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小説 | テセウスの歯 #10

第10話


「今日は反対側を前回と同じように型取りしていきます。まずは塗る麻酔から始めますね」

 四回目の歯医者ともなれば慣れたもので、言われる前に口を開く機械と化す。麻酔が効くまでの待機時間、目を閉じて一息吐く。

 左側の口内炎も腫れが引き、傷口こそ残るものの痛みはほとんどなかった。あんなに何度も、何十回も重ねた傷なのに、口内の自然治癒能力の高さは驚異的だ。会社を口に、歯を社員に例えるなら、歯が一矢報いてもきっとすぐに修復されてしまうのだろう。なのに環境は改善されやしないのだ。

「斉藤さん、一番奥の歯なんですが、前の詰め物の一部が取れてしまっていて、その内側に虫歯が広がっています。もしかなり内側まで入り込んでしまっていたら、最悪神経を抜く可能性もあります。それは削ってみないと分かりません。かなり沁みます。なので今日は麻酔を増量します」

 はい、と返事をして再び口を開ける。痛みも何もなかったからそんなに酷いことになっているとは思わなかった。だからこそ定期的な検査や抜き打ちの監査が必要なのだろう。

 学生の頃働いていた飲食店に労基署の監査が入ったことがある。直接店に入った訳ではないが本社に監査が入り、契約時間と実労働時間の差異を指摘されたらしい。学生の私には関係のないことだったが、店の雰囲気が慌ただしくなったことを覚えている。

 普段長く働いていた主婦層のパートさんたちが契約時間を遵守するために労働時間を削られ、代わりに学生がたくさんシフトに入るようになった。当時は就活が終わったばかりで暇だったので、一人暮らしのための資金を稼ぐことができるとたくさんシフトに入った。

 今にして思うと、本来は契約時間に合わせて労働時間を減らすのではなく、実労働時間に合わせて契約を変更するべきなのだと理解できる。彼女たちにも生活があり、与えられた仕事を果たしているのに。会社も社会も、「そうじゃない」という方向に舵を切る。人を守るための制度が人によって捻じ曲げられ、人を苦しめる。そんな様子をずっと見てきたのだ。そして今弱者の側に、苦しめられる側に立っている。

「そろそろ麻酔が効いてきたと思うので倒しますね」

 歯科医師が椅子を倒し、口の中に細いドリルのような機械が差し込まれる。私の口内環境にメスを入れるように。

「風と水が出ます」

 水圧で汚れを落とし乾かした後機械を押し込まれ、振動が歯から骨へと伝わってくる。既に嵌っている古い詰め物と本物の歯の間に圧力がかけられ、ドリルの音が悲鳴のように響く。祈るように指を組むが、刺すような痛みに耐えきれずに肩がビクリと跳ねる。

「痛いですか? 今日はこの後一番奥の歯に取り掛かるので、麻酔追加しますか?」

 はい、と答え再び麻酔を受け入れる。麻酔が効き始めるまで作業は中断される。鏡を見ずとも分かる。ただされるがままに横たわっているだけなのに、疲労の色が濃い。同じ工程があと二本残っている。そしてその後には更に痛みを伴うであろう、元の歯を削る工程が残っている。

「施術を再開します」

 歯科医師が先程と同じようにドリルを押し当てる。だが先程のような痛みはない。圧力と振動だけが伝わる。

「痛みはありませんか? もう少し口を大きく開けてください」

 はい、と頷いて私は目を閉じ、指を組む力を弱める。大きく口を開けると、強張った体が徐々に弛緩していく。まるで俎上で鮮度を失う魚のように、全身が重力に従い椅子に密着していく。

 本物の歯と変わらぬ働きをしてきた詰め物は役目を終え、カランと音を立てて金属のトレイの上に乗せられた。続いて他の二本の歯にも同じように機械が押し込められ、先程まで自分の一部だったものが切り離されていく。詰め物には当然痛覚がない。ならば痛むのは元の歯だ。いつだって残される方が痛みを抱く。

「古い詰め物が綺麗に取れました。これから虫歯を染めて削っていきます」

 口の中がショッキングピンクに染まっていく。歯科衛生士が細いホースを差し込み、ピンク色の唾液を吸い上げていく。吐き出された唾液はいつもうがい台をケミカルな色に染め上げ小さな飛沫を上げているのだろう。子供の頃は甘く感じたのに、と郷愁に耽っていたが、気になって調べたところ、どうやら子供向けのものだけ甘い味をつけられているらしかった。

 先日、虫歯がないことが自慢だった母が二十年振りに歯医者に行ったら、見た目が綺麗なだけで実は虫歯があったのだと言っていた。口内炎を理由に電話をしなくなった代わりに、文字でのメッセージのやりとりが始まった。

 一人で家から出ることが難しい母は、人一倍健康に気を遣って生きてきたのだと思う。虫歯に気を付けたのもそれが原因だったのだろう。母が事故に遭った頃、私はもう小学校の中学年で、そう言った意味ではもう手が掛からなくなっていた。もしそれが保育園や幼稚園に通う頃だったなら、母の手によって徹底的に磨き上げられたに違いない。

 仮にそうなったとして、私の口の中から全ての虫歯を根絶するのは不可能だっただろう。田舎で生まれ育った父が、古い価値観のままアップデートされていない祖父母と一緒に暮らして、幼子に虫歯菌を移さずに生活するなどできようはずもなかった。

 機械は私の歯を細かい破片にしながら掘り進んでいく。歯科医師は色の着いた部分を削り終えると、再び歯を染め上げた。そうして染まらなくなるまで同じ工程を繰り返す。やがて全ての歯を削り終わると、私の口に水気を含んだガムのようなものを入れ型を取る。

「痛みはありませんか? 削り終わったので型を取ります。固まるまで噛んでてくださいね」

 そう言って歯科医師は奥の部屋へと引っ込んでいく。私はなるべく普段通りに噛むことを意識する。数年前に型取りした時、私は奥歯をぐっと噛み締めてしまった。そうしたら上の歯と下の歯が噛み合わなくなった。下の歯の背が低くなってしまったのだ。今回一番虫歯が進行していたのはその歯だった。

 固まる前の柔らかいものはどんどん口の内側へと侵食してくる。飲み込まないよう必死に耐えるうちに、徐々に固まっていく。やがてタイマーが鳴り響き、歯科医師が戻ってきてガムのようなそれを外す。

「綺麗に取れました。こちらを工場に送って新しい歯を作ってもらいます。今日は蓋をして終わりです。ただ今日は斉藤さんにお伝えしておきたいことがあります。一番奥の歯なんですが、半分ほど削ることになりました。半分以下なら詰め物になるのですが、これは被せ物の扱いになります。被せ物だと本来は倍近くお値段が掛かるのですが……」

 ヒュッと息を呑む。詰め物の段階でも十分に高いのに。生活を脅かすほどに。終わってから言われても困る。歯科医師はかぶりを振って先を続ける。

「安心してください。今回は詰め物の範囲で何とかしました。ですが半分以上削るほど進行していたことは覚えていてほしいです。麻酔が切れた後痛むようなら別の処置が必要になります。もし万が一痛むようならすぐに連絡してください」

 私はほっと胸を撫で下ろし、はいと返事をする。今の私にはこの後歯が痛むかどうかよりも、追加でお金が掛かるかどうかの方が重要だった。

「では今日は仮詰めをして終わりになります。来週はお盆休みになるため、二週間後にご来院ください。お大事に」

 歯科医師は踵を返し、取り巻きの歯科衛生士が処置に当たる。三つの歯に跨って、前とは反対の歯に仮詰めが被せられる。歯科医師はサラッと言ったが、前回は一週間経つ前に外れてしまったのに、今回は二週間を仮詰めのまま過ごさなければならない。それだけが不安だった。

「椅子を上げます。うがいしてください」

 長い処置を終え、ようやく半身を起き上がらせる。重力が身にのしかかる。薄いピンク色の水が、渦を巻いて吸い込まれていく。

「違和感はありませんか? ……仮詰めなので多少はあると思います。特に噛み合わせに問題がなければ処置は終わりです。お疲れ様でした」

 有無を言わさぬ口調に追い立てられ、鞄を抱え受付へと戻る。

「斉藤さんお待たせしました。本日のお会計ですが、九万——円です」
「クレジットカードでお願いします」
「お支払いはご一括でよろしかったですか?」

 ふと思い立って聞いてみる。

「ボーナス一括払いとかできるんですか?」
「あ、えっと……。確認しますね」

 ボーナスなんて受け取ったことはないし、貰える予定もないけれど。少しでも支払いを先送りにして現金を残しておきたい気持ちがあった。受付の女性はすぐに戻ってきた。

「すみません、一括しかできないみたいです」
「じゃあ大丈夫です」
「それではこちら領収証とクレジットの控えです。来週がお休みなので、再来週の予定はいかがですか?」
「何曜日でも大丈夫です。午前中なら」
「ではこちらのお日にちいかがですか?」

 提示された日にちを確認し、その日に予約を入れる。受付に置かれたカレンダーには連休の前後に赤字で休みが記入されている。私の口内環境のことなど関係ない。休みが自由に設定できるのが、個人営業の利点なのだろう。その分責任も伴うだろうが。

 会社勤めが嫌でフリーランスになった人が、年中無休になってしまった話を時折耳にした。一度フリーターになったら二度と正社員に戻れなくなった話も。経営者でなければ、一度休みを取れば個人の責任となってしまう。

 無理だ。経営者になんてなれない。別にやりたい仕事もなければ、お金持ちになりたいなんてこともない。ただ、一人で自立して生きていきたい。それだけなのに。

 早く楽になりたい。家に着けば体を休めることはできる。でも見通しが立たないと心は休まらない。何の気兼ねもなく決められた休みに休めるようになりたい。

 日傘を差して家路を目指す。刺すような日差しが葉の間を通り抜け、木漏れ日がはっきりと地面に映し出される。夏が終わりを迎える気配は、まだない。

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