望度は下がる。

「誰にでもできる 履歴書不要 単発バイト」

 決め手はそんな煽り文句だった。私はもう疲れていたのだ。仕事を探すことに。何より履歴書を書くことに。家にプリンターはなく、印刷するにはコンビニに行く必要がある。パソコンもスペックが低く、稼働まで時間が掛かる。単発の仕事にそこまでの労力を割きたくはない。

 ライブ会場は大抵アクセスの良い場所にある。駅から程近い集合場所で点呼を受け、引率のスタッフに従い歩を進める。人の群れは運動会の出し物に出場する生徒のようにも見え、課外学習や遠足の様相だ。然程時間は掛からず開けた場所に辿り着く。

 スタッフTシャツと関係者札を配布される。Tシャツの真ん中には今日ライブをするアーティストのユニット名が印字されていた。字面は見たことがあるが読み方が分からない。有名な韓国の男性アイドルグループらしい。Tシャツを受け取った若い女性が黄色い声を上げるのが聞こえる。

 イベントスタッフは当日に作業を割り振られる。私はグッズの販売とその設営に割り当てられた。ライブ自体は屋内だが、グッズの販売は屋外だった。

 先導されてたどり着いたテントの下、指示に従い見知らぬ人と長テーブルを設置する。私とペアになったのは学生の男の子だった。いくつもの机を開いては並べる。この間無言である。仮詰めも気になるし、噛んだ場所が口内炎になり、喋る度に歯に擦れて痛い。正直話さずに済むのは助かる。ただ労働力を求められているのだと思えば心地よかった。

 会社に所属すると途端に労働力以外も求められるようになるのは何故なのか。仕事が円滑に進むように最低限のコミュニケーションを取るだけでは何故いけないのか。店と客の関係なら分かる。物だけではない付加価値を提供する代わりに金銭以外の対価があって然るべきだ。同じ会社ではそれぞれの仕事を全うすれば、会社は回るはずではないか。首の下で関係者の札の影が捩れて揺れた。

「社員の方ですか?」

 一番奥の机を設置し終えた後、不意に若い女の子二人組に話し掛けられた。髪型もメイクの仕方も似せているのか、双子のようにも見えた。背が高い方が僅かに細いか。首から関係者の札が掛かっている。

「いえ、バイトです」
「あー、じゃあリピーターですか?」
「いえ、初めてです」

 会話が続くと思っていなかったので思わず身構えてしまう。店員と客、面接官と応募者以外の立場で会話すること自体が久々だった。

「学生じゃない人あんまいないんで社員さんかと思って。指示聞こえました?」
「今テーブル設置し終えたところで……。次の指示ありましたか?」
「あー、ウチらも奥の方で作業してたから聞こえなくて。皆向こう行ってるんでとりあえず向こう行きます?」
「じゃあ、ぜひ」
「おにーさんも来ますよね?」

 後ろを振り返ると、先程共にテーブルを広げていた学生が目に入る。彼は無言で頷き、即席の四人パーティーができあがる。

「ウチら普段からイベントスタッフやってるんですよぉ。おにーさん初めてですか?」

 青年は無言で頷く。彼がそれ以上何の反応も示さないのを見て、彼女たちは標的を私に変えた。無理に話し掛けなくていいのに。

「ウチらこのグループ推してて、でもチケット落ちたんですよ。それで単発バイト探したらこの日にち、この会場推しのライブじゃんって。少しでも近くの空気吸いたいし、聴こえたら嬉しいし、何よりイベントスタッフ限定のTシャツに推しの名前入ってんすよ。ウチの推しがハジュンでこの子の推しがソジュン。最高じゃないすか? 知ってます?」
「いえ……」

 話す度に口内炎が痛みを増していく。痛みから意識を逸らそうと詰め物を舌でなぞる。元の歯の滑らかさからはみ出したざらつきが舌先を擦り下ろす。

 女子二人はその後もグループの推しどころを語り合い、私は相槌を打ちながらただ後ろに着いていく。まだメンバーの見分けは付かないけれど、彼らが何人組のグループでどう言ったルーツを持つのかは何となく把握できた。

 その間もずっとザリザリと詰め物を舌でなぞり続ける。ここ数日ずっとそうだ。仮詰めが取れるまで右側でしか噛むことができない。左側の表情筋が死んでいくのを感じる。歯の詰め物を何度も何度も何度も舌でなぞるその度に、顔のバランスがどんどん歪んでいく。初めは軽微な歪みも、徐々に表面化して、そして。

「ってかおねーさん、何でそんな変な顔してるんですか?」

 突然女子のうちの一人が振り返り問い掛ける。誰も私のことなんて見ていないと思っていたので、急に羞恥心が湧き上がる。俯いて落ちて来た髪を耳に掛けた。

「歯の仮詰めが気になって。ごめんなさい」
「あーなるほど。よかった。ウチらの話つまんないのかと思った」
「いえ、そんな……」

 確かに興味はないけれど。

「とにかく推せるグループなんで。おねーさんも帰ったらMV見てください。マジいいんで。おにーさんも」
「……俺は知ってますよ。妹が好きで」
「えー! 早く言ってくださいよ! 語っちゃって恥ずかしい」

 二人は口に手を当て驚きを表すと共に、手のひらで顔を仰ぐ仕草を見せる。細い指先の色だけが違うことにようやく気付く。二人は推しが違うのだろう。

 二人組は最早私など眼中になく青年と会話を始める。青年がポツポツと語るには中学生の妹がファンで、ライブに行きたいが夜だし親が許してくれない。ライブTシャツが欲しいけど交通費だけでお小遣いが全部なくなる。フリマアプリでライブTシャツを探していたらイベントスタッフ用の非売品Tシャツが出品されていた。だからイベントスタッフのバイトをするように頼み込まれたらしい。

「えー、めっちゃいいお兄ちゃんじゃないですか。私もおにーさんみたいなお兄ちゃん欲しかった」
「あんたんとこのお兄ちゃん絶対そういうことしてくれなさそうだもんね」
「ほんとそれ。使えねーわ」

 ゲラゲラと響く笑い声に混ざれないまま、曖昧に微笑む。左側が上がらずに右側だけが引き攣る。さっきまで空気だったはずの青年は話題の中心となり、二人組に次々と話を振られ淡々と返事をしている。私は勝手に裏切られたような気分になった。彼が労働力以外の手札を持っていたことに。それが彼の長所であり勝手な僻みだと言うことはもちろん理解している。それでも居心地の悪さは拭えなかった。

 ようやく統括するスタッフのいるところに辿り着く。これで彼女たちと話さなくていいと思えば少し気が楽になる。

「すみませーん、机の設営終わったんですけどこれ運べばいいですかー?」

 爪が青い方の女子が指差す先には大量の段ボールが積まれている。中にはグッズが入っているのだろう。

「お願いします。机と箱に番号が振ってあるので、番号ごとに置いてください」
「はーい」

 間延びした声を響かせながら、二人はミニキャリーに乗った段ボールを運び始めた。私と青年もそれに続く。重さがある訳ではないが、アスファルトの上では車輪が引っ掛かり真っ直ぐ進むのが困難だった。見かねた青年が自分のミニキャリーを横に置き、持ち上げてくれる。

「ありがとうございます」

 お礼を言うと彼は小さく会釈をし、何事もなかったかのように作業に戻った。慌てて後を追う。

 何往復かして箱を机の番号通りに並べると、統括スタッフから声が掛かる。

「一番前の机にある紙面の通りにグッズを並べます。同じ商品は一箱ずつだけ開けてください。残りはストックになるので開けなくて大丈夫です」

 コの字型に置かれた各机に数名のスタッフが割り当てられる。先程の三人と同じグループになった。近くで作業をしていたから仕方がない。それも今日明日耐えればいいだけだ。拡声器で伝えられる指示通りに作業を進めていく。私と青年が箱を開け、女子たちはテキパキと商品を並べていく。

「あ、ここ逆だわ。おねーさん、ハジュンのTシャツとってください」

 不意に依頼され開けたばかりの箱を覗き込むが、それが誰なのか分からない。番号が振られているのにどうして番号で言わないのだろう。箱の側面に記載された文字を読んでいると、横から声が掛かる。

「あ、それはソジュンのです。ハジュンはその隣。おにーさんが開けた方」

 彼女がおそらく推しカラーで塗った爪で指差す。その先のグッズは文字の色が違う以外には微妙な差しかなく、素人目には判別できない。裏を向けて番号が合っているかを判断する。バーコードの文字列を確認しているとわざとらしい悪態が、敢えて聞こえるように言ったのだと分かるそれが耳に入る。

「……推しだって言ったじゃん。間違えるとか気分悪いわー。分かんないならこんなとこ来んなよオバサン」

 不意打ちの攻撃がクリーンヒットした。まだ学生時代が記憶に新しく、まだ自分は若者であるとどこかで思っていたのだ。だけど彼女たちと私の間には大きな溝がある。昔から、アイドルには明るくなく、時代遅れの烙印を押されていた。だがその頃とは違い、今は外見の問題も含まれている。汗をかくだろうからとナチュラルメイクだし、似たような格好をしていたら肌に年齢が出るだろう。直接言葉をぶつけられると想像以上のダメージを食らった。

 その後彼女たちとは必要最低限の会話を交わすのみで、雑談を振ってくることもなかった。周囲を見渡すと確かに学生がほとんどで、興味がなくても今日扱う商品についての知識は一通り揃えている様子だった。

 ……誰にでもできる仕事じゃないなら、そう書かないで欲しい。

 詰め物を舌でなぞる。歯の上に被せられたそれはいたるところがはみ出し、不恰好に穿たれた穴を覆っていた。自身の歯からはみ出た部分は、たとえどんな機能を持っていたとしても異物でしかないのだろう。社会人経験だとかそんなものは何の役にも立ちやしない。

 早く次の指示が欲しい。なるべく時間の経過が早く感じられるような仕事を。だけどこの単純作業の連続でしかない労働にそんなものは望むべくもなく。居心地の悪さを詰め物の座りの悪さにすり替えているうちに、「あ」詰め物が外れた。

 剥き出しにいなった自分の歯を舌でなぞる。内側の上がやや欠けているが、大きく削られた中央は意外と滑らかで、噛み合わせを除けば従来の歯と変わらない。ただゴムのような仮詰めが取れ切らず、舌で触る度に浮き上がった。それは水を飲んでも食べ物を食べていても浮き上がるだろう。煩わしくなった私は残る歯の方を押さえ、浮き上がった部分を引きちぎった。

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